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■35212 / inTopicNo.37)  Re[19]: 純粋理性批判・B168
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/11/29(Wed) 20:20:59)
    2023/11/30(Thu) 08:33:52 編集(管理者)

    横レス御免!

    No35211に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > なんか、場違いなのだけど

    > 「原因」と「結果」

    > 「原因」は「結果」の先にあるものじゃない。
    > みたいなの、なんか記憶にある。

    > ニーチェだったけ?


    これかな?


    『「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的経験」の根本事実である・・・同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、──私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのである。・・・私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである。
    全「内的経験」は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということ──また、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因は本当の原因に対応するということは絶対にない。──それは、以前の「内的経験」を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのであり、──そのため「内的経験」は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもそれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの「外界」は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは「事物」その他の図式でもって外界を解釈するのである。
    私たちが「内的経験」を意識するにいたるのは、ようやく、個人が理解することのできる言葉をそれがみだしたのち──言いかえれば、或る状態が個人にとっていっそう熟知の諸状態へと翻訳されたのちにおいてである──。「理解する」とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古い熟知のものの言葉で表現しうることにほかならない。たとえば、「私は気分が悪い」という場合──そうした判断は観察者の偉大な老成した中立性前提する、──ところが幼稚な人間は、これこれのことが私の気分をわるくさせると、つねに言っている──そうした人間は、気分のわるいことの根拠をみとめるときにはじめて、おのれが気分がわるいことが明瞭となる・・・このことを名づけて私は文献学の欠如と言う。その間に解釈をまじえずに原典を原典として読とりうるということは、「内的経験」の最もおくれてあらわれる形式である──おそらくはほとんど不可能な形式であるかもしれない・・・(力への意志 第479番)』


    上記のアフォリズムについてのパニチェ流解釈は・・・
    Panietzsche Room > ニーチェT > 第5章ニヒリズム > 10.原因と結果




引用返信/返信 削除キー/
■35211 / inTopicNo.38)  Re[18]: 純粋理性批判・B168
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/29(Wed) 19:20:52)
    なんか、場違いなのだけど

    「原因」と「結果」

    「原因」は「結果」の先にあるものじゃない。
    みたいなの、なんか記憶にある。

    ニーチェだったけ?




引用返信/返信 削除キー/
■35209 / inTopicNo.39)  Re[17]: 純粋理性批判・B168
□投稿者/ pipit -(2023/11/29(Wed) 09:04:49)
    2023/11/29(Wed) 09:10:34 編集(投稿者)

    No35208
    (pipitの感想)

    仏教のお坊様の説法で、「欲」は対象物にあるのではなく、自分の心に起きるもの、みたいな話を聞いたことがあります。

    この場合、「欲」という概念は、対象物を客観的に規定する概念にはならない、と考えられるなら、

    それと同じく、純粋理性の前成説では、

    「原因」という概念が、対象物を客観的に規定する概念にならない、とカントは考えているのかな、と思いました。
    (だからカントはこの純粋理性の前成説を否定していると思います。)
引用返信/返信 削除キー/
■35208 / inTopicNo.40)  純粋理性批判・B168
□投稿者/ pipit -(2023/11/29(Wed) 08:59:23)
    2023/11/29(Wed) 10:10:45 編集(投稿者)

    みなさまおはようございます(^O^)
    No35132の続きです。

    (原文のDeepL英訳)
    the effect is connected with the cause in the object (i.e. necessarily),
    but I am only so arranged that I cannot think this conception otherwise than thus connected,

    which is just what the skeptic most desires,

    for then all our insight, through supposed objective validity of our judgments, is nothing but mere appearance,

    and there would be no lack of people who would not confess
    this subjective necessity (which must be felt) of themselves;

    least of all, one could not quarrel with anyone about that which is based merely on the way its subject is organized.

    (英訳のpipit日訳)

    私はただ「結果は対象において原因と結びつけられている(それは必然的に)」としか思えないように調整されているだけだ...

