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No32284 の記事


■32284 / )  自覚なき運命
□投稿者/ 時 -(2023/08/05(Sat) 21:33:35)
    パニチェさん、こんにちは。ご丁寧な返信をありがとうございます。

    No32272 No32273

    > ニーチェは最後の審判や死後世界などプラトニズムを代表する背後世界を否定あるいは無記としていることから重要なのは生であり、生は生に自己完結するという実存主義の先駆けでもあります。

    > あと先のアフォリズムにもあったように生の中で『何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と』問いつつ物事を決断し為すべきだ、また絶えざる自己超克を生のベクトルとしないかぎり、この悪魔の問いに耐えられないだろう?というような教訓?挑発?めいた意味も含まれていると思います。

    なるほど。。過去に犯してしまった自ら自覚している罪等、思いとしての消し去りたい罪悪感や思い残しがあるのが人の常だと思いますが、それをも含めて「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いはやはり悪魔的な問いですね。そして、これを問いつつ物事を決断し為すべきだ、また絶えざる自己超克を生のベクトルとしないかぎり、この悪魔の問いに耐えられないだろう?というような教訓ですか。。なるほどとしか表現のしようがないようですね。

    結論的には、過去の過ちは忘れてとか、新たな自身として出発するのだとかではなく、それら過去の出来事や過ちの行為も全て含めての肯定。つまりは全肯定ができればよいという事でしょう。恐らくこれには、二元の世界観から脱し、まずは、一元の世界観を獲得しなければ不可能だろうと思います。そしてこのこと自体は、可能か不可能かと問われれば、可能だと答えるでしょうか。そう思います。

    原始にも、アングリマーラという殺人鬼が最終的には阿羅漢果として解脱するお話がありますが、もしもアングリマーラに悪魔が「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と尋ねたとしたら・・・きっと無言で立ち去りそうですが。(笑)

    > 『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』

    ありがとうございます。ここで印象深いのが「いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。」というところです。心の片隅で、ニーチェは自由意思についてどのように考えていたのだろうか?という思いもありましたが、この一文で十分に理解できました。^^自ら何かの行為をした感覚があったとしても、そこには意味は在りませんので、あまり積極的には表現しませんが、私の人生哲学において、自由意思はないと結論していましたので。

    > あと超人に至る精神の三変化という例えがツァラトゥストラで語られます。
    > 駱駝、獅子、無垢なる小児への変化です。

    > 「汝為すべし」というキリスト教道徳を背負い強靭な精神とともに砂漠を行く駱駝は、「我欲す」という雄叫びとともに既存価値との闘争に挑みます、これは本来の自己に回帰するという意味も含まれます。闘争によってかちえた自分の世界にあって、さらなる価値創造のためには「否」という闘争ではなく「然り」という遊戯が必要であるからこそ、シシは子供に変化します。「無垢なる戯れ」とは自己と存在の戯れのことであり、自らが創造した世界では何ものも反対物としては存在せず、自己の存在と万物の存在が一体化する世界となるというような世界観です。

    きっと、なんでもOK!問題ないです!という、何事にも青筋を立てない戯れの世界観、人生観ですね。

    > 超人は指導者というイメージは私にはないです。

    No32218
    >『私の哲学は階序をめざしている。個人主義的道徳をめざしているのではない。畜群の感覚は畜群のうちで支配すべきである。──しかしそれ以上に手をのばしてはならない。畜群の指導者は、これとは根本的に異なったおのれ自身の行為の価値評価を必要とする、同様に独立者、ないしは「猛獣」その他も。(力への意志 第287番)』

    失礼しました。やはり、上記アフォリズムの指導者についての私の誤読です。

    > 動物→人間→超人という進化のベクトルの延長でもある人間の理想的進化系(精神的進化)でもあり、神のアンチテーゼであることから、神とは異なり読者に対して固定的なイメージは強要しません(読者を突き放します)。
    > 但し、方向性というか、きわめて抽象的な表現で神なき次世代の理想的人間像として語られています。

    読者を突き放すというのは、このような意味でしたか。これは、神のような概念的存在にもしがみ付くという事を許さないという意味になるのでしょう。あくまでも独りの人間として自らの生の肯定とともに、自らの足で大地を歩むというイメージになるでしょうか。で、犀の角のようにただ独り歩め。とイメージ的にもなるのですね。

    > 人類を超人へと導こうとしている指導者は、超人の告知者というか予言者としてのツァラトゥストラ(ニーチェの主著でもあるツァラトゥストラという物語に登場する主人公にしてニーチェの分身)です。

    ありがとうございます。了解しました。

    > はい、ニーチェは劇薬という言葉は使ってないです。ただ自分の哲学は『丈夫な歯と丈夫な胃、私が君にのぞむのはこれだ!そうして君が私の本を消化してこそ、私と昵懇になれるのは必定!(悦ばしき知識 たわむれ、たばかり、意趣ばらし54)』と述べており、『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』とも述べており、「読者が書籍を選ぶように、高貴な(大衆迎合的ではない)書籍は、書籍の方からも読者が選ばれる」としています。

