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■32847 / inTopicNo.73)  ザビビのふくろうさんへ
  
□投稿者/ 時 -(2023/09/03(Sun) 16:22:20)
    2023/09/03(Sun) 16:30:28 編集(投稿者)

    ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32841
    > ちなみに時さんの公園でのボールのエピソードについては、私は次のように考えます。

    > 自分が無意識に(即自的に)行った意志行為(払った)を、後になって、自分が意識化(対自化)し主観記述した、というだけの話で、ここには錯覚も幻想も創作もなく、事実だけがあると思います。

    なるほど。ザビビのふくろうさんのご認識は、了解しました。^^

    繰り返しになるかとは思いますが、ここで疑問符が付くのは「自分が無意識に(即自的に)行った意志行為(払った)」というところですね。自分が?無意識に?行った?→意志行為??のところです。無意識の行為が意志の行為で?しかもそれが我が主体なのか?という所に独りで拘っていました(笑)現在の私の答えは、強いて表現するのであればですが、そこに「私」は存在しないというものですね。

    ですので、事実を客観記述するならば「ボールが払いのけられた」だけですね。(笑)そこには払いのけたはずの主体である我は存在しえません。なぜならば、無意識下での出来事だからです。

    まぁ、ここは見解の相違という事で^^

    > 創作・幻想なのは、その端的な事実を、デカルト的二元論のドグマを前提にして、意識(心的主体)である自分が自分の意志で、単なる物にすぎない身体をコントロールし(ボールをはらうという)動作をさせた、と考える哲学的解釈の方です。

    > ついでに言っておくと、
    > 前野さんは自分の立場を一元論と言ってるようですが、受動意識仮説は、明らかにデカルト的二元論のバリエーションです。

    > と私は思います(笑)

    了解しました^^

    > あとですね、哲学的には、意志による身体のコントロールを幻想とすれば、倫理的責任というものも幻想なのか?という問題が直ちに立ち上がるので、この問題も引き受ける必要が出てきます。
    > 私の場合は当然これも、間違った前提に基づく疑似問題に過ぎないと思いますが。
    > まあ、こちらの問題を時さんが気にされるかどうかはわかりませんけどね。

    はい。そうですね。

    こちらも学問的な哲学ではなく、ましてや各専門分野での正確なデータも持ち合わせていない、他を納得させられるだけのエビデンスのない、時の人生哲学=妄想哲学での自らへの理解、納得のさせ方ですが、仮にこれを今だけ、遺伝子と環境、意識妄想説と名付けてみましょう(笑)

    遺伝子と環境、意識妄想説とは、この世における動植物は、その遺伝子が周りの環境に単に反応しているだけであるという仮説です。そしてその遺伝子の中には、特に大きな脳を持つといわれるもの特有の意識を生み出すものもあります。(笑)

    人間は動物であるので、これは他の動植物と同じく、あるとき地球上で自然発生的に生じました。つまりは、人間は自然から生まれました。

    自然とは考えると不思議なもので、犬には犬のヒマワリにはヒマワリの、そして人間には人間の遺伝子が別々のものになりました。ですから、それぞれの遺伝子の設計通りの見た目や行いがその環境に合わせて自然に起こり続けます。

    そこで自然発生的に生じた遺伝子の中で、脳の大きな動物には、意識が生じるものも組み込まれていました。これは勿論、人間で言うところの「私の」という思いを生じさせる大元の意識と言われるものです。

    実際には、各遺伝子が環境に反応して(動いて)いるだけの昆虫や花等の草木、ミミズや人間の中で、自然から大きな脳を作り出す遺伝子を与えられた人間には、特に「私の」という意識(思い)が発達して、やがてはそれは、実際には単に自然から発生して周りの環境に反応しているだけのことなのに、私が行ったとか、私は〜ができるとか、私の努力が足りないとか・・と言う主体性という幻想を、あたかもそれが当然の事実かの様に錯覚しだしました。

    努力すれば、成功しますかね?成功しないのは、努力が足りないからですかね?
    頑張れば大リーグで活躍できますかね?何かの発想には、1%のひらめきが必要ではないのですかね?では、そのひらめき自体は、何を起因とするのですかね?そしてもしもそのひらめきが起こったとしても、それが成功するかなんてことは別問題ですね。では、そのひらめきがなく、単に努力だけで上手く事が進むでしょうか?なんて事を過去に”私は”考えていました。(笑)

    ここで通常の思考世界に戻して考えてみると、例えば何かの犯罪が起こったとします。倫理的責任も問われますね。自らの意思で起こしてしまった泥棒という犯罪で、警察官により逮捕されるでしょう。そこでいくらその泥棒が「私は存在しない!自由意志は幻想なんだ!いやいや、意志そのものが幻想だ!なぜならば私が盗もうとした0.4秒前には私の意志とは別に行動が開始されていたのだから!」なんて言っても警官に「はいはい。」で連行されるでしょう(笑)

    でも仮に意識の一切が幻想ならばと考えてみると、そこで起こったことを記述すると「泥棒をして捕まった」だけです。もう少し言えば「捕獲したら、捕獲された」そして「環境に対して反応が起こったら、その環境に対して反応が起こった」と言うだけです。(笑)

    A(泥棒)の遺伝子がその環境に反応して行為が起こった。それは盗みという行為だった。・・B(警官)の遺伝子がその環境に反応して行為が起こった。それは捕まえるという行為だった。と言うだけです。(笑)この世界観では、責任感や罪悪感、倫理観や正義や悪等はありません。だから楽になるのですね。(笑)やりたい放題の世界観です。ですが、やりたい放題といっても犯罪率等は今と同じになるでしょう。なぜならば、今言う泥棒や犯罪や逮捕や正義感や倫理観は、意識の中での出来事の分別表現だからです。ですので犯罪率等は、何も変わりません。変わるとすれば、気持ちが楽になるだけです。

    この仮説では、実際に起こっているのは、各人の各遺伝子がその各環境に応じて各反応(捕獲、捕獲)が起こるだけですが、倫理観だ正義だ悪だという認識機能、分別判断というものを生み出す意識の部分が、人間の遺伝子に組み込まれているのではないか?というものです。

    犯罪を犯してしまう警察官、定年間近で痴漢で捕まる大企業の役員、冤罪を生み出してしまう裁判官、そのそもそものシステム。文化財に落書きをする中学生。神を信じて拝み倒す人々。他でこれらの説明がつくでしょうか。倫理観の欠如?常識の欠如?倫理観の欠如した人に、倫理観を持たせる方法はないでしょう。まぁ、いいのですが。(笑)

    賛同を得られるかどうかは別にして、全てが、各遺伝子が周りの環境に反応しているだけだと考えると説明がつきそうです。恐らくは意識がないであろうカニや杉の木が、なぜ栄養を吸収して成長して、卵を産んだり木の実を落としたりして、やがてはそれぞれの死を迎えるのか?人間も同じでしょう。そこに意識というものがあるのかどうかの違いだけで(笑)

