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■37098 / inTopicNo.1)  脳の巨大化
  
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/12(Fri) 19:56:37)
    久しぶりに進化論について興味が沸き、放送大学の番組表で「進化心理学」と「生物の進化と多様化の科学」があったので録画予約した。
    進化心理学の第ニ回
    人類の脳の巨大化が可能だった理由。
    -全体の2%の重さで20%のエネルギー消費というコストのかかる器官を抱えて淘汰されなかったのは。

    ・脳の他にエネルギー消費の多い消化管(腸)が短くなることで相殺できた。 --「高価な組織仮説」
    -- 実際に他の霊長類を人間と同じ大きさに想定し計算して比較すると、人間は脳が重いのを相殺するぶんだけ消化管が軽いらしい。

    これはエネルギー摂取量を変えずに脳が巨大化できた理由ということになると思いますが、
    脳の巨大化の疑問は、そういう話でしたっけ。
    自分は
    脳の巨大化のメリットを享受する仕組みが定着する前に淘汰されなかったのはなぜか?
    という問題だと思っていましたが。

    また、消化管を小さくできた理由として肉食への移行や道具や火を使った調理によって消化が良くなったことがあがっていましたが
    突然変異で脳が巨大化したからといって、短期間でそのような技術を開発できるのか、と。

    脳の巨大化は短期間に一気に定着したようにイメージしていましたが、長期間で少しづつ増えたなら、淘汰されずに知恵の増大のメリットが上回っていくことができたのか…

    -脳はなぜ大きくなったの?-
    https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2006babj/09-15.html
    『それが徐々に起こったのか、それとも特定の地域、時代で特に顕著な増大があったのか?脳の大型化のそうした進化様式は、大型化をもたらした要因を考える上で参考になることと思います。ですが、残念ながら今のところ明確な答えがありません。そもそも年代と脳の大きさがはっきりしている化石が少なすぎるのです。』

    わかってへんのかーい。
    ところが、

    -人類の文化的躍進のきっかけは、7万年前に起きた「脳の突然変異」だった-
    https://wired.jp/2019/09/01/recursive-language-and-imagination/
    前頭前皮質の成熟の遅延という突然変異が、以下を可能にした。
    ・メンタル統合(複数の単語とそれらの関係を脳内で統合し、想像することを可能にするプロセス)の能力の獲得
    ・再帰言語の習得 
    (再帰言語とは:入れ子構造の文章 --「母は『父がかつて溺愛していた猫』にそっくりな猫を拾った」
    「『母は“父がかつて溺愛していた猫”にそっくりな猫を拾った』と兄が言っていた」)

    これが一世代で起こった可能性があるように書かれている(自分の読み間違いでないなら)

    『「メンタル統合のプロセスで可能となった脳内で対象物の素早い並置ができる新たな能力は、“試作品”の想像を劇的に速め、それは技術進歩の急激な加速をもたらしたでしょう。どんな計画でも頭のなかでシミュレートする前例のない能力と、それらを仲間に伝達するという同じく前例のない能力を備えた人間は、一気に支配的な種になる準備が整ったのです」』

    こちらの内容が本当なら、脳巨大化・思考の高度化・それによる多大のメリットの享受が短期間に一気に起きることが可能だったのかも…しれない。

    これだと三浦俊彦さん的に人間原理の援用をしないでも説明付くのか。

    他にもいろいろな記事がヒットするので、この件、たぶん続けます。

引用返信/返信 削除キー/
■37097 / inTopicNo.2)  Re[17]: 改訂版:
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/12(Fri) 19:21:40)
    悪魔の授業が出てきたから、

    >悪魔の教師が生徒達に予告した「来週の月曜日から金曜日のうちのいずれかに悪魔昇級テストを1回だけ行う。テストの日を君たちが論理的に予測して特定することはできない。この条件を満たせない場合はテストは行わず全員を昇級とするが、私はテストできると確信している。よく勉強しておくように。特にデカルトの騙し方。」<

    「デカルトの騙し方」、これ悪魔の授業では初級の課題だったよ。

    >これを聞いたある生徒は、以下の推論で「悪魔昇級テストは実行不可能」と結論した。『もし木曜日までテストがなかった場合、その時点で金曜日がテストの日だと予測できてしまうので、金曜日にはテストを行えない。
    次に、木曜日にテストがあると仮定すると、水曜日までにテストがなかった時点で木曜日か金曜日のどちらかの日にテストがあると予測できるが、前述のように金曜日にはテストできないと分かるので、木曜日がテストの日だと予測できてしまう。よって、木曜日にもテストを行えない。以下同様に、水曜日、火曜日、月曜日にもテストを行えないと分かる。したがって、「先生はいずれの日にも悪魔昇級テストを行うことができない」』<

