| No32314のつづきね
〈自(心)には性別(女性・男性)はない〉とか、〈自(心)に性別(女・男)を持ち込まない〉、ってわたしして見たんだけど、 ってしたとき、わたしに発生した問題はね、 じゃあ、 No32212 の資料にあるような、 「トランスジェンダー」って呼ばれてる状態――〔「身体の性」は男性でも「心の性」は女性というように、「身体の性」と「心の性」が一致しないため「身体の性」に違和感を持つ人。〕、〔ジェンダー・アイデンティティ(性自認・性同一性)が出生時に割り当てられた性別と一致しない人のこと。〕 「性同一性障害」って呼ばれている状態――〔「からだの性別」(sex)と、本人が自覚する「心の性別」(gender)が一致しないために苦しむ状態〕、〔医学的な概念である「男女」という2つの性別の原理に基づき、「体は男性だけど自分は女性」、あるいは、「体は女性だけど自分は男性」という認識を持つこと〕
こういうのをどうしましょうか?っていうこと。しばらく考えてた。
「gender」っていうの、「心に性別がある」っていう見方――そして、体が男性ならば心も男、体が女性ならば心も女みたいに――「性同一性である」――っていうのが基本になってるんだと思う。 でもわたし、〈自(心)には性別(女・男)はない〉っていう見方をしたわけね。
たとえば、「体が女性で、自(心)がそれに違和感を持つ」――ホルモン療法や手術したりして、“女性の体ではない体になりたい(あるいは男性のような体になりたい)”――ってなってる自(心)、で考えていって見る。
まず、genderの見方の方で見て見ると、「心に性別がある」そして「女性の体なんだから心も女である(性同一性)」っていうのが前提にあるから、女性の体なのに女性の体ではないような(男性のような?)体を欲するのは性同一性障害だ、ってなって、そして、そう欲するのは、“心が男だから”ってなって、ようするに、「心が男だから体も男性のようにしたいんだ」っていうふうになっちゃてるのかな?これって、やっぱ「性同一性であること」のなかで、よね。
次に、〈自(心)には性別がない〉、ってして見たとき、こういうの、どう見たらいいのかしら? 「女性の体で、それを男性のような体にしたい、と欲している」から、「心が男だから」は必ずしも言えないんじゃないかしら?って見たのね。だって自(心)はどうなってるのかは分かんないから。 自(心)が男性のような体を欲してる(ただそれだけ――自(心)に性別を持ち込まない)。ただそれを他者に求めるのではなく、自分自身(自の体)に求めている、ん〜ん、一種の自己実現的な?そんなようなんじゃないかしら? 社会的に体の性によって男性・女性って分けられてるなかで、私の体を男性のようにすることによって――私の体によって――社会的に認めてもらおうとする、こんな感じの。
「体が女性で、自(心)がそれに違和感を持つ」を事実性として見て、でも、どうしてそうなってるのかはわたしにはわかんない。ただその理由として「心が男だから」って、わたしはしない、っていうこと、だったみたい。
「心にも性別がある」そして「性同一性である」っていう見方から、No32212の資料にあるように、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ トランスジェンダー (T) は、・・・・トランスセクシュアル、ノンバイナリー、ジェンダークィア、ジェンダーフルイド、ジェンダーレスなども含めることがある。日本ではノンバイナリーに類似した用語としてXジェンダーがある。 Q はクィア (Queer) を意味している場合と、クエスチョニング (Questioning) を意味している場合がある。(クィア (Queer):「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉。同性愛者への侮蔑語でもあったが、1990年代以降は性的少数者や、LGBTのどれにもにあてはまらないが、ヘテロセクシャルやシスジェンダーでない人々全体を包括する用語として使われている。) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ のように、いろんな場合が考えられているんだと思うけど、「心には性別はない」ってして見ると、こういうのはもう考えなくてもよくなる気がする。
「gender」というのは社会・文化的につくられたものみたいだし、なにもそういうふうに”思い込んじゃう”必要はないよね。
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