    なるほど、ニーチェは、なかなかな表現をするのですね。^^

    その昔からインドでは、多くのものがその教えを求めて聖者のもとに集うが、あなた方が聖者を選ぶのではない。聖者があなたを選ぶのだ。といったことが言われます。その意味するところは、書籍の方からも読者が選ばれるという意味合いと同じでしょう。

    > 「善悪の彼岸」には二つの意味があります。
    > ひとつは言葉としての意味、もうひとつはツァラトゥストラに続いて出版された書籍としての「善悪の彼岸」です。

    > 最初に言葉としての意味を書いてみます。
    > 結論から言えば「善悪の彼岸」とはユダヤ・イスラム・キリスト教的道徳(以降はキリスト教道徳と省略します)を超克した超人が立脚する大地(天を重んじたドグマに対するアンチテーゼで人間が立脚する大地)のことです。

    はい。よく理解できます。当時の宗教的善悪の価値観の基準(ドグマ)を否定した、本来の人間としての立つべき立ち位置という事ですね。

    > 此岸とはキリスト教道徳であり善悪二元論的な倫理観です。
    > ニーチェによればキリスト教道徳は奴隷として生まれついた不幸な民族、ユダヤ人のルサンチマン(弱者が強者に抱く怨恨感情と訳されますが、現代風に言えばコンプレックスから生じる反動みたいなものです)によって生み出された奴隷道徳であると断罪します。

    > 人間によって支配・拘束された自分たちは本来は神に選ばれし民(選民思想)であり、自分たちを支配するのは唯一無二の絶対神であるヤハウェ(ヘブライ語でありアラビア語ではアラー)である。
    > 神からトップダウン的に与えられた道徳観こそ絶対であり、これによれば原罪を背負う生は罪深いものであり、死後に訪れる神による最後の審判によって神の国へ召されることを生の目的や意義とする。
    > 生よりも最後の審判が重要視され、欲望は罪深いものであり(禁欲主義の推奨)、隣人愛が説かれる。

    > これらは本来無垢でありダイナミックであるべき人間の生を委縮させ、言語を有して生まれ、あらゆるものに意味や価値を付与しうる特権的動物である人間を均一化(弱体化)させ家畜の如く飼いならす畜群的道徳(上から与えられる奴隷道徳)であって、福音どころか禍因の元凶とニーチェは看破します。

    禍因の元凶ですか。清々しいほどの表現ですね。(笑)恐らくは、私ならばスルーですが、ニーチェは、自覚なく畜群道徳という運命を背負った人々にモノ言わずにはいられなかったのでしょうか。

    > この彼岸にあるのが君主道徳です。
    > 君主とは高貴な精神の象徴的表現であり、誰に強要されたり与えられるような倫理観ではなく、自らの意志で自らを律する道徳です。
    > 君主道徳が具体的にどのようなものかは最終的には読者に委ねられており、少なくとも此岸的な奴隷道徳のアンチテーゼである方向性が示されているのみです。
    > 私個人的には武士道とか自洲・法洲(自灯明・法灯明)に相通じるものとしてのイメージを抱いてます。

    なるほど。そうですね。自らの意志で自らを律している間(修業中)では、私の場合には、自灯明法灯明が中心に位置するでしょうか。(言い訳として)誰かが何かを言ったからという事ではなく、最終的に他責にするのではなく、自らの意志として何事も決定してくという事ですね。

    > 次に書籍としての「善悪の彼岸」ですが、この書籍はあまりに不評というか無視され続けた「ツァラトゥストラ」の補足として書かれた部分もあり、キリスト教道徳を超克した高貴さとは何かについて書かれた書籍です。この書籍の解説をニーチェ自身が「この人を見よ」で解説していますので、以下に引用しておきます。

    > 『この本(1886年)はすべての本質的な点において近代性の批判である。近代科学、近代芸術、いや近代政治さえも除外されていない。と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的ならざる一つの反対典型、高貴な、然りを言う典型を示唆しようとするものである。この後者の意味においてはこの本は一つの貴公子の学校である。ただし、この貴公子という概念を史上最高に精神的かつラディカルに解していただきたい。この概念に耐えるだけのためにも身によほどの勇気がいる。恐れるなどということを習い知ったらもうだめだ…時代が誇りとしているすべてのものが、この典型に対する矛盾と感じられ、無作法とさえ思われる。たとえばあの有名な「客観性」がそうだ。「すべての悩める者への同情」などというのもそうだし、他人の趣味への屈従、瑣末事』への平伏がつきものであるあの「歴史的感覚」とか、例の「科学性」などもそうだ。(ニーチェ著「この人を見よ」よりの引用)』

    上記の引用文は、難しいですね。今の私では、よく理解できません。

    > PS.時さんのお陰で久々にPanietzsche Roomの第4章インモラリストにこの返信を追加できました。

    何やらお役に立てているのであれば 、喜ばしい事ですね。^^

    最初は、ニーチェという名前くらいしか知らなかったのですが、お陰様で、うっすらとではあるとは思いますが、少しはその概略が理解できたように感じています。その背景にある、当時のキリスト等の宗教における事の善悪の判断基準、道徳基準からの脱却、プラトニズムの批判、自由意思の否定、そして一元的な善悪の彼岸に立つ超人思想。今回も大変勉強になりました。ありがとうございました。m(__)m
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