    人はなぜ人を殺してはいけないのか?という問いには、各人様々な思いが沸き起こるでしょう。しかし、その答えがどのようなものであれ、殺人を犯してしまう遺伝子の所有者は期せずして殺人を犯してしまい、その遺伝子がない人には、殺人は犯かせません。ただし、その遺伝子は現在の所、判別はできないのではないでしょうか。仮に遺伝子研究の学者が、その環境下でその遺伝子を発見したと思っても、それもその学者の意識のなかのできごとですので、実際には、どうにもなりません。つまりは、今まで通り、起こることは起こるべき時に起こるだけです。起こらないことは決して起こらないでしょう。なぜならば、殺人犯の遺伝子は、その殺人犯自らが持とうと思って持ったものではないからです。それはその環境条件がそろえば、突如としてその環境に反応するという事です。

    自分の寿命を少しでも延ばす事ができないのに、なぜ他の事を思いわずらうのですか?(イエス)

    それが、各人の自覚なき運命だと思います。

    > この自由意志の問題は、正真正銘の哲学的問題です。
    > 哲学的問題は、疑似問題であろうがなかろうが、自分が納得行くまで考えないと仕方ないですしね。頑張ってください。

    はい。ありがとうございます。一応は、上記で納得しています。^^

    > いつものようにエラそうにいろいろ述べましたが、言うまでもなく私見に過ぎません。
    > だけど私の方は、おかげで、あれっ?案外私の考え、行けるんじゃないの?って気がしてきました(笑)
    > ありがとうございましたm(_ _)m

    毎回、ザビビのふくろうさんにお話しいただくと、新たな知識や視点が獲得できますので、刺激的ですー。^^

    こちらこそ、ありがとうございました。m(__)m

    パニチェさんへ

    ディオニュソスホールという事で、ご容赦を^^
引用返信/返信 削除キー/
■32854 / inTopicNo.74)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/04(Mon) 11:51:48)
    パニチェさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32834
    > なるほど、バクティですか。
    > ヨガ教室を主宰している私の友人もバクティでもって涅槃を目指してますが、まだ道半ばみたいです。
    > 言葉的にはリグ・ヴェーダ(ウパニシャッド)とかヒンドゥー教用語ですが時さんは仏教を学ばれる前はヴェーダーンタを学ばれてたのですか?

    > それとも用語的にはバクティという言葉が合致するが特定の宗教ということではなくて神(法あるいは最高神)への帰依、つまり信仰をお持ちだったということでしょうか?

    私の場合には、特定の宗教や信仰というよりも、インド聖者の悟りといったことに過去の一時期興味を持った時期がありまして、インドに渡り誰かに師事して弟子入りしてと言う経緯もなく、自己流で調べていき学んだのですね。ですので、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルバの4種類のヴエーダの中のどれですか?とか、誰の?どの教室で?とか言ったことにつきましては、分からないのですね。全て、自燈明での独学です。^^

    しかし今、少し調べてみますと、賛歌の詠唱こそしませんが、リグ・ヴェーダの中のベーダーンタにあたるように思います。

    簡単に表現しますと、バクティにより神に全ての運命をゆだねればアドヴァイタの境地に至るという事を2年間ほど実践してみたという事です。当時は、二元の現行世界と、一元のアドヴァイタの世界を行ったり来たりを独り繰り返していたように思います。その途中には、梵我一如と表現される境地の理解も起こりました。なぜインド聖者の悟りに興味を持ったかにつきましては、ご容赦いただければと思います・・

    ですので、その後にいろいろと知識を得られた結果、言っていたそれは梵我一如ではなくて不二一元の境地と言うのだなと理解が深まったという感じです。そしてその当時には、仏教の”ぶ”の字にも興味がありませんでした。^^

    > また原始仏典(私は全て読んでいるわけではないので分かりませんが)とバクティは反りが合わないとことはないですか?

    反りが合わないといえば合わないですし、合うといえば合いそうですね。

    私の理解では、当時も今もインドでは、その境地の違いこそあれ、それぞれが悟りだ涅槃だ、これ以上の境地はないのだと、主張しあっているようですので、ごちゃまぜ状態でしょうか。

    ですので、パニチェさんのご友人のヨガによる涅槃志向も分からなくもありませんが、その涅槃と表現されている境地と、私が原始で学んだ涅槃の境地では、どちらが正しいとか間違いとかではなく、違った境地になるかと思います。

    原始の中にも仏陀が苦の滅尽の境地を完成させる以前(修業中)には、恐らくは婆羅門だと思いますが、不二一元(無所有処)の境地の師である、アーラーラ・カーラーマや次の不一不二(非想非非想処)の境地の師である、ウダカ・ラーマプッタに師事したとありますが、これらをすぐにマスターして、最終の境地はこれらではないという事で、仏陀独自の四禅定の道へと進んでいくのですね。

    原始の中には、仏陀の弟子のサーリプッタが命終間近の人物に乞われて、その不二一元(無所有処)=梵天界への道を教示して、その人物は命終したというお話があるのですが、後日、そのお話を知った仏陀が、サーリプッタに「なぜ?そのような劣った境地への道を教示したのですか?」と単なる質問とも叱責とも取れるような言葉を語ります。

    教えを乞うたその人物が、梵天界に転生したにも関わらずです。・・という事は、梵天界=不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は仏陀の世界観では最高ではないという事になりますね。原始の内容とも矛盾はないようです。

    その不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は、仏陀の説いた九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の最後から3番目になりますので、仏陀の表現した”劣った境地”であるというのは、仏陀の世界観では間違いではないでしょう。

    ですので、最初インド聖者の悟りに興味を持ち、独自でアドヴァイタを知り、そこでしばらくそれが本当なのかを自身の外部である当時の他掲示板等で発信して、本当に問題が発生しないのかという事を試していました。試した結果、やはり問題は発生しないという事が確認できました。(ザビビのふくろうさんとは、この時期に知り合いましたので、問題ありませんという言葉を連呼していたことは、記憶にあると思います)

    ですので、バクティでのアドヴァイタの境地で留まれば、仏教とは相容れないでしょうし、バクティによるアドヴァイタの完成=原始で言う(恐らくの)無所有処の境地だという理解が起これば、原始で言う所の想受滅を目指せるように思います。要は、それぞれの処で無意識にでも執着しないことでしょうか。それ以前には、その無意識での取着に自らが気づく必要がありますね。そのためにも行われるのが、四念処という観瞑想で・・・とお話は延々と続きそうですので、この辺りで(笑)

    > すみません、あくまでも興味本位からの質問ですのでスルーしてもらっても構いません。^^

    いえいえ、とんでもありません。興味を持っていただけるのは、大変有難い事です。^^
    返信が遅くなり、すみません。
引用返信/返信 削除キー/
■32868 / inTopicNo.75)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/05(Tue) 11:16:50)
    2023/09/05(Tue) 20:12:32 編集(投稿者)
    パニチェさん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。