    これ、「もし、月曜日にテストが行われたら?」って聞いたら、その生徒、なんて答えるのかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■37078 / inTopicNo.3)  改訂版: 予測できない試験日のパラドックス
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/10(Wed) 17:57:11)
    2024/04/10(Wed) 19:56:27 編集(投稿者)

    悪魔の教師が生徒達に予告した

    「来週の月曜日から金曜日のうちのいずれかに悪魔昇級テストを1回だけ行う。テストの日を君たちが論理的に予測して特定することはできない。この条件を満たせない場合はテストは行わず全員を昇級とするが、私はテストできると確信している。よく勉強しておくように。特にデカルトの騙し方。」

    これを聞いたある生徒は、以下の推論で「悪魔昇級テストは実行不可能」と結論した。

    『もし木曜日までテストがなかった場合、その時点で金曜日がテストの日だと予測できてしまうので、金曜日にはテストを行えない。
    次に、木曜日にテストがあると仮定すると、水曜日までにテストがなかった時点で木曜日か金曜日のどちらかの日にテストがあると予測できるが、前述のように金曜日にはテストできないと分かるので、木曜日がテストの日だと予測できてしまう。よって、木曜日にもテストを行えない。
    以下同様に、水曜日、火曜日、月曜日にもテストを行えないと分かる。したがって、「先生はいずれの日にも悪魔昇級テストを行うことができない」』

    しかし先生の確信したとおり悪魔昇級テストは実行され成功した。


    注意
    悪魔ちゃんが不満の場合、さらに修正される可能性があり、それは予告なしに行われる場合があります。

引用返信/返信 削除キー/
■37077 / inTopicNo.4)  Re[15]: 抜き打ちテストのパラドックス
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/10(Wed) 17:51:05)
    試験を死刑などに置き換えた「死刑囚のパラドックス」とか「予期しない絞首刑のパラドックス」という形もあって、パラドックスの内容は同じらしい。
    それで 予期しない絞首刑のパラドックスの英語のWikiの記事
    Unexpected hanging paradox
    https://en.wikipedia.org/wiki/Unexpected_hanging_paradox
    によると、
    「抜き打ち」にあたるところは a surprise と書かれ deepleでは「不意打ち」と訳される。
    他に "surprise hanging" の表現もあるが、ここはなぜかdeepleは「絞首刑」としか訳さない。

    Unexpected とか surprise に「予告なし」という含意があるのかどうか自分には分からない。
    (仮に一般には「予告なし」を連想させても、出題の中の説明があれば予告があっても理屈としては可能とか、「抜き打ち」ほどはっきり「予告なしに」という意味はないのかも。言葉の論理にうるさい欧米で文句が出ないとしたら、の勝手な憶測です)

    死刑囚のパラドックスについて書いた日本語のブログでは、
    「予測できてしまうから〇曜日にはできない」といった表現ばかりで「不意打ち」という言葉もない。

    「抜き打ち」って表現は「抜き打ちテストのパラドックス」のみで日本の出題で使われるものなのか(違っていたらすみません)。
    特に必要はなく、しかも誤解のある表現てことかな。
引用返信/返信 削除キー/
■37067 / inTopicNo.5)  Re[14]: 抜き打ちテストのパラドックス
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/10(Wed) 10:13:19)
    2024/04/10(Wed) 10:19:55 編集(投稿者)

    No37046に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    おはようございます。
    > >抜き打ちテストのパラドックスのよくある提示*******教師が生徒達に予告した「来週の月曜日から金曜日のうちのいずれか、君たちが予測できない日に抜き打ちテストを行います。テストは1回だけです。」<
    >
    > そもそも「抜き打ちテスト」っていうの、「予告なし」じゃないの?

