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■37112 / inTopicNo.13)  ダンマパダ126
  
□投稿者/ pipit -(2024/04/13(Sat) 23:31:35)
    2024/04/14(Sun) 06:11:21 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは!
    ダンマパダ126です。

    Some are born in a womb;
    evil-doers go to hell;
    the virtuous go to heaven;
    the undefiled become fully extinguished.
    https://suttacentral.net/dhp116-128/en/sujato?

    lang=en&layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin

    ある者は胎内に生まれる;
    悪の行為者は地獄へ行く;
    徳のある者は天国へ行く;
    穢れなき者は完全に滅する。

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■37103 / inTopicNo.14)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/12(Fri) 22:42:24)
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■37102 / inTopicNo.15)  Re[38]: 志・作意・精進
□投稿者/ pipit -(2024/04/12(Fri) 21:59:41)
    knowingitselfさん、こんばんは(^○^)

    No37096
    >>カント的世界の外って、どんな感じなんですかねー(o^^o)
    >
    > 私の思いついた範囲でしかありませんが、世界の内というのは感性界で、世界の外は叡智界にあたるのかもしれません。人間はどちらにも跨がると。叡智界にもいるなどとおおそれたことがいえるのは、道徳律の存在が疑えなあからだといっていると。無条件の道徳律の実行は普通の人間にはまず不可能ですが、カントが超厳格な道徳律をもちだすのは、叡智界に人間が帰属することをいうためだから、道徳律、完全なる善意志の実行ができないからといって、がっかりしたり、あきらめることはないと思いますね(笑)。実際、カント哲学には楽観的な香りがします。<

    私も投稿した後に、あー物自体の世界なんかなーと思いました。
    純理であれほど徹底的に物自体は認識できない、と述べながら、
    善意志で行為するときは現象界の外としての存在(?)が可能になる(のが人間)、みたいな雰囲気なのかなーって。


    > テーラワーダもそれとあるところまでパラレルというか、善意志の完全な実行は、宝くじの一等より難しいですね。阿羅漢が毎年、日本から何人も誕生したことは一度もありません。じゃ、外れる人はダルマに従うことを断念するかといえば、そんなことはないですね。
    > 少しても善意志に従えば、確実に心が明るくなる、軽くなることを知っているので、ダルマが真理であることを確信できると。
    >
    > カントの叡智界は涅槃にあたるとも解釈できるかと思いまふ。<

    最後のまふが和みますが(*^ω^*)、、、

    私も同じように感じています。
    私は「理念」という言葉を思い浮かべるし、「 トライアンドエラー(正しくはtrial and error?)」もよく思います。
    初期仏教の場合は、失敗しながら上達していくのも折り込み済みで修行の道が提示されている気にもなります。

    カント倫理学も、行為ごとの動機を問うとしたら、何回もチャレンジできますね
    (o^^o)v


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■37096 / inTopicNo.16)  Re[37]: 志・作意・精進
□投稿者/ knowingitself -(2024/04/12(Fri) 19:01:47)
    pipitさん こんばんは

    >>「行為を起こす動機となる想い」であれば、カントに接近するともいえますね。<

    > そうですねー
    > 私はカントの善意志の記述をよく思い浮かべますねー
    > (#^.^#)
    >
    > 『「世界の内でもその外でさえも、無制限に善いとみなされうるものはひとり善意志だけであり、それ以外に考えられない」[W393]。』
    > (『カント事典』p299、【善意志】の項目より引用。)
    >
    > 『世界の内でもその外でさえも、』って、考えてみたら、結構大胆に言い切ってますね。
    >
    > カント的世界の外って、どんな感じなんですかねー(o^^o)

    私の思いついた範囲でしかありませんが、世界の内というのは感性界で、世界の外は叡智界にあたるのかもしれません。人間はどちらにも跨がると。叡智界にもいるなどとおおそれたことがいえるのは、道徳律の存在が疑えなあからだといっていると。無条件の道徳律の実行は普通の人間にはまず不可能ですが、カントが超厳格な道徳律をもちだすのは、叡智界に人間が帰属することをいうためだから、道徳律、完全なる善意志の実行ができないからといって、がっかりしたり、あきらめることはないと思いますね(笑)。実際、カント哲学には楽観的な香りがします。

    テーラワーダもそれとあるところまでパラレルというか、善意志の完全な実行は、宝くじの一等より難しいですね。阿羅漢が毎年、日本から何人も誕生したことは一度もありません。じゃ、外れる人はダルマに従うことを断念するかといえば、そんなことはないですね。
    少しても善意志に従えば、確実に心が明るくなる、軽くなることを知っているので、ダルマが真理であることを確信できると。

