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No32272 の記事


■32272 / )  時さんへ1>劇薬的アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/05(Sat) 09:46:10)
    2023/08/05(Sat) 18:07:50 編集(投稿者)

    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。

    No32264に返信(時さんの記事)

    > 少なくとも生きている間の私には、死んだあとが永遠回帰なのか輪廻転生なのかは確信をもっては分かりはしないでしょうから、大切なのは今ある生なのだと思います。ニーチェは、仮にという事で悪魔の言葉として・・という事での問いかけですね。

    全くもってその通りです。あのアフォリズムからそこまで読み込める時さんの読解力は素晴らしいです!
    ニーチェは最後の審判や死後世界などプラトニズムを代表する背後世界を否定あるいは無記としていることから重要なのは生であり、生は生に自己完結するという実存主義の先駆けでもあります。

    あと先のアフォリズムにもあったように生の中で『何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と』問いつつ物事を決断し為すべきだ、また絶えざる自己超克を生のベクトルとしないかぎり、この悪魔の問いに耐えられないだろう?というような教訓?挑発?めいた意味も含まれていると思います。

    > 最初ネットで拾い読みをしていた時の第一印象は、ニーチェの言葉等の表現は違っても、最終的なその観念的な世界観は、アドヴァイタの世界観によく似ているなぁというものでした。結論的には、同じところに行きつくという、生の肯定がテーマだったようにも思えます。

    ここもその通りです。前にも返信しかたかもしれませんが、以下のアフォリズムからしてニーチェは静養先で仏教的な見性体験にかすっていると思います。
    このアフォリズムは道元禅師著『正法眼蔵 画餅』ともの凄く似ています(参照:Panietzsche Room > ニーチェU > 第11章永劫回帰 > 3.ニーチェと道元)。

    『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』

    あと超人に至る精神の三変化という例えがツァラトゥストラで語られます。
    駱駝、獅子、無垢なる小児への変化です。

    「汝為すべし」というキリスト教道徳を背負い強靭な精神とともに砂漠を行く駱駝は、「我欲す」という雄叫びとともに既存価値との闘争に挑みます、これは本来の自己に回帰するという意味も含まれます。闘争によってかちえた自分の世界にあって、さらなる価値創造のためには「否」という闘争ではなく「然り」という遊戯が必要であるからこそ、シシは子供に変化します。「無垢なる戯れ」とは自己と存在の戯れのことであり、自らが創造した世界では何ものも反対物としては存在せず、自己の存在と万物の存在が一体化する世界となるというような世界観です。

    > 少し話はずれるかもしれないのですが、善悪の彼岸とは善と悪を超越したところのもの、つまり、既存の道徳的価値観を超えたもの、従来の道徳からの解放を意味している。とのネット上での説明がありますが、もしもこの説明が正しいのであれば、やはりこれは、既存の道徳的価値観を超越したという意味だけではなく、不二一元の世界観とも被って解釈できそうだなと思いました。善と悪を超越した、既存の道徳的価値観の縛りを超えた一元的な視点の獲得です。だからといって、非道徳的な行為を行う事を推奨しているという意味でもないのは、当然のことですね。

    はい。但しニーチェが否定した道徳観は日本人の道徳観とは異なりますね(次の投稿でまとめてみます)。

    > もしも善と悪を超越した立ち位置に至れたのであれば、従来の道徳等の判断基準は偏らずに崩壊、消滅しますね。もとより、これはその基準自体が、作り上げられた極論で意味のない幻想であるという意味の理解が起こるという事になるでしょうか。ここは誤読かもしれませんが、現在の感想としては、ニーチェの超人は、指導者としての自身の行為の価値評価を必要とするのかなと思いましたが、アドヴァイタのゴールには指導者というもの自体は存在しませんので、もしもそうならば、ここの違いがあるように感じました。

    超人は指導者というイメージは私にはないです。
    動物→人間→超人という進化のベクトルの延長でもある人間の理想的進化系(精神的進化)でもあり、神のアンチテーゼであることから、神とは異なり読者に対して固定的なイメージは強要しません(読者を突き放します)。
    但し、方向性というか、きわめて抽象的な表現で神なき次世代の理想的人間像として語られています。

    人類を超人へと導こうとしている指導者は、超人の告知者というか予言者としてのツァラトゥストラ(ニーチェの主著でもあるツァラトゥストラという物語に登場する主人公にしてニーチェの分身)です。

    > あるのは解釈のみだというニーチェ。だから、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。という、言わば一元的な視点での捉え方をしているようにやはり観えます。

    はい、最終的には無我ですね。

    > パニチェさんも仰るように、短いレスのやり取りだけでは仰る劇薬という言葉の解釈、意味が現在の私には理解できないでしょう。最初は、ニーチェのアフォリズムのどこかに劇薬というワードがあるのかな?と思っていましたので探してみましたが、どうも違うようですね。

    はい、ニーチェは劇薬という言葉は使ってないです。ただ自分の哲学は『丈夫な歯と丈夫な胃、私が君にのぞむのはこれだ!そうして君が私の本を消化してこそ、私と昵懇になれるのは必定!(悦ばしき知識 たわむれ、たばかり、意趣ばらし54)』と述べており、『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』とも述べており、「読者が書籍を選ぶように、高貴な(大衆迎合的ではない)書籍は、書籍の方からも読者が選ばれる」としています。

    > 実は前回、興味が起こった事柄が2つありました。それは、パニチェさんが表現された劇薬というワードと、善悪の彼岸というニーチェの表現の2つでした。もしもよろしければ、次回、お時間のある時にでも善悪の彼岸についてのパニチェさんの考察をお聞かせ頂ければ有難いです。勿論、スルーでもかまいません。

    時さんもおそらくそうだと思いますが、問いに返信するのは自分の考えを再確認し、整理しつつまとめるきっかけになり有益です。このプロセスには思わぬ発見もあり、スルーなんてとんでもありません。

    次の投稿で私が読解するところのニーチェの言う「善悪の彼岸」について投稿させてもらいます。

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