    No32844に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/03(Sun) 16:49:56 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No32842に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>え〜、前回少し触れましたが、
    >>パニチェさんの学術用語の用法が一般と少しずれることがあるのと、こちらの理由がより大きいのですが、私の『論考』および映画『マトリックス』の解釈があまりに違うということもあって、ちょ〜どええ感じの刺激になるようなコメントをするのが、いろいろ考えたんですが難しいんですよね。
    >
    > ちょ〜どええ感じでなくても構いませんから、次の返信では忌憚なくお願いします。
    >
    >>それで今回は、主眼はパニチェさんの「弱い独我論」を理解することにおきます。
    >>それでも、勘違いの可能性があると思いますので、違ってたらご指摘ください。
    >
    > 了解しました。
    >

    適切な指摘をもらって、たすかりました。

    >>その後、ひとつだけ、話を簡単にするため、永井の〈私〉=パニチェさんの〈私〉とあえて仮定して、私の疑念を述べます。ちょっとお茶を濁す感じになるかもしれませんがご容赦ください。
    >
    > 大丈夫です。^^
    >

    違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。
    この作戦は成功だったかな?(笑)

    >>前に言っていた『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んでいれば、もっと共通の土台が得られて話をしやすかったかもしれませんが、まだ読めていないんで、すみません。
    >>またVRについてももう少し勉強したいと思っているので、また機会があればそのときにお願いします。
    >
    > いつでもいいですから、もし飽きずに?呆れずに?(笑)完読できた際には、是非、ザビビのふくろうさんも感想をお聞かせ下さい。
    > ちなみに私は『〈仏教3.0〉を哲学する』は6〜7割くらいしか消化?納得?できてません。
    >

    最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。
    ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑)
    で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^

    >>*****************
    >>「弱い独我論」をできるだけシンプルにとらえたいと思います。
    >
    >>換骨奪胎して言うと、
    >>【弱い独我論】
    >>直接存在確信される、知覚の超越論的主体である〈私〉の存在と、世界内に存在し、知覚を通して間接認識される知覚対象(存在)の、両方の存在を認める。
    >>しかし、
    >>知覚存在については思考実験(デカルト的懐疑、水槽の中の脳、『マトリックス』)の検証結果として実在性の確証が得られない(仮象)ので、
    >> 実在性の確証が得られる〈私〉の存在のみを実在とみなす考え。
    >
    > 一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。
    >

    この「実在」は「実体」とも言えますか?

    >>【引っ掛かる点】
    >>今回、私の質問に対して、
    >>>自分の身体、眼、脳は(他者の身体、眼、脳と同じく)触覚(身根)や視覚(眼根)を通じてあることが分かりますから(2)ですね。
    >
    >>という回答ですので、眼、脳は、知覚存在であり、世界内部存在であるということになりますね。
    >
    > そうです。
    >
    わかりました。

    >>ですが、パニチェさんは、〈私〉の存在を世界の内部にはない存在とされており、その説明モデルとして眼を用いて説明されます。ちなみに、永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きますが、これ、パニチェさんも同じですよね。
    >
    > あっ、少し違います。〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。
    >
    > 「見られるもの」と「見るもの」があるとして、「見られるもの」は「見るもの」で見れますが、「見るもの」は「見るもの」では見れないように、「感覚」で「感覚の主体」であるところの〈私〉は捉えることができないという説明でしたが、あれだのレスではちょっと分かりにくかったですね。
    >

    なるほど。わかりました。
    補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m


    >>この説明モデルでは、眼は世界の内部存在ではないように思います。
    >
    > あくまでも眼は世界内存在です。何故なら触覚でその存在を確認できる物質だからです。
    >
    >>これは、映画『マトリックス』の説明モデルにおける、脳についても同様に思います。
    >>ここでも脳(としての〈私〉)は、仮想世界の外部存在=実在とされていると思います。
    >
    > まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    > バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    > 触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。
    >

    そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。
    永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。

    >>つまり要は、世界外部(超越論的)存在の〈私〉の説明モデルとして、世界内部存在である眼や脳を用いるのは、私としてはやはり、語り得ぬものを語り得るものとして語って(描いて)しまっているのでは、という疑念を抱かざるを得ないわけです。
    >
    > 脳と眼は上記の理由によって語りえる物質となります。
    >

    わかりました。

    そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?

    仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、

    「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」

    ということになりますね。
    これはどうでしょう?

    >>まあ、これはパニチェさんというより、正確には永井の『論考』解釈について私が思っていることで、今回は永井とパニチェさんの〈私〉を同じものとあえて仮定して述べましたが、パニチェさんは全く同じではないと言ってらっしゃるのは承知しています。ですので、的外れになっていたらすみません。そのへんは、また、ご指摘ください。
    >
    > 大丈夫です。ちなみに永井氏やウィトゲンシュタインの眼の図も世界内に位置してますよね?
    > 下の図で言えば眼は世界内ですが〈私〉は眼のさらに左側、大きさを持たない点になると思います。
    >

    上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね?
    永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。
    確認しますと、
    T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。
    ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。
    で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。
    それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。
    ****************
    あとですね、先ほどの
    「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。
    つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。

    パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。
    もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか?
    とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか?
    **************************
    以上、
    回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。
    それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m




    >>【補足】
    >> あと、質問Bで、他人の心の存在を肯定されたことは、少し驚きました。
    >
    > そうですか。
    >
    >>>ちなみに強い独我論者ってほとんどいないと思うんですがザビビのふくろうさんはどう思われますか?
    >>>強い独我論者なら(時さんのようなアドヴァイタ〔梵我一如の一元論〕を除いては)哲学を学んだり、議論したり、友人をもつことさえ意味をなさないと思うのですが。。。。
    >>普通にはそうだと私も思います。ある意味、論外、何言ってんのこいつ、みたいな(笑)
    >
    > ですよね。
    >
    >>ただ、最近、VR一元論みたいな考えに惹かれていて、ひょっとすると、これって強い独我論になるんじゃないかとも思うんですよね。
    >
    > なるほど。
    >
    >>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    >>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。
    >
    > 『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    > 彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?
    >

    え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか?
    私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。
    むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。
    いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。
    ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。

    ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、
    『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。
    しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。
    しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。
    世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。

引用返信/返信 削除キー/
■32876 / inTopicNo.76)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/05(Tue) 20:51:02)
    こんばんは、時さん。レスありがとうございます。

    No32854に返信(時さんの記事)

    > 私の場合には、特定の宗教や信仰というよりも、インド聖者の悟りといったことに過去の一時期興味を持った時期がありまして、インドに渡り誰かに師事して弟子入りしてと言う経緯もなく、自己流で調べていき学んだのですね。ですので、リグ・サーマ・ヤジュル・アタルバの4種類のヴエーダの中のどれですか?とか、誰の?どの教室で?とか言ったことにつきましては、分からないのですね。全て、自燈明での独学です。^^

    > しかし今、少し調べてみますと、賛歌の詠唱こそしませんが、リグ・ヴェーダの中のベーダーンタにあたるように思います。

    > 簡単に表現しますと、バクティにより神に全ての運命をゆだねればアドヴァイタの境地に至るという事を2年間ほど実践してみたという事です。当時は、二元の現行世界と、一元のアドヴァイタの世界を行ったり来たりを独り繰り返していたように思います。その途中には、梵我一如と表現される境地の理解も起こりました。なぜインド聖者の悟りに興味を持ったかにつきましては、ご容赦いただければと思います・・

    丁寧に教えていただき、ありがとうございます。

    > ですので、その後にいろいろと知識を得られた結果、言っていたそれは梵我一如ではなくて不二一元の境地と言うのだなと理解が深まったという感じです。そしてその当時には、仏教の”ぶ”の字にも興味がありませんでした。^^

    そうですね。私の友人も「不二一元」と言ってました。
    梵我一如と不二一元というのはどこがどう違うんでしょう?