    たしかに、抜き打ちという言葉の定義からは不自然なのか。
    予告なしの通常の抜き打ちは普通に行われているが、ここでは教師が期間を限定して予告してしまったために、その条件で実行可能かどうかという問題になると思いますが…。
    「テストがあるという結論を理屈によって導ける日を避けてテストすること」が可能かどうかを問うているということを明記してない文献があれば杜撰かも。
    本来の「抜き打ち」という言葉の定義が気になる人を踏まえれば、教師の発言の中で
    「テストがあるという結論を君たちが理屈で導くことができない日にテストを行います。」のように語らせて、「抜き打ち」という言葉は使わない、というのが紛れのない方法かもなあ、と思った。…名称はどうする…。
    英語では unexpected exam paradox らしいが…。


    。o0じゃなくて自分が悪いのか…

    > (*「抜き打ちテスト」:テストがあるという結論を理屈によって導き予期できる日に行うと「抜き打ち」にならない。それ以外の日に行うものを「抜き打ちテスト」とする)

    自分のこの書き方が、「通常の定義と違って、ここでは〜と定義する」ということをもっとちゃんと表現すべきだったのか。
引用返信/返信 削除キー/
■37046 / inTopicNo.6)  Re[13]: 抜き打ちテストのパラドックス
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/07(Sun) 21:20:52)
    >抜き打ちテストのパラドックスのよくある提示*******教師が生徒達に予告した「来週の月曜日から金曜日のうちのいずれか、君たちが予測できない日に抜き打ちテストを行います。テストは1回だけです。」<

    そもそも「抜き打ちテスト」っていうの、「予告なし」じゃないの?
引用返信/返信 削除キー/
■37044 / inTopicNo.7)  抜き打ちテストのパラドックス
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/07(Sun) 21:01:02)
    パラドックス的な問題について考えたことを残しておこうと思います。

    抜き打ちテストのパラドックスのよくある提示
    *******
    教師が生徒達に予告した

    「来週の月曜日から金曜日のうちのいずれか、君たちが予測できない日に抜き打ちテストを行います。テストは1回だけです。」

    これを聞いたある生徒は、以下の推論で「抜き打ちテストは不可能」と結論した。

    『もし木曜日まで抜き打ちテストがなかった場合、その時点で、金曜日がテストの日だと予測できてしまう。これでは抜き打ちにならないので、金曜日には抜き打ちテストを行えない。
    次に、木曜日に抜き打ちテストがあると仮定すると、水曜日までに抜き打ちテストがなかった時点で木曜日か金曜日のどちらかの日に抜き打ちテストがあると予測できるが、前述のように金曜日には抜き打ちテストできないと分かるので、木曜日が抜き打ちテストの日だと予測できてしまう。よって、木曜日にも抜き打ちテストを行えない。
    以下同様に、水曜日、火曜日、月曜日にも抜き打ちテストを行えないと分かる。したがって、「先生はいずれの日にも抜き打ちテストを行うことができない」』

    しかし抜き打ちテストは実行され成功した。

    (*「抜き打ちテスト」:テストがあるという結論を理屈によって導き予期できる日に行うと「抜き打ち」にならない。それ以外の日に行うものを「抜き打ちテスト」とする)

    *********

    この問題について、10年前に三浦俊彦さんの掲示板に以下のような投稿をしていた。

    =====(A)
    生徒も先生も徹底的に理屈で考えるという前提で、
    生徒が仮に、『月曜日しか試験はできないはずだ』と結論する場合、
    しかし生徒がそう結論することは先生にも分かるので、抜き打ちにならないので月曜に試験はできない と先生は考える。
    しかし、そのことは生徒にも分かり「試験はないな」と考える。
    しかしそれならば、抜き打ちができることになる。
    しかし それは生徒にも読めるので・・・・

    と、ループしてしまうので、結局、生徒が「この日テストがある」と理屈で結論することはできない。
    ならば、先生は抜き打ちテストをできる。

    そして、この最後の結論は、『テストが必ずある』を意味しないので、ループは生じない。

    ========

    三浦さんはこれを「完璧」とし、三浦さんも同様な発想を本に書いていたらしいレスが付いているが、
    自分が『月曜日しか試験はできないはずだ』との仮定から始めている理由が今回読んで自分で分からなかった。
    数日後にやっと思いついたのは、
    生徒の結論が『何曜日か特定できない』とか『試験はない』という結論ならば抜き打ちができる。
    抜き打ちできないのは、『試験は〇曜日しかできない→〇曜日に試験がある』と特定される場合。
    ところが、その場合にも上記のように試験ができてしまうゆえに、生徒がどのように予測しようとも、抜き打ち試験は必ずできる。そういう趣旨だと思う。 

    それに気づくまでに、
    アップデートするつもりで、別なことを考えた。そもそも最初に『金曜日には抜き打ちできない』と生徒が結論する部分でループが生じるはずだと。

