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■35256 / inTopicNo.61)  solipsismについてのメモ5
  
□投稿者/ うましか -(2023/12/03(Sun) 10:52:58)
    ・"N.Nは私である"と、"私はN.Nである"について

    ・固有名詞(氏名)N.Nは、与えられる。

    ・つまり、この「N.N」とは、"あなたはN.Nである"という意味である


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■35255 / inTopicNo.62)  solipsismについてのメモ4
□投稿者/ うましか -(2023/12/03(Sun) 09:19:35)
    ・前提としての他我問題、他我の認識と他我の存在を問うこととしての

    ・実存的なsolipsism

    ・他我問題を出発点としないsolipsismは可能か

    ・先験的なsolipsism?

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■35253 / inTopicNo.63)  再訪:<私>のメタフィジックス
□投稿者/ うましか -(2023/12/03(Sun) 08:38:18)
    ◇永井均『<私>のメタフィジックス』,1986年

    https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26771.html

    【目次】

    はしがき

    T 独我論(ソリプシズム)−〈私〉の形而上学(メタフィジックス)

    1 他我問題
    2 感覚の文法
    3 コギト・エルゴ・スム
    4 〈私〉−不在の実体

    U 利己性(エゴイズム)−『私』の倫理学(エシックス)

    1 『私』− 現実を構成する虚構
    2 行為の正当化
    3 「道徳哲学」の問題 
    4 人生の作品化

    V 自己愛(ナルシシズム)− 私≠フ人間学(アンスロポロジー)

    1 人間学的再出発
    2 私=| 構成された虚構
    3 「人間」という神話

    あとがき

    *******

    ◎うましかメモ

    ・永井の「私」論 − 〈私〉、『私』、私
    ・永井のソリプシズム論には、前提として「他我問題」(他我の認識、他我の存在)が欠かせない。
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■35191 / inTopicNo.64)  solipsismについてのメモ3
□投稿者/ うましか -(2023/11/26(Sun) 22:06:11)
    ・さて、"N.Nは私である"と、"私はN.Nである"は、同じなのだろうか。

    ・私は、N.Nという固有名詞(氏名)を−所有している−。

    ・一方、固有名詞(氏名)N.Nは、それだけでは一人称ではない。N.Nは〜と言われるとき、N.Nは三人称である。


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■35190 / inTopicNo.65)  solipsismについてのメモ2
□投稿者/ うましか -(2023/11/26(Sun) 21:32:34)
    ・もし私に固有名詞(氏名)が与えられていなかったら、私が「私」と呼び指すものを、今の私のように意識できるだろうか?

    ・モノには、少なくとも、ヒト(自分以外の)には、固有名詞(氏名)が与えられていることを、幼い頃に私は学んだ。(そう記憶している。)

    ・だが、それより以前に、ママ(オカアサン)とかパパ(オトウサン)といった指示語と指示対象の関係をおぼえ、彼らから、与えられた固有名詞(氏名)を呼ばれることによって、(例えば氏名)"N.Nとは「私」である"という一つの文法を得たのではないか、、、とおもわれる。

    ・さて、"N.Nは私である"と、"私はN.Nである"は、同じなのだろうか。
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■35145 / inTopicNo.66)  D.プリチャード「懐疑論」(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/11/22(Wed) 23:18:50)
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■34926 / inTopicNo.67)  solipsismについてのメモ
□投稿者/ うましか -(2023/11/04(Sat) 20:31:31)
    ・心的状態をもつのは自分だけだという見解を「独我論」と呼ぶ。