    > 反りが合わないといえば合わないですし、合うといえば合いそうですね。

    > 私の理解では、当時も今もインドでは、その境地の違いこそあれ、それぞれが悟りだ涅槃だ、これ以上の境地はないのだと、主張しあっているようですので、ごちゃまぜ状態でしょうか。

    > ですので、パニチェさんのご友人のヨガによる涅槃志向も分からなくもありませんが、その涅槃と表現されている境地と、私が原始で学んだ涅槃の境地では、どちらが正しいとか間違いとかではなく、違った境地になるかと思います。

    そうなんですね、正直私にはどこが違うのかよく分かりません。^^

    > 原始の中にも仏陀が苦の滅尽の境地を完成させる以前(修業中)には、恐らくは婆羅門だと思いますが、不二一元(無所有処)の境地の師である、アーラーラ・カーラーマや次の不一不二(非想非非想処)の境地の師である、ウダカ・ラーマプッタに師事したとありますが、これらをすぐにマスターして、最終の境地はこれらではないという事で、仏陀独自の四禅定の道へと進んでいくのですね。

    > 原始の中には、仏陀の弟子のサーリプッタが命終間近の人物に乞われて、その不二一元(無所有処)=梵天界への道を教示して、その人物は命終したというお話があるのですが、後日、そのお話を知った仏陀が、サーリプッタに「なぜ?そのような劣った境地への道を教示したのですか?」と単なる質問とも叱責とも取れるような言葉を語ります。

    > 教えを乞うたその人物が、梵天界に転生したにも関わらずです。・・という事は、梵天界=不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は仏陀の世界観では最高ではないという事になりますね。原始の内容とも矛盾はないようです。

    > その不二一元(アドヴァイタ)=無所有処の境地は、仏陀の説いた九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の最後から3番目になりますので、仏陀の表現した”劣った境地”であるというのは、仏陀の世界観では間違いではないでしょう。

    ここも正直なところ。。。
    「九次第定」でしたっけ?正直言って私にはよく分からないのです。十牛図はなんとなく分かるんですが。。。

    > ですので、最初インド聖者の悟りに興味を持ち、独自でアドヴァイタを知り、そこでしばらくそれが本当なのかを自身の外部である当時の他掲示板等で発信して、本当に問題が発生しないのかという事を試していました。試した結果、やはり問題は発生しないという事が確認できました。(ザビビのふくろうさんとは、この時期に知り合いましたので、問題ありませんという言葉を連呼していたことは、記憶にあると思います)

    なるほど。掲示板で実験(実践)されていたのですね。

    > ですので、バクティでのアドヴァイタの境地で留まれば、仏教とは相容れないでしょうし、バクティによるアドヴァイタの完成=原始で言う(恐らくの)無所有処の境地だという理解が起これば、原始で言う所の想受滅を目指せるように思います。要は、それぞれの処で無意識にでも執着しないことでしょうか。それ以前には、その無意識での取着に自らが気づく必要がありますね。そのためにも行われるのが、四念処という観瞑想で・・・とお話は延々と続きそうですので、この辺りで(笑)

    ありがとうございます。

    >>すみません、あくまでも興味本位からの質問ですのでスルーしてもらっても構いません。^^
    > いえいえ、とんでもありません。興味を持っていただけるのは、大変有難い事です。^^

    そう言っていただけると有難いです。^^

    > 返信が遅くなり、すみません。

    とんでもありません。

引用返信/返信 削除キー/
■32877 / inTopicNo.77)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/05(Tue) 20:53:03)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    書籍も読み返しながら、ちゃんと返信したいので土曜日以降になります。

    よろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■32878 / inTopicNo.78)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/05(Tue) 21:39:34)
    パニチェさんへ。こんばんは。レスをありがとうございます。

    No32876
    > そうですね。私の友人も「不二一元」と言ってました。
    > 梵我一如と不二一元というのはどこがどう違うんでしょう?

    ・梵我一如は、ブラフマン(宇宙の原理の梵)とアートマン(個人の中心の我)が同一だという思想の事で、これを究極的に進化させたのが、ブラフマンのみが実在だとする不二一元という境地の事ではないでしょうか。

    少し後の投稿で、そのあたりの事を書いてみたいと思います。

    > > ですので、パニチェさんのご友人のヨガによる涅槃志向も分からなくもありませんが、その涅槃と表現されている境地と、私が原始で学んだ涅槃の境地では、どちらが正しいとか間違いとかではなく、違った境地になるかと思います。

    > そうなんですね、正直私にはどこが違うのかよく分かりません。^^

    はい。分からない方が、人として正常かもです。^^

    > ここも正直なところ。。。
    > 「九次第定」でしたっけ?正直言って私にはよく分からないのです。十牛図はなんとなく分かるんですが。。。

    了解しました。十牛図も過去に少しだけ見た記憶はありますが、正しいと間違いとかではなくて、、原始にその表現がないというだけで、すみません、私は全く理解していません。九次第定は、原始の中で出てくる瞑想の各境地を現しているだけのものなのですね。

    掲示板の管理人さんは大変な作業ですね。すみません。ご返信は不要です。後は、ザビビのふくろうさんとの哲学的なお話を楽しみにしています。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■32879 / inTopicNo.79)  よっちゃんとおままごと
□投稿者/ 時 -(2023/09/05(Tue) 21:45:00)
    例えば、幼稚園の砂場で、園児2人が場所の取り合いで争っていたとします。「ここは俺が最初に来たんだからお前は向こうへ行けー」「何よ!ここは昨日からよっちゃんと一緒に、おままごとをしていたんだからねー」と、多分2人の園児は真剣です。でもこの様子を大人が見ていた時には、怪我をしないように見守りつつ、声掛けをするとしたら「喧嘩しないで、仲良くねー」位でしょうか。

    ここで3つの発言があります。@「ここは俺が最初に来たんだからお前は向こうへ行けー」A「何よ!ここは昨日からよっちゃんと一緒に、おままごとをしていたんだからねー」B「喧嘩しないで、仲良くねー」の3つですが、これら全てが、二元の世界での表現になりますが、最後の一つだけは、同じ二元の世界での表現でも最初の2つとは違った次元になるでしょ?子供の視点ではない、大人の視点での物事の見方です。