    そのような考え方は、懐疑論者が最も望むものであり、

    そのとき我々の洞察は全て、判断の客観的妥当性と我々に思い込まれた単なる仮象に過ぎなくなる。

    それに、彼ら自身のこの主観的な(感じられるべき)必然性を認めない人々も後を絶たないだろう。

    少なくとも、単にその主観がどのように構成されているかに基づいているのか、については誰とも口論することはできない。



引用返信/返信 削除キー/
■35192 / inTopicNo.41)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/11/26(Sun) 22:16:23)
    うましかさん、こんばんはー (^○^)

    No35187
    > 最近ちょっと体調がすぐれなくて、カント沼から離れています(´;ω;`)ウッ…<

    ( ; ; )ウッ... それは大変ですね、良くなりますように。

    > >『現代の古典カント』
    > >ヘルベルト・シュネーデルバッハ 著 / 長倉誠一、
    > >『子どものためのカント』
    > >S・フリートレンダー 著 / 長倉誠一
    >
    > おもしろそうな本ですね!
    >
    > 私も注文しよーかな。。。(;・∀・)
    >
    > 寒くなりましたねー
    >
    > お互い体調に気をつけましょう(/・ω・)/ <

    はい!
    うましかさんの体調がよくなりますように
引用返信/返信 削除キー/
■35187 / inTopicNo.42)  pipitさん、こんばんはー(・ω・)ノ
□投稿者/ うましか -(2023/11/26(Sun) 21:13:23)
    最近ちょっと体調がすぐれなくて、カント沼から離れています(´;ω;`)ウッ…

    >『現代の古典カント』
    >ヘルベルト・シュネーデルバッハ 著 / 長倉誠一、
    >『子どものためのカント』
    >S・フリートレンダー 著 / 長倉誠一

    おもしろそうな本ですね!

    私も注文しよーかな。。。(;・∀・)

    寒くなりましたねー

    お互い体調に気をつけましょう(/・ω・)/
引用返信/返信 削除キー/
■35184 / inTopicNo.43)  純粋悟性概念の超越論的演繹・B168
□投稿者/ pipit -(2023/11/26(Sun) 16:44:41)
    みなさまこんばんは(^_^)
    No35132の続きです。

    (原文のDeepL英訳)
    that in such a case the categories would lack the necessity which belongs essentially to their concept.

    For, for example, the concept of cause, which states the necessity of a result under a presupposed condition, would be false if it were based only on any subjective necessity implanted in us to connect certain empirical ideas according to such a rule of relation.

    (英訳のpipit日訳)
    そのような(前もってカテゴリーを植え付けられているような)場合、カテゴリーにはその概念に本質的に属する必然性が欠けてしまう。

    ある前提条件のもとでの結果の必然性を述べる(原因という概念)を例にすると、
    もし、ある経験的な表象をそのような関係規則に従って結びつけるという、われわれに植えつけられた主観的必然性だけに基づくものであるなら、(原因という概念)は誤りになるであろう。

    ========
    (pipit感想)
    今の話題:(経験)と(経験の対象についての概念)との必然的な適合について。

    両者が一致するのはどのような場合か?

    もし、

    世界に(たまたまカテゴリーで表されるような事象)があって、私たちの主観のアプリオリな概念と都合よく適合したなら、、、

    この主観的概念(原因)に必然性は備わっていない。ということかなぁ。

    カテゴリーがたまたま外部要因的にアプリオリに人間にあるだけでは、
    カテゴリーが客観を規定する概念に位置付けられない、とカントは考えるのかな?

    あぁ、カント読書、亀の歩み....

    今日たまたま知ったカント本、

    『現代の古典カント』
    ヘルベルト・シュネーデルバッハ 著 / 長倉誠一、
    『子どものためのカント』
    S・フリートレンダー 著 / 長倉誠一

    迷ったけど、『子どものためのカント』の方をまず注文しようかなー
    (´-`).。oO
引用返信/返信 削除キー/
■35168 / inTopicNo.44)  Re[27]: 形而上
□投稿者/ pipit -(2023/11/24(Fri) 20:41:28)
    2023/11/25(Sat) 06:40:23 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、引用ありがとう!