    ====(B)
    推論の最初で生徒が『金曜日には抜き打ちテストをできない』と結論するとき、『まてよ、自分たちがそう考えることは先生にも見抜かれるだろう、すると先生は「テストできないと生徒が判断する金曜日にテストをやれば抜き打ちになる」と考えるだろう。』と気づき『(金曜日は最後のチャンスなので)金曜日にテストが行われる』と考える。しかし、生徒はさらに考える『いや、自分たちがこう考えることも先生に分かる、ならば先生は「抜き打ちはできない」と判断するだろう。』……
    このように、テストがあると結論すればテストできない、テストできないと結論すればテストできる、という反転のループが生じるので、生徒は金曜日にテストがあるかどうかについて結論を出せない。したがって金曜日にテストをすれば抜き打ちが成立する。

    そして金曜にテストが可能である以上、木曜日に関しては『金曜か木曜のどちらがテストか分からない』ので抜き打ちできる。以下、月〜水も同様で、いつでも抜き打ちテストができる。
    ======


    ネットを調べたら、詳しい論文がありました。
    「金曜日の可能性」清水明
    https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202538561664

    『抜き打ちテストのパラドックスを、規則に従う行為と予測のパラドックスとして捉えるとき』として

    『 規則@ 試験を月曜から金曜までの間に行う
      規則A その試験は予測されたものであってはならない 』

    の二つの規則を抽出。
    この二つが両立できない場合、どちらを優先する取り決めと読めるかによって、考え方が変わってくると。
    a 取り決めなし
    b 抜き打ちできないならテストはしない
    c 抜き打ちにならなくてもテストは行う

    そして、「c 抜き打ちにならなくてもテストは行う」のような条件を明記するケースは見かけないと清水論文は書いている。
    で、a か b のパターンが考えられるが、
    「a 取り決めなし」の場合は教師の出方を生徒が予期できないので、金曜日にテストがあるかどうか判断できない。結局 月〜金までいつでも抜き打ち可能という。
    b の場合が私の(B)の考えに一致。
    a,bともに、何曜日でも抜き打ちテストができるという結論は同じだが、ループ的なアンチノミー(清水氏の表現)が抜き打ちに貢献するのは b のみ。

    私は、特に条件明記なしの出題から「a 取り決めなし」ではなく「c 抜き打ちできないならテストはしない」のだと解釈していたのだと思う…。

    ・(A)の「この最後の結論(先生は抜き打ちテストをできる)は、『テストが必ずある』を意味しないので、ループは生じない」は月〜木だけで、金曜の場合は、そこからまたループに入ると思われる。テストできるなら金曜日は必ずやらねばならないので。
    ・ネットのブログ記事では、生徒の「先生はいずれの日にも抜き打ちテストを行うことができない」を最終結論としているものが複数あったが、それはPV稼ぎ目的の粗製乱造記事と見なしていいのではないか。問題はその先にあるのだから。


    やっぱり三浦さんの本も見てみようと思い、古本注文した。
引用返信/返信 削除キー/
■37011 / inTopicNo.8)  Re[12]: 仏教とエピクテトス
□投稿者/ おくたがわ -(2024/04/05(Fri) 12:37:40)
    No36842に返信(おくたがわさんの記事)
    > お釈迦さまは、私たちが世俗の世界で使う「私のモノ」という言葉を、「ただの世間でコミュニケーションをとるための言葉にすぎない」とおっしゃいました。便宜上の言葉でしかなく、厳密に真理としては、この世に「私のモノ」など存在しないのです。
    >
    > 結局、この世のものはすべて「借り物」なのです。  お金も、人間関係も、肉体も、死ぬときにはすべてこの世に返却する。  いま「私のモノ」と思っているものは、じつは使わせてもらっているにすぎないのです。
    (アルボムッレ・スマナサーラ. 執着しないこと KADOKAWA / 中経出版. Kindle 版.)


    エピクテトス
    > この身体も、身体の部分も、権力、財産、名声、官職、 栄誉、子供、兄弟、友人など、これらは全て自分のものではないと考えねばならない。

    ********
    自分のものでないなら傷ついても失っても苦しむことはなく、失うことを事前に恐れる必要もないことになるのだろうが。
    実際には、多くの人が、自分のものに執着する。通常は自分のものと思えないものにまで執着しているように見えるケースもある(同じ人が別なものに対しては拘りがないということも)。執着の対象が違っている場合、話が通じにくい。
    支持する科学理論を批判されたら感情的になるのは当たり前と主張する人とか、私からはピンとこない執着もあるが、逆に私が腹を立てる理由を分からないらしい人たちもいる。それは私個人の執着だからなのか。

