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■35905 / inTopicNo.49)  Re[19]: 執着
  
□投稿者/ knowingitself -(2023/12/29(Fri) 19:02:22)
    横レス失礼します。

    私の理解では、「自負」は仏教では「慢」の概念にカバーされると思います。「慢」は仏教ではよい意味では使われないのじゃないかな。仏教の「慢」はかなり精妙。仏教国日本であろうと、ほとんどの現代人は仏教からは落第でしょう。

    この点、キリスト教では「プライド」はサタンの餌食になる最悪の傾向でもあるから、実質的には接近するかもしれない。


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■35902 / inTopicNo.50)  Re[18]: 執着
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/29(Fri) 18:37:39)
    「自負」っていうの、

    仏教的にはどういうことになってるのかしら?

    ん?この概念は仏教では何にも語られてない、っていうことだたら、それはそれでいいんだけど。

    ちょっと聞いてみたかっただけ。


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■35887 / inTopicNo.51)  執着
□投稿者/ パニチェ -(2023/12/29(Fri) 09:41:40)
    苦の因は執着である。

    仏教的には煩悩と執着は同義。


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■35342 / inTopicNo.52)  Re[16]: 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ パニチェ -(2023/12/08(Fri) 16:12:20)
    No35315に返信(パニチェさんの記事)
    >> ■No34967に返信(knowingitselfさんの記事)
    >>ここあたりは、前期ウィトゲンシュタインの背景知識として重要なので、ウィトゲンシュタインの研究者として定評のある野矢茂樹本人による、最新の新書は目をとおす価値があるでしょう。一般的にいって、新書ほどわかりやすいものはない。そのわかりやすさが安直にわかったつもりでおわる危険がないではないが、本格的に原本にあたる前に新書レベルは避けて通れない。

    > まだP.54ですが確かに仰る通りです。
    > ここまで読んでふっと思ったのは。。。。
    > 前期の写像理論と後期の言語ゲームの関係性ってのは、特殊相対性理論と一般相対性理論みたいな関係かな、と思いました。

    上記の補足です。
    特殊相対性理論というのは等速直線運動のみあてはまる理論であり、一般相対性理論というのは加速度運動も含めより一般的な運動に当てはまる理論。
    前期写像理論というのは言語と世界の鏡像関係が当てはまる言語に関する理論であり、後期言語ゲームというのはより広範囲の言語に当てはまる理論であるということ。

    get953さんの例えをお借りすれば。。。
    「私はキツネ」は前期写像理論では偽あるいは非意義的な命題。
    「私はキツネ」は後期言語ゲームではうどん屋での(への)注文というシチュエーション(文脈)が加われば有意味(有意義?)な言葉。

    あくまでも現段階で思いついたこととして。。。

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■35265 / inTopicNo.53)  Re[15]: 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ パニチェ -(2023/12/03(Sun) 22:27:37)
    こんばんは、knowing itselfさん。

    No34967に返信(knowingitselfさんの記事)

    > 先月の岩波新書の新刊、「言語哲学がはじまる」の著者は野矢茂樹です。これは読まずにはいられないと思う人が少なくないでしょう。

    今日、紀伊國屋梅田本店で購入してきました。

    ボチボチ読んでみます。
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■35176 / inTopicNo.54)  Re[20]: 形而上学批判
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/25(Sat) 13:08:20)
    2023/11/26(Sun) 07:01:47 編集(投稿者)

    形而上について「形をもっていないもの」という定義が複数の辞書やサイトで散見される。
    こういうのを見た時に思い出すのはixtlanさんとの認識論に関するレス交換というか議論。

    当時の私は今以上に無知だったこともあり、怖いもの知らずで、カントだったかハッキリとは覚えてないが、ixtlanさんがKIDAMASAさんだったかな?認識論に関する議論をしているところに横入りして「古典の認識論をもとにした議論ってのは発展性がありますか?哲学はもともと学問全体のことなんだから、現代では認識論は脳科学の知見を積極的に取り込むべきだと思います」みたいなことをレスしたことが思い出される。

