□投稿者/ knowingitself -(2024/04/08(Mon) 17:04:39)
| pipitさん 返信ありがとうございます
>久しぶりに第三巻を開いてみました。 p72を読んで、 (そうかぁ、、、カントの自律概念をマナシカーラと重ねられるかなと思ったんだけど、viriya(精進、ヴィリヤ)の方がよりぴったりなのかなぁ)と思い直しました。
精進(ヴィリヤ)では、どちらの方向にエネルギーを向けるかの選択が浮上するようです。志や作意は共一切心心所なので、二十四時間とぎれることなく、瞬間的に生まれるのに対して、精進は雑心所なので、こちらが作る時だけ生まれるということでしょうか?
精進も、不善に向ける場合と善に向ける場合で岐れるようですね。
カント的な定言命法のような、感性的物質的な世界からの厳格な超越は要求されていないとも考えられますが、志→作意→精進という方向で、常に不善ではなく善にエネルギーを向けよという意味で、アビダンマ体系の背骨にあたるのが「意志」であると言うこともできると思います。
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