    ・J.R.サール(No.34603 / 『MiND マインド 心の哲学』)のまとめによれば、独我論には少なくとも三つの段階がある。

    ・一つめはもっとも極端な形式。これは、私こそが世界でただ一人の心的状態をもつ人間であり、実際、私の心的状態のほかに世界にはなにも存在しない、というもの 

    ・二つめは認識論的な独我論。これは、他人もひょっとしたら心的状態をもっているかもしれないが、それを確かめることはできないというもの。
     
    ・三つめは、他人も心的状態をもっているが、それが私の心的状態のようなものであるかはわからないというもの。 
     
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■34922 / inTopicNo.68)  永井均「インタビュー いま心を哲学する」
□投稿者/ うましか -(2023/11/04(Sat) 20:00:13)
    ◇『現代思想 特集 汎心論 − 21世紀の心の哲学』

    http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3429

    >万物に心は宿るのか――現代哲学の最新問題を追う
    現在、「汎心論」つまり「生命のあるなしに関係なく、万物は心あるいは心に似た性質をもつ」という思想が復興しつつある。しかしそれは科学的世界像に背を向けるのではなく、いっそう合理的・科学的な自然主義の立場を求めるところに成立する、まさに21世紀の心の哲学なのだ。本特集では、国内外の代表的論者の主張とそれをめぐる論争を軸にすえながら、現代汎心論の本格的紹介を試みる。<

    *******

    「生命のあるなしに関係なく」、万物は心、或いは心に似た性質を持つ、、、という思想が復興しつつある、、、(。´・ω・)?!

    例えば、目の前にあるコーヒーカップや机、ペンが心を持つという思想に、今さらながら軽い驚きをおぼえるとともに、そうした思想が以前に在り、それが復興しつつあるという記述に興味をかきたてられた(´-`).。oO

    、、、というわけではなく、冒頭のインタビューで「汎心論がそもそも何を主張しているのかがよくわからない」と駄々をこねる?(・∀・)永井均の話し(返し)が、めずらしくおもしろく感じられる(/・ω・)/
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■34921 / inTopicNo.69)  うましかな関心事更新(/・ω・)/
□投稿者/ うましか -(2023/11/04(Sat) 19:39:28)
    哲学にはさほど興味のない私うましかですが、消化試合の人生のうちなる残り火としては、まだこんなことに辛うじて関心があります。

    ▽他人の思想としては、

    ◆カントの『純粋理性批判』
    ・pipitさんの「純粋理性批判を読んでみる」トピにてお勉強中♪

    (;゚Д゚)(゚Д゚; ) カント沼


    ◆ウィトゲンシュタインの哲学の初期から中期にかけて
    ・『論理哲学論考』とそれ以降
    ・『哲学探究』は今のところあまり興味ナシ(´・ω・`)

    ▽テーマとしては、

    ◆独我論
    ・以下は『岩波哲学・思想事典』のp.1176、永井均の解説(一部)
    ・ラテン語のsolus(〜だけ)とipse(自己)を合成してできた語で、<自己だけ>を重視する立場一般を指し、倫理的な自己中心主義、利己主義を意味する場合もあるが、狭義では<自己だけ>が<存在する>とする立場を指す。

    ◆死生学
    ・人文死生学 なる分野を知った。
    https://sites.google.com/view/thanatology-as-humanities


    *******

    更新

    No.28264,29993,31237,32819
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■34603 / inTopicNo.70)  サールによる「心の哲学」概要(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/10/22(Sun) 18:27:34)
    2023/10/22(Sun) 18:32:56 編集(投稿者)

    ◇ ジョン・R・サール『MiND マインド 心の哲学』

    https://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255003252/

    ちくま学芸文庫版は↓(・ω・)ノ

    https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480098856/

    *******

    下に引用したサールの「独我論」概説はわかりやすいですね。独我論はサールが「他人の心(「他人にも心があることを人はどうやって知るのだろうか?」という問い)」〔サール,p.35〕を論ずる際のトピックの一つです。

    ちなみに独我論の直前に「類推論法」が出てきますが〔同,p.36〕、サールのいう「自分の心的状態との類推[アナロジー]によって、他人の心的状態を推測できると考え」、「自分と他人とのあいだの隔たりを埋める」という作業こそ、日々私があまり疑いもなく行っていることの正体なのだと、私うましかは感じざるを得ません(;´Д`A ```