    その後、寛容なixtlanさんは私の意見を取り入れていただき「脳と意識の地形図」という書籍の読書会を実施してもらい、もの凄く有意義なレス交換となった。

    「形がある」「形がない」「個物」も明らかに古典的な分類であって、特殊相対性理論でもってE=mc^2が証明されている以上、「形あるもの」と「形ないもの」は同等であるということ。
    さらに量子力学の登場でもって「形のある、なし」以前に存在についても素朴実在論がどうやら怪しいということが明確になった。

    形而上の対象として「形をもっていないもの」なんて定義は古典哲学を研究する学ならともかく、現代哲学ではナンセンスな定義だと思う。
    もし、この主張自体が否定されるような哲学が本道なら、哲学なんて過去の学問はますます衰退するのではないか?


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■35170 / inTopicNo.55)  Re[19]: 形而上学批判
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/24(Fri) 20:54:23)
    こんばんは、悪魔ちゃん。レスありがとう!
    わしもカキコしてみるけど返信はお気遣いなく♪

    No35166に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > No35148
    > ちょっとわたしの書くね。
    > >「存在としての存在」〔希〕on he on を研究する学<
    > メルポンの
    > 「あるということはどういうことか」
    > みたいな問いに近いのかも?でも始まりが違う感じ。

    ハイデガーも同じ追及してるね。
    でも「存在としての存在」を研究する分野が形而上学ってのはピンと来ない。
    これって最初から存在の存在としての神ありきでの発想ではないか?と批判したくなる。

    > >存在を存在たらしめている存在は〈私〉である。<
    > メルポンの、
    > 「私は絶対的な根源である」
    > のとなんか似てる。

    そうやね。
    わしゃ自分以外に絶対的な根源を設定するのは哲学ではなく信仰やと思ってます。

    > >〈私〉は感覚ないし経験を超え出でた存在ではなく、感覚ないし経験の主体である。<
    > 〈感覚〉は「感官」っていう「身体」からもたらされてるものだとわたし見てるんだけど、パニさんのいう〈私〉っていうの、身体はあるの?

    〈私〉には身体はないよ。
    付言すれば、身体は世界内の存在だけど、〈私〉は世界内の存在ではないからね。
    でも形而上の存在ではなく、バリバリの形而下存在です。

引用返信/返信 削除キー/
■35166 / inTopicNo.56)  Re[18]: 形而上学批判
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/24(Fri) 20:01:47)
    No35148
    ちょっとわたしの書くね。
    >「存在としての存在」〔希〕on he on を研究する学<
    メルポンの
    「あるということはどういうことか」
    みたいな問いに近いのかも?でも始まりが違う感じ。

    >存在を存在たらしめている存在は〈私〉である。<
    メルポンの、
    「私は絶対的な根源である」
    のとなんか似てる。

    >〈私〉は感覚ないし経験を超え出でた存在ではなく、感覚ないし経験の主体である。<
    〈感覚〉は「感官」っていう「身体」からもたらされてるものだとわたし見てるんだけど、パニさんのいう〈私〉っていうの、身体はあるの?



引用返信/返信 削除キー/
■35148 / inTopicNo.57)  形而上学批判
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/23(Thu) 08:22:47)
    『「存在としての存在」〔希〕on he on を研究する学が「第一の哲学」である、それは「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いものである。もし神的なものが何処かにあるとすれば、それは明らかにこの様なもののうちにある。(講談社現代新書「現代哲学事典」よりの引用)』

    存在を存在たらしめている存在は〈私〉である。
    〈私〉は感覚ないし経験を超え出でた存在ではなく、感覚ないし経験の主体である。

    形而上とは上記の引用にある「もし神的なものが何処かにあるとすれば」という前提、つまり根源的存在や第一原因である一神教の創造主を前提として捏造された分野ではないか?