    自分に関するフェイク・嘘がまかり通ることに対する怒り。それも執着と見るべきなのか…
    おそらく、正誤に対して拘ること自体は悪くないが、怒る時点で執着なのか。
    間違いは間違いと冷静に根拠を挙げて指摘し、相手に反論があるなら冷静に聞いて検討すると。

    エピクテトスにも、冤罪で裁判にかけられたとき、事実の主張には意を注いでいいが、愚かな裁判官によって有罪にされることがあっても、それは自分の力の及ぶ範囲にはない。といった教えがあったと思う。

    正しいことを主張すること、誤解を解くことに力を尽くすのは、自分の意志の範囲内だが、他者がそれをどう受け止め反応するかは自分の管轄外ゆえ執着しないと。

    以上は自分の今の勝手解釈で、仏教もエピクテトスも理解していない発言かもしれません。
    また、そのような執着のない冷静な対応を私ができるという意味では全くありません。むしろ、できないから理想として書いている。

引用返信/返信 削除キー/
■36883 / inTopicNo.9)  Re[13]: パニチェさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/23(Sat) 11:37:27)
    長くなってご迷惑かと思いましたが読んでくださりありがとうございます。
    以下、思うことを書きますが返信はお気遣いなく。

    No36862に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No36842に返信(おくたがわさんの記事)
    > >> ■No36819に返信(パニチェさんの記事)
    > >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。
    > >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    > >>死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。
    >
    >>Kindleの読み放題に「エピクテトス 名言集」というのがあり、そこから関連しそうなものを抜粋します。不要であれば流してください。
    >
    > めちゃめちゃ有難いです。引用ありがとうございます!
    >
    >>『「誰それの息子が死にました」意志と関わりのないものであるから悪ではない、と答えよ。 「 誰それを その父親が廃嫡(はいちゃく)にしました。あなたはどう思いますか」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 皇帝があの人に有罪を宣告しました」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 そのことで苦しんでいますよ」意志と関わりのあることだから悪だ。 「 その人は見事に耐えました」意志と関わりのあることだから善だ。 こんなふうに習慣づければ、我々は進歩することになる。なぜなら、その心像が把握されうるもの以外のものについて、我々が承認する事はないからである。
    >
    > 問題にしているのは自分の意志ってことですね。
    > 他人の意志も問題にするなら「皇帝があの人に有罪を宣告しました」は皇帝の意志が絡みますから。

    はい、暴君や犯罪者や災害によって、ひどい目に遭うかもしれないが、それを受ける側の意志が問題(力の及ぶ範囲)で、相手側の善悪は扱う範囲にないということのようですね。
    >
    >>「息子が死にました」何が起きたのか。息子が死んだのだ。 「 他には何もないのですか」 何もない。 「 船が失われました」 何が起きたのか。船が失われたのだ。 「 あの人が投獄されました」何が起きたのか。投獄されたのだ。 だが、「不幸だ」というのは、各人が自分から付け加えたことだ。
    >
    > 仏教の「あるがままをあるがままに観ずる」ってのに相通じますね。
    >
    >>哲学するというのはどのようなことか。 それは起きてくることに対して心の準備をしておくことではないのか。そうすると、「もし私が起きてくることに平然と耐える心の準備ができているのであれば、なんでも好きなように起きるがよい」と言うのと等しいことが分からないのか。
    >
    > まるで仏教です(笑)

    「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」とか

    他に、
    財産・家族・自分の身体も自分のものではない。という結論も、仏教的な感じがしました。

    > 「神から授かった」云々が大前庭になってますね。
    > なんかニーチェ好きの私には興ざめする文章ですが、これを教えてくれたおくたがわさんには大感謝です♪
    > ありがとうございました。

    パニチェさんのコメントに関連すると思い神が登場する抜粋をいくつか選びましたが、全体のボリュームからすると登場頻度は低いようには思います。
    完全に自分の憶測・趣味になりますが、前半生が奴隷だったというエピクテトスの経験が、自身の力の及ぶ範囲を心のみとし、そこだけを考え律する者が勝者であるという思想になっているのかと凄みを感じました。そして、身体含め酷い目に遭ってもそれは自分とは関係ないことだという一般の実感としては無理だが、エピクテトスにとっては重要な考え方を、神の概念で説得的にしているのかと。
    でも、ほんとにそれは自分の趣味嗜好による勝手解釈かもしれないので、岩波文庫の『エピクテトス 人生談義』全体を読んでみたいですが、今は無理なのでいずれということで。

