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Re[30]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/31(Sat) 17:54:11)
| No45258のA1,A2について考えてたのはいいとして。たぶんだれも興味ないと思うし、わたしに分かればいいんだし。
わたしの言う〈自〉について、わたし用に整理しとくことにしたよ。
@〈自〉→生のための〈欲求・情(快/不快)〉の領野 ってしてして見たんだけど、もうちょっとちじめて、〈生・欲・情〉、もっと簡単に〈生欲〉しよっかな、って。 「欲望」っていう語にしようかとも思ったんだけど、人によってそのイメージ、さまざまだと思うから結局いまんとこ、 A〈自〉→〈生欲〉 ってすることにしたよ。 ちなみに「生欲」っていう語をネットで調べたんだけどなかった。わたし勝手な用語ができた気分でなんかちょっと嬉しい。 Bこのような〈生欲〉を精神(意識)における〈原初自然な固有領野〉ってして見てる。 このようなの No36861からも来てるよ。 C〈生欲〉は、外界への志向性でもあるのね。 D〈生欲〉には、2つあって、〈自然的〉と〈文化的〉、前者は〈身体〉に関するもので、後者は〈社会的〉ってして見てもいいかな。
だいたいこんなイメージ。
前にも書いたけど、
アリストテレスの『形而上学』に『すべての人間は知ることを欲する』っていうのあったけど、“欲する”よね。このばあい、〈生欲〉が「知ること」になってる、って見るわけね。 あと、 『善悪の彼岸/ニーチェ著/木場深定訳/岩波書店1970』 自由な精神 三十六に、 『実在的に「与えられて」いるのは、われわれの欲望と情熱の世界より他の何ものでもなく、・・・』 の『欲望と情熱』を〈生欲〉ってして見て、ニーチェも精神(意識)の原初源泉的なものとして〈そのようなもの〉を見てるのかな?って。
メルポンの No41741(M-P)の中に、 (M)―――――――――――― 最後に、今しがたわれわれは、生物学的存在は人間的実存と噛み合わされ、その固有のリズムと無関係ではないと、述べた。とはいえ、『生きる』(leben)ことこそ本源的な営みであって、そこからしてしかじかの世界を「体験する」(erleben)ことが初めて可能になるのであり、われわれは知覚する前に、そして関係的な生活に入るに先だって、まず飲食し呼吸せねばならず、また人間的諸関係の生活に入る前に、視覚によって色彩と光に、聴覚によって音響に、性感によって他人の身体に臨んでいかなくてはならないことに変わりはないと、われわれはここに付言しておこう。 ―――――――――――――p269 っていうのあるのね。 こういうのから、『生きる』っていうことにおいては〈原初自然な固有領野(生欲)〉が存在してる、ってわたしには思われてるわけね。 この領野を下等、低級なものとして見るばあいもあるかもだけど、わたしのばあい、生のためには必須なものとして、その上にコギトも成り立ってる、って見てる。
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