    それはさておき、引用。

    >心的状態をもつのは自分だけだという見解は「独我論」と呼ばれる。独我論は少なくとも三つの段階をもつ。一つめはもっとも極端な形式だ。この立場によれば、私こそが世界でただ一人の心的状態をもつ人間であり、実際、私の心的状態のほかに世界にはなにも存在しない。二つめは認識論的独我論である。それによると、他もひょっとしたら心的状態をもっているかもしれないが、それを確かめることはできない。他人もまた心的状態をもつということはいかにもありそうなことだが、私が観察できるのは外部にあらわれるふるまいだけなのだから、それを確認するすべはない。三つめはこうなる。他人も心的状態をもっているが、それが私の心的状態のようなものであるかはわからない。私の知るかぎりにおいて、私にとっての「赤を見ている」という経験は、あなたが「緑を見ている」ときにもつ経験とまさに同じものかもしれない。また、あなたが「赤を見ている」という経験は、私が「緑を見ている」という経験とまさに同じものかもしれない。私たちは同じように色を区別しているのだから、同じ色盲テストをパスしているといえる。赤鉛筆の入った箱から緑鉛筆を拾いだすように言われたら、私たちはともに緑鉛筆を拾いだせる。しかし、色の区別を可能にする内的体験があなたと私で似通っているということを、私はどのようにして知るのだろうか?< 〔サール,p.37〜38〕

    次の段落のサールのコメントは辛辣(;´・ω・)

    >独我論は哲学史においてはまれであり、有名な独我論者というのもいない。これまで、ときに高名な哲学者、あるいはそうでない哲学者たちによって、想像できるかぎりのあらゆる途方もない哲学的立場が提唱されてきたが、私の知るかぎり、歴史上高名な哲学者で独我論者であった者はいない。もちろん、もし誰かが独我論者だったとしても、その人が私たちに向かって「自分は独我論者だ」などと伝えるにもおよばないだろう。というのも、その人の立場からすれば、私たち他人は存在していないのだから。<〔同,p.38〕




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■34166 / inTopicNo.71)  さて、モンクとマクギネス(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/10/18(Wed) 23:23:32)
    レイ・モンクによる伝記『ウィトゲンシュタイン1』,p.130にはこうあります。

    >しかしながら、彼はなんとかして読書をしようと努めた。11月には、彼はエマーソンの『随筆集』を読み始めた。「たぶん、私にいい影響を与えるであろう」、と考えた。実際にそうなったのかどうかについて、彼は語っていないし、エマーソンは彼の日記にはそれ以来取り上げられていない。確かにこの時期に(あるいはまた他のどの時期にも)彼の書いたものにエマーソンの影響の跡は見られない。
     もっと刺激的になったのはフリードリッヒ・ニーチェであった。その見解はウィトゲンシュタインが信奉したトルストイ的キリスト教と反対の立場にあったとは言えないものであった。ウィトゲンシュタインはクラクフでニーチェの選集8巻を買っていた。その一つに毒舌をもってキリスト教を攻撃した『アンチ・キリスト者』が入っている。<

    ウィトゲンシュタインのエマソンからの影響については、マクギネスによる伝記p.380〜の記述とは対照的ですね(;´・ω・)
    ウィトゲンシュタインがエマソン(『随筆集』)、次いでニーチェ(選集第8巻)を手に取ったのは、二人の先人の影響関係を知っての上のことだったのか(。´・ω・)?

    沼が沼を呼ぶ〜(/・ω・)/
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■34165 / inTopicNo.72)  エマソンとニーチェ(。´・ω・)?
□投稿者/ うましか -(2023/10/18(Wed) 22:49:19)
    『ニーチェ事典』p.51〜「エマーソン[Ralph Waldo Emerson 1803-82]」の三島憲一の解説によれば、

    >ニーチェがエマーソンを愛し、若いときから幾度も読み返し、親縁性を感じ続け、また影響を受けていたことは、あまり知られていない重要な事実である。<

    三島によれば、ニーチェ[1844年10月15日 - 1900年8月25日]はすでに高校時代にエマソンを愛読していましたが、学生時代にそれがショーペンハウアー経験と合体していたことは以下の手紙の一節からわかるとのこと。

    エマソンの描く真夏の野原の静けさについて、その「完璧となった」自然の経験について「そのときわれわれはつねに伸びていく意志の呪いから自由となり、純粋な、観照するだけの、利害関心なき眼となる」と。

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