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Re[19]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/10(Sat) 18:27:44)
| No45122のようななかで、わたし勝手なのを。
No45090で見たような、 (a)反省のとき、自我は分離(分極)している。 No45111の(さ)、 (b)〈原自我は〉本来的には自我と呼ばれるべきではないし、断じてそう呼ばれてはならない。 みたいなのから、いいこと思いついちゃったのね。
(a)から、「自我」を〈自〉と〈我〉に分けて見た(ae)のね。 あと、「(Hu)純粋自我」を〈我〉、「(Hu)原自我」を〈自〉ってして見たのね。
反省のとき(たぶん反省してるのは〈我〉の方)、「自我」は分離(分裂・分極)するんだし、(b)から、「(Hu)原自我」は自我と呼んじゃダメみたいだし(だったら別の呼び名にすればよかったのに〜!ってわたし思うんだけど、「Ur-Ich」って「Ich(自我)」を使っちゃたのね。ここらへんが分け分かんなくしちゃってるじゃないかしら?)、で、わたし、「(Hu)原自我」の呼び名を〈自〉ってして見て、〈自・我〉は、〈我〉の反省のときに、〈我〉と〈自〉に分離(分極)されてる、ってして見たのね。
このように語で区別して見るとわたしには分かりやすくなってきた感じ〜。あ、もっとも素朴なわたしが日本語で考えてることだから誰も相手にしてくれないかもだけど、まそれはそれでいいけど。 ざっと、 (c)〈我〉((Hu)純粋自我)―――考える我、内的時間意識において構成されるもの、反省によって見出されるもの (d)〈自〉((Hu)原自我)―――匿名的で、反省に先立つ、能動的構成に先立つ、先時間的・無時間的な、未分化性のもの こんな感じのにしとく。
このようなイメージから、 No45062図を、わたしの見方・用語で、わたし用に描いて見たので添付しま〜す。
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