| パニチェさん レスありがとうございます
>> あと思い出したんですが、永井均さんが「瞑想はルサンチマンに気づくことだ」と言ってました。 > まったく同意ですね。 > ルサンチマンは語源的にre+感じる・感情ですから、まさに過去の感情の再現反復をいうのではないか。
>そうなんですね。ルサンチマンの語源は知りませんでした。 あと私の理解では「瞑想はルサンチマンに気づくことだ」というのは内観になります。
一般的にいえば、仏教瞑想としては、観(ヴィパッサナー)にあたるともいえると思います。
浄土真宗の系統で、「内観」という行法もありますね。
>この対極にあるのが只管打坐です。 数息観は阿字観や月輪観と同じく意識をある対象に集中させる手法です。 脳をスキャンすれば瞑想の手法によって血流や活発化したり沈静化したりする部位が異なるようですね。
禅宗の系統では、数息観、随息観、只管打坐、マントラ的な無字などがあり、いずれも呼吸が要にならざるをえませんが、テーラワーダ的な手法としてのアナパナは、表面的には違うようにもみえます。
テーラワーダ的なアナパナは、呼吸が出入りする鼻腔の接触感覚を集中の対象にしたり、鼻先の一点だけを意識したり、腹の膨らみを対象にしたりですね。マントラは使いません。
そうはいっても、同じ人間ですから、時代や環境によって違う呼吸をするわけではありません。脳の構造も同じです。根底では同じ課題にぶち当たり、それを克服しなければならない点において、変わりはないと思います。
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