| 今から約2500年前、仏陀存命中の僧伽は出家者の集団でしたが、そこでは戒が守られる事がまずはの目標だったのでしょう。所謂、持戒ですね。今お話する戒には、大きく分類して、小戒、中戒、大戒と3つほどあったようです。
小戒は、殺生を断じて一切の生物生類を哀愍して住し、偸盗を断じ、非梵行を断じて淫欲から離れ、妄語を断じて、真実を語り世間を欺かず、両舌を断じ、悪口を断じ、綺語を断じ、夜食を慎み、立派な寝床から離れ、山羊や羊を受け取ることから離れ、何某かの売買から離れ、欺瞞や詐欺、何某かの破壊、殺害、拘束等から離れると言ったものです。
中戒は、食物の飲料の衣服の財の貯蔵から離れて住し、闘牛、闘鶏等の見物から離れ、賭博や囲碁等の遊び事から離れ、立派な寝床から離れ、装身具を装飾することから離れ、無益な話から離れ、各論争から離れ、虚談から離れると言うものです。
大戒は、手相占いや夢判断、火による護摩や血液占い、土地、宅地の占い事や呪文、火を噴く事、願掛け、地鎮祭や外科手術等の無益な呪術によるよこしまな生活から離れていると言うものです。
よこしまな生活というのは、八支聖道の中の正命に対する八支邪道の中の邪命(欺瞞、虚談、占相業、詐欺等によって利得を貪求する事)ですが、その他にも多くの事が記載されているようです。しかし、これらを全てを記憶する必要はありません。記憶してもその意味がないからです。
上記の持戒の共通項は、出家者の目標とされた戒です。そして仏陀を始めとした、サーリプッタやモッガラーナ等の阿羅漢果の者達は、当然守れたであろう戒です。なぜならば、当時の阿羅漢果は無所有の実践者だったからです。
あるときアーナンダが村人と雑談をしていたのを知ったその地域の神が、雑談することに何の意味があるのですか?禅定を成しなさい。と注意を促したという経典があります。これはおそらく、アーナンダの心の中に一瞬湧き起こった自らの気づきだったのだろうと思います。そしてこれらに気づけるのも気づけないのも、本人の機根が導く運命次第という事になるでしょうか。
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