    誤解を恐れずに表現するのであれば、私の理解では、通常のこの世は@とAの相対世界の二元の世界観です。しかしこの世の中には、二元の世界観の人ばかりではなく、たまに一元の世界観の人がいるのですね。東洋哲学の世界では、その境地を不二一元と表現しているようです。これは、@とAが争っていても、Bのように決して自らその争いに加わることはなく、その争いに対しても問題のない世界観の住人と言えるでしょうか。そして仮に巻き込まれたとしても、争わずにそれらを受け入れます。

    ですので、この世界での表現としては全て共通の言葉を使うのですが、不二一元の世界観の人の使う表現が、通常は二元の世界観の人には理解しにくくなると思います。丁度これは、大人の表現することが子供達には理解しにくいようにです。「俺の砂場だ」「私がおままごとを」と争っている園児に対して「仲良くね」をその意味合いとして理解しにくいのと同じ事だろうと思います。

    例えば「あなたはどこから来たのですか?」という問いに対して通常の二元の世界観の人同士であれば「札幌から、大阪から、久留米から来ましたー」で会話は成立しますが、一元の世界観のみの人ならば「私は、常にここにいます」といった具合になりそうです。それは、例え場所的に大阪や東京から現地に来ていようとです。

    変わったところでは「私は、あなたです」「一にして多」「生きながらにして死んでいます」等々、多くの表現を見かけたことがありますが、これらは全て不二一元の世界観での表現ですね。有名な人物でもこの境地なんだろうなぁと思われる方が、哲学者でも少なからずおられるように思います。

    そして、この不二一元よりも高い境地が不一不二の境地になります。この境地では、ほぼ二元の世界観の人との会話は成立しないでしょう。「ここにリンゴがありますね?」という問いかけに「それはあるのではなく、無いのでもない」「・・・」「では、何があるのですか?」という再度の問いには「何かがあるのではなく、ないのでもないのです。分かりませんか?」「・・・」となるでしょうか。取り合えずこういった方にであったのであれば、通常は、スルーがおすすめでしょう。(笑)延々問答をやっても、多分、二元の世界観の人が求める答えは得られません。しかしこの境地が、有の世界での最高の境地とされる有頂天という境地のようなのですね(笑)別呼称で、非想非非想処の境地です。龍樹の中論が難解だといわれるのは、このためだと思います。

    梵我一如は省きましたが、不二一元と不一不二の違いの私見での説明になりました。

    ご返信は、不要です。^^
引用返信/返信 削除キー/
■32880 / inTopicNo.80)  時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/05(Tue) 22:06:32)
    ここ、レスしようとして忘れていました。^^;

    No32847に返信(時さんの記事)
    > パニチェさんへ
    > ディオニュソスホールという事で、ご容赦を^^

    全然、大丈夫ですし、むしろこういうレス交換は大歓迎です。^^


    No32878に返信(時さんの記事)
    > 掲示板の管理人さんは大変な作業ですね。すみません。ご返信は不要です。後は、ザビビのふくろうさんとの哲学的なお話を楽しみにしています。m(__)m

    ニークラメンバーはほんといい人が集まってますから、管理人といっても普段は何もしてないですし、全然大変じゃないですよ。^^

    「よっちゃんとおままごと」も含め丁寧な返信を本当にありがとうございました。
    今後ともよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■32894 / inTopicNo.81)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/06(Wed) 16:18:43)
    2023/09/06(Wed) 20:50:16 編集(投稿者)

    こんにちは。ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    時間ができたので返信させてもらいます。

    No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。
    > この作戦は成功だったかな?(笑)

    そうですね。^^

    > 最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。
    > ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑)
    > で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^

    ザビビのふくろうさんが話しても相手する人がいない板なんて、宝が持ち腐れする場でしょう(笑)。
    そんなところは捨て置いて、気が向かれた時には是非ニークラに投稿して下さい♪

    > >>*****************

    >>一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。
    > この「実在」は「実体」とも言えますか?

    「実体」を「真に存在するもの(Wikipedia)」あるいは「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと(日本大百科全書〔ニッポニカ〕)」とするなら、そうです。

    > 補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m

    了解しました。

    >>まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    >>バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    >>触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。

    > そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。
    > 永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。

    ここなんですが、結論(帰結)的には私は同じことを述べていると解釈してます。
    先の説明は「〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。」ということですが、この結論としては「眼が眼自身をみれないことをもって、眼が視野の内部に存在しないのと同様に、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないことをもって〈私〉の存在が世界の内部にはない」ってことになります。

    ここ分かりしくいかもしれませんが視野=世界ではないんですね。
    視野の中に眼がなくても触感で捉える世界内には眼はあります。

    世界内にあるものは感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)の何れかで捉えることはできるが視野に限定した場合は視野世界には眼はない、何故なら「眼が眼自身を見ることができないから」ってことになります。

    > そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?

    それはその通りですね。催眠術をかけられれば無いものが見え、匂うものがなくても匂います。
    感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)は騙すことができますが〈私〉は騙すことができません。

    > 仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、
    > 「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    > ということになりますね。
    > これはどうでしょう?

    ここは未だ分かりません。
    私は弱い独我論支持ですから、世界なくして〈私〉があるのかどうかは、世界がなくなったことがないので分からないってことになります。

    > 上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね?
    > 永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。
    > 確認しますと、
    > T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。
    > ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。

    永井氏も眼が世界内にはないとしていることには同意しますが、ここは少し私の読解と異なる点があります。
    まず永井氏はP28〜P29で図4〜図7を示しています。図5の左端の極点になるのは眼ではなく〈私〉になっています。
    で永井氏はP31にあるウィトゲンシュタインの図の解説*で「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。
    図6は添付した「マッハ的光景」と同じです。

    > で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。

    すみません。上記の「〈私〉と視野との正しい形象化である」ってどこで述べていますか?

    > それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。

    永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
    眼は視野内にはないが、世界内にはあるってことですよね?

    ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。


    > ****************
    > あとですね、先ほどの
    > 「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    > の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。
    > つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。

    > パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。
    > もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか?
    > とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか?

    開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    そこから世界が開けているという意味での開闢です。


    > **************************
    > 以上、
    > 回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。
    > それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m

    全然、大丈夫です。

    ************************************

    > >>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    > >>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。

    >>『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    >>彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?


    > え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか?
    > 私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。
    > むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。
    > いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。
    > ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。

    > ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、
    > 『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。
    > しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。
    > しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。
    > 世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。

    ここも凄く面白い議論になりそうなのですが、このレス交換が一段落した後にしてもらえると嬉しいです。
    一つだけ確認させてもらうとザビビのふくろうさんは独我論という一元論でも我以外の存在、つまり神の存在が成立すると思われますか?