    以下 神に関連する抜粋で面白く思ったもの。

    『君は全体と比べれば、どれだけ小さな部分であるのか知らないのか。ただし、これは肉体に関してのことである。理性に関しては神々になんら劣りもしなければ、より小さくもないからである。理性の大きさは長さや高さによってではなく、考えたことによって判定されるからである。そうすると、君が神々と同等であるという点を善いものだと考える気になれないのかね』
引用返信/返信 削除キー/
■36862 / inTopicNo.10)  おくたがわさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/19(Tue) 20:30:11)
    こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。

    No36842に返信(おくたがわさんの記事)
    >> ■No36819に返信(パニチェさんの記事)
    >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。
    >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    >>死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

    > Kindleの読み放題に「エピクテトス 名言集」というのがあり、そこから関連しそうなものを抜粋します。不要であれば流してください。

    めちゃめちゃ有難いです。引用ありがとうございます!

    > 『「誰それの息子が死にました」意志と関わりのないものであるから悪ではない、と答えよ。 「 誰それを その父親が廃嫡(はいちゃく)にしました。あなたはどう思いますか」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 皇帝があの人に有罪を宣告しました」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 そのことで苦しんでいますよ」意志と関わりのあることだから悪だ。 「 その人は見事に耐えました」意志と関わりのあることだから善だ。 こんなふうに習慣づければ、我々は進歩することになる。なぜなら、その心像が把握されうるもの以外のものについて、我々が承認する事はないからである。

    問題にしているのは自分の意志ってことですね。
    他人の意志も問題にするなら「皇帝があの人に有罪を宣告しました」は皇帝の意志が絡みますから。

    > 「息子が死にました」何が起きたのか。息子が死んだのだ。 「 他には何もないのですか」 何もない。 「 船が失われました」 何が起きたのか。船が失われたのだ。 「 あの人が投獄されました」何が起きたのか。投獄されたのだ。 だが、「不幸だ」というのは、各人が自分から付け加えたことだ。

    仏教の「あるがままをあるがままに観ずる」ってのに相通じますね。

    > 哲学するというのはどのようなことか。 それは起きてくることに対して心の準備をしておくことではないのか。そうすると、「もし私が起きてくることに平然と耐える心の準備ができているのであれば、なんでも好きなように起きるがよい」と言うのと等しいことが分からないのか。

    まるで仏教です(笑)

    > 哲学する人は困難な状況に遭遇するたびに何と言うべきなのか。「それを目的に私は訓練を重ね、そのために私は鍛えてきたのだ」ということだ。神は君に「お前が規則通りに競技をしたかどうか、 しかるべき量を食べたかどうか、鍛えたのかどうか、体育教師の指示に従って訓練したかどうか、その証拠を見せてみなさい」と仰(おっしゃ)ておられるのだ。

    やはり有神論、人格神信仰が根底にあるようです。

    > 身体とか財産とか、外に属するものを恐れているのか。つまり、君とは関わりのないものについて恐れているのか。すると、そもそも最初から、君は何を勉強してきたのか。君のものと君のものでないもの、 妨げるものと妨げられないものを区別することではなかったのか。何のために君は哲学者たちのところに通っていたのだ。依然として不幸であり、不運であるためなのか。

    > この身体も、身体の部分も、権力、財産、名声、官職、 栄誉、子供、兄弟、友人など、これらは全て自分のものではないと考えねばならない。

    > (教育を受けるということは)・・・
    > 意志や意志に基づく行為は我々の力の及ぶものであるが、身体、身体の一部、所有物、両親、兄弟、子供、祖国、要するに社会的なものは我々の力の及ばないものであるということだが、そのような区別をするしかたを学ぶことである。

    > 君は、君自身を含めて、何もかも神から授かっておきながら、その一部が君から奪われるとなると、それを与えた神に対して腹を立てたり非難したりするのか。君は何者であり、何のためにこの世にやってきたのか。 君をこの世に送り出したのはその方ではないのか。君に光を見せたのはその方ではないのか。共に働く仲間を、感覚を、理性を与えてくれたのはその方ではないのか。また、君をどのような者としてこの世に送ったのか。 死すべきものとして、すなわち、わずかな肉の欠片(かけら)とともにこの地上に生き、少しの間その方の支配のありさまを眺め、その方の祭礼行列に加わりながら、共に祝うものとしてではないのか。 それならば、君に許されているまでその行列や祭典を見物して、次に君がこの世から連れ出されるときには見物したことに敬意を表し感謝して出て行こうとは思わないのか。