    カントの叡智界は涅槃にあたるとも解釈できるかと思いまふ。

引用返信/返信 削除キー/
■37087 / inTopicNo.17)  Re[36]: 志・作意・精進
□投稿者/ pipit -(2024/04/11(Thu) 23:17:39)
    knowingitselfさん、こんばんは!
    書き込みありがとうございます♪

    No37085
    > 「行為を起こす動機となる想い」であれば、カントに接近するともいえますね。<

    そうですねー
    私はカントの善意志の記述をよく思い浮かべますねー
    (#^.^#)

    『「世界の内でもその外でさえも、無制限に善いとみなされうるものはひとり善意志だけであり、それ以外に考えられない」[W393]。』
    (『カント事典』p299、【善意志】の項目より引用。)

    『世界の内でもその外でさえも、』って、考えてみたら、結構大胆に言い切ってますね。

    カント的世界の外って、どんな感じなんですかねー(o^^o)

引用返信/返信 削除キー/
■37085 / inTopicNo.18)  Re[35]: 志・作意・精進
□投稿者/ knowingitself -(2024/04/11(Thu) 20:15:53)
    pipitさん こんばんは。貼り付けありがとうございます。以下、スマナサーラ長老の解説から引用します。

    >業とはいったい何なのか、より具体的な説明があります。 「比丘らよ、『意志が業だ』と私は言う:Cetan&#257; 'ha&#7747; bikkhave kamma&#7747; vad&#257;mi」 という釈尊の言葉があります。
    「業」=「意志」だとおっしゃるのです。心には常に「行為を起こす動機となる想い」があります。たとえば妄想する場合でも、「なぜこういうことを妄想するのか」と見てみると、何らかの「想い」が見つかるでしょう? その「想い」がcetan&#257;(意志)であり、業なのです。

    「行為を起こす動機となる想い」であれば、カントに接近するともいえますね。







引用返信/返信 削除キー/
■37082 / inTopicNo.19)  Re[34]: 志・作意・精進
□投稿者/ pipit -(2024/04/10(Wed) 23:59:41)
    2024/04/11(Thu) 00:07:28 編集(投稿者)

    knowingitselfさん、こんばんは(^ ^)♪

    No37079
    > ここですね。「意志」に何を盛り込むか、どういう心所と結びつけるかでどういうカルマになるかが違ってくると<

    そうですね、やっぱり善(kusala/クサラ)の方向(貪瞋痴から離れる方向)へ意志を向けることが初期仏教的には、心を育てるステップとして説かれているのだろうなぁと思いました。

    業についてのスマナサーラ長老の解説ページもあったのでアドレスを貼ります。
    https://j-theravada.com/world/keyword/keyword-17/

    アビダンマ内容も2000年前くらいのテキストなんかなー?と思うと、すごいなーとも思うのですが、人間そんなに変わってないんかなーとかもいろいろ思って、よくわからなくなるような不思議な気持ちになります。

引用返信/返信 削除キー/
■37079 / inTopicNo.20)  Re[33]: 志・作意・精進
□投稿者/ knowingitself -(2024/04/10(Wed) 19:07:01)
    pipitさん こんばんは

    >誰かにぶつかって転んだとします。「痛い」と思った瞬間にもチェータナーがはたらいて痛みを感じているのですが、それはカルマにはなりません。そこに欲や怒りの感情が入ったとたんにカルマになります。同じことでも、悪いカルマになる場合もあるし、善いカルマになる場合もあります。ぶつかった人に腹を立てて怒ったら、悪いカルマになります。

    貼っていただいた日本ヴィパッサナー協会のサイトのスマナサーラ長老の文です。
    ここですね。「意志」に何を盛り込むか、どういう心所と結びつけるかでどういうカルマになるかが違ってくると




引用返信/返信 削除キー/
■37066 / inTopicNo.21)  問いかけ日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/10(Wed) 08:19:42)
    No37058

    > アビダンマの知識は、学ぶ人にとって、選択肢をはっきりさせる効果があるのかもなぁ、と、今回お話させていただいて、自分の中では思いました。<


    ついつい思い出してしまった、なかやまきんに君ネタ....

    https://youtu.be/aJ7N3lzHlIY?si=Bk2mjzMBbxxalc6p
引用返信/返信 削除キー/
■37058 / inTopicNo.22)  Re[32]: 志・作意・精進
□投稿者/ pipit -(2024/04/08(Mon) 19:28:18)
    2024/04/08(Mon) 19:32:28 編集(投稿者)

    knowingitselfさん、こんばんは(^ ^)