    この返事だけを聞いておいて議論は持ち越しになせてもらえたらラッキーです。

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引用返信/返信 削除キー/
■32917 / inTopicNo.82)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/07(Thu) 17:56:08)
    2023/09/08(Fri) 09:07:23 編集(投稿者)
    パニチェさん、こんばんは。
    思いがけず早いレス、ありがとうございます。

    No32894に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/06(Wed) 20:50:16 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは。ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    > 時間ができたので返信させてもらいます。
    >
    > ■No32868に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>違う点をはっきり指摘してもらったおかげで、より論点がはっきりしたと思います。ありがとうございます。
    >>この作戦は成功だったかな?(笑)
    >
    > そうですね。^^
    >
    >>最近年齢のせいなのか暑さのせいなのか、はたまた生来のぐうたらのせいなのかわかりませんが(笑)、なかなか読書も集中力が続かず、頭の調子も悪いので、ニークラに寄せてもらっています。
    >>ここで話すと相手してくれる人がいるので集中力が復活します。という気がします(笑)
    >>で、調子が良くなるとまたしばらく離れる、ということの繰り返しって感じにここのところなっています^^
    >
    > ザビビのふくろうさんが話しても相手する人がいない板なんて、宝が持ち腐れする場でしょう(笑)。
    > そんなところは捨て置いて、気が向かれた時には是非ニークラに投稿して下さい♪
    >

    ありがとうございます。
    ただ、最近はここ以外、ほとんど参加しているところはありません。
    一人でコネコネやっているので、だんだん煮詰まってくるんですよね。

    >>>>*****************
    >
    > >>一つだけ補足させてもらうと、〈私〉の存在が実在というよりも、〈私〉=実在 です。
    >>この「実在」は「実体」とも言えますか?
    >
    > 「実体」を「真に存在するもの(Wikipedia)」あるいは「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと(日本大百科全書〔ニッポニカ〕)」とするなら、そうです。
    >
    >>補足訂正として、私の「永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きます」というのは、「永井は眼を視野の限界に位置するものとして描きます」と訂正してください。m(__)m
    >
    > 了解しました。
    >
    > >>まず脳=〈私〉ではないです。何故なら脳は眼と同じく物質だからです。
    > >>バーチャル世界であっても開頭すれば、そこにあるテーブルと同様に手で触れる(触覚)ことで、その存在が確認できますから世界内存在になります。
    > >>触覚の主体は〈私〉ですから、これは世界内には存在しません。
    >
    >>そうすると、ここは、確かに永井とパニチェさんの考えの違う点だと思います。
    >>永井は、眼が眼自身をみれないことをもって、視野の内部に存在しないことを導出し、これをモデルにして、思考し表象する主体である<私>が、自分自身を対象とできないことをもって世界内部に存在せず、限界に位置するものということを説明していると思います。
    >
    > ここなんですが、結論(帰結)的には私は同じことを述べていると解釈してます。
    > 先の説明は「〈私〉の存在が世界の内部にはないという説明モデルとして眼を用いているのではなくて、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないという説明モデルとして、眼で眼を見れないということをあげました。」ということですが、この結論としては「眼が眼自身をみれないことをもって、眼が視野の内部に存在しないのと同様に、〈私〉が感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)で捉えることができないことをもって〈私〉の存在が世界の内部にはない」ってことになります。
    >

    何か、ややこしくなってきたな(笑)
    とは言え、重要なので丁寧に考えますね。


    > ここ分かりしくいかもしれませんが視野=世界ではないんですね。
    > 視野の中に眼がなくても触感で捉える世界内には眼はあります。
    >

    これは了解しました。

    > 世界内にあるものは感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)の何れかで捉えることはできるが視野に限定した場合は視野世界には眼はない、何故なら「眼が眼自身を見ることができないから」ってことになります。
    >

    大事なんで確認しますね。

    〈私〉は五感で捉えられない(知覚できない) → 〈私〉は知覚世界内に存在しない

     眼は視覚で捉えられない → 眼は視野(視覚世界)内に存在しない

    このような類比関係が成り立つだろうということでいいですかね?


    >>そうすると、パニチェさんの考えでは、知覚主体である<私>が世界内存在ではないということは、知覚主体が自身を知覚できないからではなく、知覚対象である世界内存在はデカルト的懐疑により実在性が否定されるが、知覚主体である<私>は実在性が確信できるから、ということになりますよね?
    >
    > それはその通りですね。催眠術をかけられれば無いものが見え、匂うものがなくても匂います。
    > 感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)は騙すことができますが〈私〉は騙すことができません。
    >
    >>仮に、この問いの答えがYesだとすると、最大の問題は、
    >>「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    >>ということになりますね。
    >>これはどうでしょう?
    >
    > ここは未だ分かりません。
    > 私は弱い独我論支持ですから、世界なくして〈私〉があるのかどうかは、世界がなくなったことがないので分からないってことになります。
    >

    ふむふむ。
    じゃあ、眠っても、意識を失っても〈私〉はあるってことですか?
    それともう一つ、座禅あるいは瞑想により、無心の状態、すなわち、いかなる思考も表象も消え去った状態になったとき、〈私〉はどうなるのでしょうか?
    これについても、「分からない」ってことでしょうか?


    >>上に既述しましたが、これ、ちょっと違いませんかね?
    >>永井は、眼は世界の内にはない、としていると思います。
    >>確認しますと、
    >>T:6.331『論考』の図はパニチェさんが図を示してくださったものと同じですが、ご承知のように「つまり、視野はけしてこのような形をしてはいない」というコメントと共にあるものです。この図では眼は視野内に描かれています。
    >>ですから、これは「私」と「世界」を捉えるモデルとして、ウィトゲンシュタインが否定しているものですよね。
    >
    > 永井氏も眼が世界内にはないとしていることには同意しますが、ここは少し私の読解と異なる点があります。
    > まず永井氏はP28〜P29で図4〜図7を示しています。図5の左端の極点になるのは眼ではなく〈私〉になっています。

    ですが、永井自身が、その脚注*で「図5とはウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』5.6331の左図の、眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べていますよね。
    それに、パニチェさんの言い方だと世界の図であるはずの図6についても、「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。
    だから、眼が視野の限界にある図5によって、〈私〉が世界の限界にあるってことを示しているんじゃないでしょうか。
    つまり、永井による図5は、
    (『論考』の図の変形版である)眼と視野の関係を表した図5をモデルにして、〈私〉と世界の関係を表した、ということではありませんか。
    *****************
    【編集追加】
    さらにこう言い換えることもできるのではないでしょうか。
    永井によると、図5は目と視野の関係を正しく形象化した絵であるとも、<私>と世界の関係を正しく形象化した絵であるとも解釈できる。
    というふうに。
    *******************

    > で永井氏はP31にあるウィトゲンシュタインの図の解説*で「視野はもちろん図6のような形をしている」と述べています。
    > 図6は添付した「マッハ的光景」と同じです。
    >

    そうですね。

    >>で、永井はそれを踏まえて、自分の図は、この図における「眼を世界の限界に追い出した変形版である」(『〈私〉の存在の比類なさ』31頁)と述べて、これを〈私〉と視野との正しい形象化であると述べています。
    >
    > すみません。上記の「〈私〉と視野との正しい形象化である」ってどこで述べていますか?
    >