    東洋では存在を存在たらしめている存在は実相であり、実相は感覚ないし経験を超え出でた存在ではなく「あるがまま」の存在である。


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■35012 / inTopicNo.58)  AIに自我は芽生えるのか?
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/12(Sun) 10:14:17)
    2023/11/12(Sun) 13:51:37 編集(投稿者)

    意識、特に自我意識とするなら、私は“No”と断言する。

    仮にチューリングテストに合格するAIが登場したとしても、この結果でもってそのAIに自我が芽生えているのかどうかは分からない。

    これは他者に自我意識が存在するのかが究極的には不明であることと結論的には同じであるが、脳も含めた同じ身体性を有することからして同列の不明、不可知ではない。
    言い方を変えれば他者に自我意識を認めるのは身体性への信仰あるいは信念に基づいているとも言える。

    AIに自我意識が芽生える可能性、あるいはAIが人間に取って代わる可能性を支持する科学者や唯物論者は、そもそも意識や自我の何たるかを追究したことがあるのか?おそらくないだろう。意識や自我の何たるかを追究しないことは唯物論者であることと同義である。

    この点においては西洋よりも東洋の方が遥かに先をいていると確信する。
    西洋哲学が意識や自我、自己に関する探究が立ち遅れていたのはやはり一神教の影響が大きい。

    『脳の物質的な活動の中に、アウェアネスを引き起こす何らかの作用が存在している。言いかえると、物理学の中に、私たちが注目すべき何かがあるのだ。だが、この物質的な活動は、計算によってシミュレートできない。その活動を実行できるシミュレーションなど、存在しないのである。脳における物質的な活動の中で、計算を超える何かが存在すべきことを、この立場は要求している。…〈中略〉… 以上のようなわけで、意識の“ある”局面における計算不可能性、特に数学的な理解における計算不可能性は、計算不可能性というものが“あらゆる”意識の特徴でありえることを強く示唆している。(ロジャー・ペンローズ著「心は量子で語れるか」より)』

    ロジャー・ペンローズが言うように意識が非計算的な何かである限り、いくら量子コンピュータによって計算処理能力がすさまじく向上したとしても、アルゴリズム上に意識は芽生えない。意識に脳内の微小管(マイクロチューブル)が関わっているのかどうかはともかく。

引用返信/返信 削除キー/
■34993 / inTopicNo.59)  Re[15]: 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/11(Sat) 07:39:06)
    おはようございます、knowing itselfさん。

    No34967に返信(knowingitselfさんの記事)
    > 「論理哲学論考」の邦訳として、ほとんどの人がまず手にとるのは野矢茂樹のものでしょう。

    > 先月の岩波新書の新刊、「言語哲学がはじまる」の著者は野矢茂樹です。これは読まずにはいられないと思う人が少なくないでしょう。

    > 帯には「フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン 言語論的転回を切り拓いた3人の天才たちは何を考えていたのか」。

    > ここあたりは、前期ウィトゲンシュタインの背景知識として重要なので、ウィトゲンシュタインの研究者として定評のある野矢茂樹本人による、最新の新書は目をとおす価値があるでしょう。一般的にいって、新書ほどわかりやすいものはない。そのわかりやすさが安直にわかったつもりでおわる危険がないではないが、本格的に原本にあたる前に新書レベルは避けて通れない。

    ご紹介ありがとうございます。
    要チェック!ですね。
    今、手元にある数冊の本を読んでから、購入します。
引用返信/返信 削除キー/
■34967 / inTopicNo.60)  野矢茂樹「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ knowingitself -(2023/11/08(Wed) 18:43:43)
    「論理哲学論考」の邦訳として、ほとんどの人がまず手にとるのは野矢茂樹のものでしょう。

    先月の岩波新書の新刊、「言語哲学がはじまる」の著者は野矢茂樹です。これは読まずにはいられないと思う人が少なくないでしょう。

    帯には「フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン 言語論的転回を切り拓いた3人の天才たちは何を考えていたのか」。

    ここあたりは、前期ウィトゲンシュタインの背景知識として重要なので、ウィトゲンシュタインの研究者として定評のある野矢茂樹本人による、最新の新書は目をとおす価値があるでしょう。一般的にいって、新書ほどわかりやすいものはない。そのわかりやすさが安直にわかったつもりでおわる危険がないではないが、本格的に原本にあたる前に新書レベルは避けて通れない。
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