    No35165

    カントが生きていた時代の雰囲気ってこんな感じだったのかなーと興味深く読ませてもらいました
    (*^ω^*)

    > これによると、
    > 形而下のもの=およそこの世にあるありとあらゆるもの。
    > 形而上的なもの=われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。形而下のもの上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。
    > っていうことになるのかな。
    >
    > マニュエルちゃんは1724−1804年に彼の生きられた生活世界で生きた人みたい。彼の知的欲望と、とりまく当時の状況はこういうのかどうなのかはわかんないけどね。<


    私、まだ内容を理解できてないけど、『道徳形而上学の基礎づけ』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫
    を持ってるんね。

    開いてみたら、序文に『形而上学』に関する簡単な説明があったので引用します。

    (カントの文章)
    『経験的なものを土台とするすべての哲学は、経験的な哲学と呼ぶことができる。

    これにたいしてアプリオリな原理だけに基づいてその学の内容を展開する哲学は、純粋な哲学と呼ぶことができる。

    この純粋な哲学は、それがたんに形式的な学である場合には、論理学と呼ばれるし、知性の特定の対象を考察する場合には、形而上学と呼ばれる。

     このようにして二種類の形而上学の理念が誕生する---自然の形而上学と道徳(ジッテ)の形而上学である。』

    『道徳形而上学の基礎づけ』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p14より引用。

    私見なんだけど、
    カントとしては、当時の、悪魔ちゃんが引用してくれたような従来の形而上学を解体して、
    アプリオリな原理に基づいて知性の対象を考察する学、って勝手に?組み直しちゃったんじゃないかなぁ、って。

    まあ、神様は信じてたんじゃないかなーと、pipitは勝手にそんな気はしてるけどね。

    悪魔ちゃん、書き込みありがとうね!

引用返信/返信 削除キー/
■35165 / inTopicNo.45)  Re[26]: 形而上
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/24(Fri) 19:11:01)
    No35144、pipitさま、ありがと。

    ちょっと探してた。

    【「カント」小牧治著清水書院1967】のなかに書いてあったのを一部書き写します。
    『自然科学の進歩は、いままでのような姿の信仰に、動揺を与えないではおかなかった。まして、自然学・哲学・神学など、学といわれるものにたずさわる者には、深刻な影響を及ぼした。そこで、哲学者たちは、自然科学と信仰との調和統一を考えた。すなわち、彼らは、神・霊魂・世界全体など、形而上的なもの〔われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。およそこの世にあるありとあらゆるもの(形而下のもの)の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。〕を、例えば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。そして、自然科学と矛盾しないことを示そうとした。つまり、合理的な形而上学を目指したわけである。』
    みたい。

    これによると、
    形而下のもの=およそこの世にあるありとあらゆるもの。
    形而上的なもの=われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。形而下のもの上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。
    っていうことになるのかな。

    マニュエルちゃんは1724−1804年に彼の生きられた生活世界で生きた人みたい。彼の知的欲望と、とりまく当時の状況はこういうのかどうなのかはわかんないけどね。







引用返信/返信 削除キー/
■35157 / inTopicNo.46)  Re[25]: 形而上
□投稿者/ pipit -(2023/11/23(Thu) 18:13:31)
    田秋さん、お答えありがとうございます(^○^)♪

    『形』は、目にはっきり見えるもの、って考えたらいいのかなぁ

    生きてる、って、不思議な現象に思えてきますね
    (#^.^#)


引用返信/返信 削除キー/
■35156 / inTopicNo.47)  Re[24]: 形而上
□投稿者/ 田秋 -(2023/11/23(Thu) 18:08:41)
    心や感情に形は無いと思います。
    「ある」と答えて「じゃ、書いてみろ」と言われたら困るから。
    だから形あるものには入らないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■35155 / inTopicNo.48)  Re[23]: 形而上
□投稿者/ pipit -(2023/11/23(Thu) 17:54:05)
    田秋さん、こんばんは!
    レスありがとうございます(*^◯^*)

    心、とか感情は、形あるものに入るのですかね??
引用返信/返信 削除キー/

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