    ああ、なるほど。パニチェさんはこのあたりの表現の正確さに注意を払っているわけですね。確かに無頓着でした。訂正しますね。
    正確には、同註*32頁のパニチェさんが引用された、「視野はもちろん図6のような形をしている」に続いて、「そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」と述べています。 
     ですから繰り返しになりますが、ウィトゲンシュタイン的な独我論の世界像として、図6と図5は〈私〉と世界の関係を正しく描出している、ということを述べていると言ってよいのではないでしょうか。


    >>それで、永井にとっては世界内にはない〈私〉のモデルとして、視野内にはない眼を用いていると私は思うわけです。
    >
    > 永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。

    そうですね。
    ウィトゲンシュタインは、これを「T:5.631 思考し表象する主体は存在しない」の説明するモデルとしていると思います。
    しかし、ウィトゲンシュタインは、けして思考し表象する主体が世界の限界に位置する、とは述べていません。
    「思考し表象する主体」を独我論的主体である〈私〉とみなし、それが世界の限界に位置するものであるというのは、いわば永井の勝手な解釈にすぎないと私は思います。
    実は、面白いことに、この永井とよく似たことは、ショーペンハウアーが言ってるんですよ。ハッカーからの孫引きになりますが、以前もたしか引用した文章を再掲します。

    「先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。」(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)

    ね?似てると思いませんか?


    > 眼は視野内にはないが、世界内にはあるってことですよね?
    >

    それはその通りですが、ここではそのことは直接関係ないんではないですか?
    あくまで、眼:視野∽〈私〉:世界 を示すために「眼」は登場していると思うんですけどね。

    > ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    > 一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。
    >
    >

    実は、今回、一番驚いたのが、そして同時に腑に落ちない気がしたのが、ここ、特に後者だったんです。

    というのも、私、前に書いたかどうかわからないんですが、私の永井批判の根本がこのことだからです。再掲しますが、永井はこう述べています。
    「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」

    図6の側面図など描き得ないというのが、写像理論=picture theoryの根本思想なのに、図5が『論考』の独我論の正しい形象化だと言うなんて、論外であると私は思うんですよ。
    根拠を、少し詳しく説明します。

    「思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できなければならない(したがって、思考不可能なことを思考できなければならないことになる)」(『論考』序文より)

    写像理論によれば、思考することは絵(写生画)を描くこと(描画・モデル化)に等しいので、上の文は次のように解釈できるはずです。

    「描画(写像・モデル化)に限界を引くには、我々はその限界の両側の絵を描けなければならない(したがって、描画不可能なことを絵に描くことができなければならないことになる)」(『論考』序文より)

    もちろん、そんなことは不可能だから、言語において限界を引く、ということです。

    にもかかわらず、永井の図5は、まさに思考し得ないはずの思考の限界=境界とその両側、そして思考し得ぬ独我論的私までを図の中に描いてしまっているわけです。
    もし、この図5が独我論の正しい形象化(モデル化)なのであれば、独我論は語り得る(絵に描き得る)ことになってしまいます。
    つまり、思考し得ぬことが思考し得ること、すなわち不可能なことが可能になってしまうわけですね。
    しかし、言うまでもなくそれは不可能。
    よって、図5は『論考』の独我論の正しい形象化ではありえない。

    というのが私の見解です。
    **************
    【編集追加】
    図6あるいはマッハ的光景は、私(自分)の視野を正しく描いたものである。
    もし図5もまた私の視野を正しく描いたものであるのなら、私は自分の視野の内と外の両側をともに眺め得る視点に立つことが可能であることになる。
    だが、そんなことは不可能である。
    ******************
    腑に落ちないのは、もしパニチェさんの考えが私と同じようなものなのであれば、
    永井の思想に共感することなどありえないはず、と思われることなんですね。
    ところが実際には、確かによく似たことを言ってらっしゃるようにも思えますしね。
    このへん、どう考えていらっしゃるのでしょうか?

    ちょっと調子に乗って長々少し細かいことを述べたので、いちいちのコメントは難しいかもしれませんし、少なくとも一つだけ、質問に答えていただきたく思います。

    質問:「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
    という永井の発言に、パニチェさんは同意されますか、されませんか?


    >>****************
    >>あとですね、先ほどの
    >>「<私>の実在は、世界の存在と独立なのか?」
    >>の問いに関して、これをさらに突き詰めて考えます。
    >>つまり、この問いの答えが仮にYesだった場合、どういうことが帰結するか?ということについて考えます。
    >
    >>パニチェさんによれば、世界の限界に位置する点とされる<私>というのは、世界開闢の特異点だとも言われていますね。
    >>もし、世界と独立に<私>が実在するのであれば、<私>は世界が始まる前から実在した、ということにならないでしょうか?
    >>とすれば、「先言の<私>」というだけでなく、「先世界の私」ということにならないでしょうか?
    >
    > 開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    > そこから世界が開けているという意味での開闢です。
    >
    >
    なるほど。
    では、<私>を「世界開闢の特異点」と言うとき、いったいどういうモデルを念頭においているんでしょうか?
    永井の図5のようなモデルでしょうか?


    >>**************************
    >>以上、
    >>回答を聞く前に、可能性を仮定して、勝手にどんどん話を進めたのでなんかエライとこまで到達してしまった気もしますが(笑)、どこかでストップがおそらくかかるだろうと思います。遠慮なく、ストップをかけてください。
    >>それを承知でどんどん論理的に突き詰めるのがふくろうの流儀ですので、どうかご容赦をm(__)m
    >
    > 全然、大丈夫です。
    >
    > ************************************
    >
    >>>>このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。
    >>>>あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。
    >
    > >>『論考』が強い独我論だとして、ウィトゲンシュタイン自身は強い独我論者だとザビビのふくろうさんは思われますか?
    > >>彼が記した『哲学宗教日記』からするとクリスチャンかどうかはともかく、れっきとした有神論者ですよね?
    >
    >
    >>え〜と、この問い方だと、パニチェさんは、独我論と有神論は、背反であると考えているんでしょうか?
    >>私の場合は、ウィトゲンシュタインの思想によれば背反ではない、と考えています。
    >>むしろ、独我論的(主観的)に世界を捉えるときそのときに限り、世界は超越的意味を有するものとして立ち現われると思います。
    >>いわば、独我論的立場に立つのは、言語・論理研究における意味論的立場に立つことに類比できると思うのです(この類比では、科学的・唯物論的立場に立つのは、統語論的立場ということになります)。
    >>ですから、この場合の独我論的私というのは、キルケゴールの「単独者」と近いかなと考えています。
    >
    >>ところでウィトゲンシュタインが独我論者であるか?という問いですが、
    >>『論考』においては、想定されている言語がある種の私的言語で、意味はプライベートなものと捉えられていると思うので、私はある種の独我論者であると考えます。
    >>しかし、後期になると意味をプライベートなものと捉える私的言語を批判する立場になりますので、その意味で言えば、後期は独我論者ではなかったということになりますかね。
    >>しかし、私見では、これはいわば言語論的独我論、すなわち私的言語論の否定論者ということで、このことと信仰は独立です。
    >>世界が私の世界として把握可能である限り(そして言語論がどうであろうと、これは可能でしょう)、生の意味は問題にできるでしょう。
    >
    > ここも凄く面白い議論になりそうなのですが、このレス交換が一段落した後にしてもらえると嬉しいです。
    > 一つだけ確認させてもらうとザビビのふくろうさんは独我論という一元論でも我以外の存在、つまり神の存在が成立すると思われますか?
    >
    > この返事だけを聞いておいて議論は持ち越しになせてもらえたらラッキーです。
    >