    > 「私がこんな目に遭うなんて、運の悪いことだ」
    > むしろ逆に、「私はこんな目に遭ったのに、苦しむことなく過ごしており、現在の状況によって打ちひしがれることもなく、将来のことを恐れもしていない」と言うべきだ。なぜなら、このような事はすべての人に起こりうるが、こうした中で苦しむことなく過す事は誰にもできなかっただろうから。すると、どうして前者が不運で、後者が幸運だということになるだろうか。
    > それは不運ではない。むしろ、それに気高く耐えることこそ幸運なのである。

    > 「この世には盗賊も泥棒もいれば、裁判所もあるし、われわれ対する権力をもっていると考えている暴君たちもいますが、それもこの小さな肉体とその所有物のためなのです。われわれを自由にして、彼らがなんの権力ももっていないのだということを教えてやってください。」
    > これに対して次のように言うのが私の務めである。「肉体とその所有するものを無価値だと悟った人にとって、どのような暴君が、どのような泥棒が、どのような法廷がなお恐ろしいものであろうか。」

    > 「でも、暴君は縛りますよ」。どこを縛るのかね。足だね。
    > 「でも切り落としますよ」。どこを切り落とすのか。首だね。では、暴君が縛ることも切り落とすこともできないものは何であろうか。それは意志だよ。

    > 不敗の者とは誰のことか。それは意志とは関係のないどんなことにも惑わされることのない人のことである。』

    「神から授かった」云々が大前庭になってますね。
    なんかニーチェ好きの私には興ざめする文章ですが、これを教えてくれたおくたがわさんには大感謝です♪
    ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■36842 / inTopicNo.11)  パニチェさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/17(Sun) 20:08:39)
    No36819に返信(パニチェさんの記事)
    こんばんは
    どこへ投稿するか迷いましたが、あちらは話が進展しているのでここで失礼します。

    >>出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    >>むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    >>そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
    >
    >>(『提要』8)
    >>===
    >>『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用
    >
    > 「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。
    >
    > 最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    > 死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

    Kindleの読み放題に「エピクテトス 名言集」というのがあり、そこから関連しそうなものを抜粋します。不要であれば流してください。

    『「誰それの息子が死にました」意志と関わりのないものであるから悪ではない、と答えよ。 「 誰それを その父親が廃嫡(はいちゃく)にしました。あなたはどう思いますか」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 皇帝があの人に有罪を宣告しました」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 そのことで苦しんでいますよ」意志と関わりのあることだから悪だ。 「 その人は見事に耐えました」意志と関わりのあることだから善だ。 こんなふうに習慣づければ、我々は進歩することになる。なぜなら、その心像が把握されうるもの以外のものについて、我々が承認する事はないからである。

    「息子が死にました」何が起きたのか。息子が死んだのだ。 「 他には何もないのですか」 何もない。 「 船が失われました」 何が起きたのか。船が失われたのだ。 「 あの人が投獄されました」何が起きたのか。投獄されたのだ。 だが、「不幸だ」というのは、各人が自分から付け加えたことだ。

    哲学するというのはどのようなことか。 それは起きてくることに対して心の準備をしておくことではないのか。そうすると、「もし私が起きてくることに平然と耐える心の準備ができているのであれば、なんでも好きなように起きるがよい」と言うのと等しいことが分からないのか。

    哲学する人は困難な状況に遭遇するたびに何と言うべきなのか。「それを目的に私は訓練を重ね、そのために私は鍛えてきたのだ」ということだ。神は君に「お前が規則通りに競技をしたかどうか、 しかるべき量を食べたかどうか、鍛えたのかどうか、体育教師の指示に従って訓練したかどうか、その証拠を見せてみなさい」と仰(おっしゃ)ておられるのだ。

    身体とか財産とか、外に属するものを恐れているのか。つまり、君とは関わりのないものについて恐れているのか。すると、そもそも最初から、君は何を勉強してきたのか。君のものと君のものでないもの、 妨げるものと妨げられないものを区別することではなかったのか。何のために君は哲学者たちのところに通っていたのだ。依然として不幸であり、不運であるためなのか。

    この身体も、身体の部分も、権力、財産、名声、官職、 栄誉、子供、兄弟、友人など、これらは全て自分のものではないと考えねばならない。

    (教育を受けるということは)・・・
    意志や意志に基づく行為は我々の力の及ぶものであるが、身体、身体の一部、所有物、両親、兄弟、子供、祖国、要するに社会的なものは我々の力の及ばないものであるということだが、そのような区別をするしかたを学ぶことである。

