□投稿者/ パニチェ -(2023/11/23(Thu) 08:22:47)
| 『「存在としての存在」〔希〕on he on を研究する学が「第一の哲学」である、それは「存在としての存在」の原因・原理を研究する。それは最も普遍的な、最も究極的なもの、その故に、永遠のものであって最も尊いものである。もし神的なものが何処かにあるとすれば、それは明らかにこの様なもののうちにある。(講談社現代新書「現代哲学事典」よりの引用)』
存在を存在たらしめている存在は〈私〉である。 〈私〉は感覚ないし経験を超え出でた存在ではなく、感覚ないし経験の主体である。
形而上とは上記の引用にある「もし神的なものが何処かにあるとすれば」という前提、つまり根源的存在や第一原因である一神教の創造主を前提として捏造された分野ではないか?
東洋では存在を存在たらしめている存在は実相であり、実相は感覚ないし経験を超え出でた存在ではなく「あるがまま」の存在である。
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