    No37054
    > 精進(ヴィリヤ)では、どちらの方向にエネルギーを向けるかの選択が浮上するようです。志や作意は共一切心心所なので、二十四時間とぎれることなく、瞬間的に生まれるのに対して、精進は雑心所なので、こちらが作る時だけ生まれるということでしょうか?<


    『精進(ヴィリヤ)』は、雑心所ということで、生じたり生じなかったり、なんでしょうね。
    『雑心所』の説明の一つとして、『すべての心に必ず生まれるわけではありません。しかも、他の心所の影響を受けて善にも悪にもなるため、「雑心所」と呼ばれます。雑心所が入ると、認識が強くなり、はっきりします。』(『ブッダが教える心の仕組み』スマナサーラ長老著、p44)とありました。

    では、共一切心心所の説明は?と、p20を読むと、
    『私たち命あるものすべての心の土台となる心所です。「すべての心に必ず現れる、欠かせないもの」という意味で、「共一切心心所」といいます。この7つは、常に働いていますが、それだけではとても弱い認識機能です。』(同本p20)
    とありました。

    この共一切心心所の『志』(チェータナー)が、パーリ仏典では、業(ごう)、kamma(カンマ)になると言われているそうですね。

    wikiより抜粋引用※記号省略
    『Cetanaham bhikkhave kammam vadami, cetayitva kammam karoti kayena vacaya manasa,
    比丘たちよ、意思(cetana)が業(kamma)である、と私は説く。思って(cetana)から、身体(kaya)・言語(vak)・意(manas)によって業をなす[14]。
    パーリ仏典, 増支部六集 63.洞察経, Sri Lanka Tripitaka Project』

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

    でも、『志』がすべて業になるわけではなく、志が強くなると業になる、とスマナサーラ長老は説明されていました。

    https://j-theravada.com/world/keyword/keyword-12/


    > 精進も、不善に向ける場合と善に向ける場合で岐れるようですね。<

    そのようですね。志も作意も精進も、善にも悪にもなる『同他心所』(どうたしんじょ)となっていますね。

    > カント的な定言命法のような、感性的物質的な世界からの厳格な超越は要求されていないとも考えられますが、志→作意→精進という方向で、常に不善ではなく善にエネルギーを向けよという意味で、アビダンマ体系の背骨にあたるのが「意志」であると言うこともできると思います。<

    そうですね。
    私が思い出したのは『誓願』という行為です。
    涅槃を目指す修行者(with 煩悩ちゃん)にとって、意志の向かうべき方向を自覚する行為になるかもしれませんね。
    実行できるか否かは別として(^◇^;)

    アビダンマの知識は、学ぶ人にとって、選択肢をはっきりさせる効果があるのかもなぁ、と、今回お話させていただいて、自分の中では思いました。

    知ることで、選択にも何かしらの影響が出るのかもしれませんね。

    knowingitselfさんの方が絶対私より詳しいと思うのですが、一緒に考えることはできると思いますので、いつでも疑問など書き込んでくださいね。

    とても勉強になります、ありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■37054 / inTopicNo.23)  志・作意・精進
□投稿者/ knowingitself -(2024/04/08(Mon) 17:04:39)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    >久しぶりに第三巻を開いてみました。
    p72を読んで、
    (そうかぁ、、、カントの自律概念をマナシカーラと重ねられるかなと思ったんだけど、viriya(精進、ヴィリヤ)の方がよりぴったりなのかなぁ)と思い直しました。

    精進(ヴィリヤ)では、どちらの方向にエネルギーを向けるかの選択が浮上するようです。志や作意は共一切心心所なので、二十四時間とぎれることなく、瞬間的に生まれるのに対して、精進は雑心所なので、こちらが作る時だけ生まれるということでしょうか?

    精進も、不善に向ける場合と善に向ける場合で岐れるようですね。

    カント的な定言命法のような、感性的物質的な世界からの厳格な超越は要求されていないとも考えられますが、志→作意→精進という方向で、常に不善ではなく善にエネルギーを向けよという意味で、アビダンマ体系の背骨にあたるのが「意志」であると言うこともできると思います。


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■37038 / inTopicNo.24)  さくら日記
□投稿者/ pipit -(2024/04/07(Sun) 15:18:24)
    今日はいい天気だ〜

    住んでるところが田舎すぎて、満開の桜があっても人があまりいないところがありますよ〜
640×480 => 600×450

sakura2024.jpg
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