    君は、君自身を含めて、何もかも神から授かっておきながら、その一部が君から奪われるとなると、それを与えた神に対して腹を立てたり非難したりするのか。君は何者であり、何のためにこの世にやってきたのか。 君をこの世に送り出したのはその方ではないのか。君に光を見せたのはその方ではないのか。共に働く仲間を、感覚を、理性を与えてくれたのはその方ではないのか。また、君をどのような者としてこの世に送ったのか。 死すべきものとして、すなわち、わずかな肉の欠片(かけら)とともにこの地上に生き、少しの間その方の支配のありさまを眺め、その方の祭礼行列に加わりながら、共に祝うものとしてではないのか。 それならば、君に許されているまでその行列や祭典を見物して、次に君がこの世から連れ出されるときには見物したことに敬意を表し感謝して出て行こうとは思わないのか。

    「私がこんな目に遭うなんて、運の悪いことだ」
    むしろ逆に、「私はこんな目に遭ったのに、苦しむことなく過ごしており、現在の状況によって打ちひしがれることもなく、将来のことを恐れもしていない」と言うべきだ。なぜなら、このような事はすべての人に起こりうるが、こうした中で苦しむことなく過す事は誰にもできなかっただろうから。すると、どうして前者が不運で、後者が幸運だということになるだろうか。
    それは不運ではない。むしろ、それに気高く耐えることこそ幸運なのである。

    「この世には盗賊も泥棒もいれば、裁判所もあるし、われわれに対する権力をもっていると考えている暴君たちもいますが、それもこの小さな肉体とその所有物のためなのです。われわれを自由にして、彼らがなんの権力ももっていないのだということを教えてやってください。」
    これに対して次のように言うのが私の務めである。「肉体とその所有するものを無価値だと悟った人にとって、どのような暴君が、どのような泥棒が、どのような法廷がなお恐ろしいものであろうか。」

    「でも、暴君は縛りますよ」。どこを縛るのかね。足だね。
    「でも切り落としますよ」。どこを切り落とすのか。首だね。では、暴君が縛ることも切り落とすこともできないものは何であろうか。それは意志だよ。

    不敗の者とは誰のことか。それは意志とは関係のないどんなことにも惑わされることのない人のことである。』



引用返信/返信 削除キー/
■36841 / inTopicNo.12)  議論
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/17(Sun) 20:05:34)
    というかコミュニケーションについての資料

    No36697(lito_simpleさんの記事)
    1. 類似性が確認されるまでお互いは異なると仮定する
    2. 解釈や評価よりも記述を重視する
    3. 相手の立場で考える
    4. 自分の解釈は実証されていない仮説として取り扱う

    No36787(akaimiさんの記事)
    ある人が素早く入浴する。「彼は入浴の仕方が悪い」とは言うな。
    「素早く入浴する」と言いなさい。
    ある人がたくさん酒を飲む。「彼は飲酒の仕方が悪い」とは言うな。
    「たくさん酒を飲む」とだけ言いなさい。
    というのも、当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。
    そのように慎重になれば、君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。
    (『提要』45)
    o0このエピクテトスの言はなかなかしびれた。それで Kindle読み放題に「エピクテトス 名言集」があったので読んでみた。
    こうも言っている
    『正しい考えから出たものは善く、悪い考えから出たものは悪いということだ。君はそれぞれの行為の根拠になった考えを知るまでは、人を褒めたり非難したりしてはならない。ただし、考えは外側からは容易に判断されるものではない。』
    他の部分からも、他者について善悪は評価しがたい、それより肝心なのは自分自身の心 と考えているように思える
    (他者に関しては) 2. 解釈や評価よりも記述を重視する  
    にも近いような

    なお
    >君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。

    ここは、『あるものの把握されうる心像を捉えながら、別のものとして同定することも起こらないだろう』

    掴んでいるのが、行為という把握可能なものだけなのに、価値(善悪)についてまで同定してしまう過ちを避けられる
    ということかなと。

    論考
    『5.542 しかし「Aは、pだと信じている」「Aは、pと考えている」「Aは、pと語る」は、「『p』は、pと語る」の形式である。これは、事実と対象の対応関係ではなく、事実どうしが、その構成要素である対象と対象との対応関係を通して、対応関係にあるということなのだ。』

    これをここで引用する理由は、他者という主体による「〜と考える」(命題的態度を含む文)は、世界内の事実や事態の写像ではない。真偽を問える命題ではない、ということ。
    それについては、また今度。

    以上は、他人の心の中を憶測でとやかく言うべからず(できるだけ本人の自己申告を信じよ)という自分の持論に結びつけようという目論見 ^^
引用返信/返信 削除キー/

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