    了解しました。
    しかし、この点に関しては、どれだけのこと言えるのか自信がないので、あまり期待してもらわないほうがいいかな(笑)

    長大なレスになってしまってすみません。
    適当に絞ってください。

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引用返信/返信 削除キー/
■32921 / inTopicNo.83)  自由意志
□投稿者/ 田秋 -(2023/09/07(Thu) 21:38:40)
    全く個人的な経験則なのですが、自由意志はあると思っています。あまりにも漢字が書けなくなって漢検に挑戦したとか、中卒という学歴(クラシック音楽業界では音楽[高校、大学]は学歴と認めていません)を解消するために放送大学の学位取得を目指すというのは、どう考えても自分の意志だと思います。

    多分哲学や宗教、脳科学などとはアプローチの方法が全く異なっているのだと思います。

    将棋界では、藤井聡太という棋士が信じられない勝率をあげ、今、タイトル8冠全制覇にチャレンジしています。彼が長考して指した1手、それを「彼の意志で指した手ではない」と言ってもあまり意味があるとは思えません。
引用返信/返信 削除キー/
■32929 / inTopicNo.84)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/08(Fri) 21:53:30)
    2023/09/09(Sat) 05:33:54 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No32917に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 何か、ややこしくなってきたな(笑)
    > とは言え、重要なので丁寧に考えますね。

    ありがとうございます。私も必要だと思うところを返信させてもらいますが興味がないところはスルーして下さい。
    また抜け落ちている返信箇所があれば遠慮なく指摘して下さい。

    > 大事なんで確認しますね。
    > 〈私〉は五感で捉えられない(知覚できない) → 〈私〉は知覚世界内に存在しない
    > ∽
    >  眼は視覚で捉えられない → 眼は視野(視覚世界)内に存在しない
    > このような類比関係が成り立つだろうということでいいですかね?

    はい。

    > ふむふむ。
    > じゃあ、眠っても、意識を失っても〈私〉はあるってことですか?
    > それともう一つ、座禅あるいは瞑想により、無心の状態、すなわち、いかなる思考も表象も消え去った状態になったとき、〈私〉はどうなるのでしょうか?
    > これについても、「分からない」ってことでしょうか?

    確証があるわけではないですが、おそらく。。。
    睡眠も意識を失っている状態も無心の状態も〈私〉がある(厳密には〈私〉があった)ということは、時間差でもって分かるのだと思います。
    何故なら、覚醒したり、意識が戻ったり、無心の状態から通常の状態に戻った後に、眠っていたのも、意識を失っていたのも、無心の状態にあったのも他の誰でもない〈私〉であったということが分かるからです。

    >>永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
    > そうですね。
    > ウィトゲンシュタインは、これを「T:5.631 思考し表象する主体は存在しない」の説明するモデルとしていると思います。
    > しかし、ウィトゲンシュタインは、けして思考し表象する主体が世界の限界に位置する、とは述べていません。
    > 「思考し表象する主体」を独我論的主体である〈私〉とみなし、それが世界の限界に位置するものであるというのは、いわば永井の勝手な解釈にすぎないと私は思います。

    永井氏がウィトゲンシュタインの眼の図を利用し、永井氏の独在論つまり〈私〉を形象化したということには同意します。
    詳しいレスは後にまとめます。

    > 実は、面白いことに、この永井とよく似たことは、ショーペンハウアーが言ってるんですよ。ハッカーからの孫引きになりますが、以前もたしか引用した文章を再掲します。
    > 「先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。」(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)
    > ね?似てると思いませんか?

    似てますね。ただショーペンハウアーが述べているのは万人に共通するところの自我や認識主観のことだと思います。

    >>ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    >>一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。
    > 実は、今回、一番驚いたのが、そして同時に腑に落ちない気がしたのが、ここ、特に後者だったんです。
    > というのも、私、前に書いたかどうかわからないんですが、私の永井批判の根本がこのことだからです。再掲しますが、永井はこう述べています。
    > 「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」

    > 図6の側面図など描き得ないというのが、写像理論=picture theoryの根本思想なのに、図5が『論考』の独我論の正しい形象化だと言うなんて、論外であると私は思うんですよ。
    > 根拠を、少し詳しく説明します。
    > 「思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できなければならない(したがって、思考不可能なことを思考できなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    > 写像理論によれば、思考することは絵(写生画)を描くこと(描画・モデル化)に等しいので、上の文は次のように解釈できるはずです。
    > 「描画(写像・モデル化)に限界を引くには、我々はその限界の両側の絵を描けなければならない(したがって、描画不可能なことを絵に描くことができなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    > もちろん、そんなことは不可能だから、言語において限界を引く、ということです。

    > にもかかわらず、永井の図5は、まさに思考し得ないはずの思考の限界=境界とその両側、そして思考し得ぬ独我論的私までを図の中に描いてしまっているわけです。
    > もし、この図5が独我論の正しい形象化(モデル化)なのであれば、独我論は語り得る(絵に描き得る)ことになってしまいます。
    > つまり、思考し得ぬことが思考し得ること、すなわち不可能なことが可能になってしまうわけですね。
    > しかし、言うまでもなくそれは不可能。
    > よって、図5は『論考』の独我論の正しい形象化ではありえない。

    > というのが私の見解です。
    > **************
    > 【編集追加】
    > 図6あるいはマッハ的光景は、私(自分)の視野を正しく描いたものである。
    > もし図5もまた私の視野を正しく描いたものであるのなら、私は自分の視野の内と外の両側をともに眺め得る視点に立つことが可能であることになる。
    > だが、そんなことは不可能である。
    > ******************
    > 腑に落ちないのは、もしパニチェさんの考えが私と同じようなものなのであれば、
    > 永井の思想に共感することなどありえないはず、と思われることなんですね。
    > ところが実際には、確かによく似たことを言ってらっしゃるようにも思えますしね。
    > このへん、どう考えていらっしゃるのでしょうか?

    > ちょっと調子に乗って長々少し細かいことを述べたので、いちいちのコメントは難しいかもしれませんし、少なくとも一つだけ、質問に答えていただきたく思います。
    > 質問:「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
    > という永井の発言に、パニチェさんは同意されますか、されませんか?

    以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。

    形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。

    まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。
    それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。

    では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか?
    これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。

    客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。
    「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか?
    だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。
    まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。

    > >>****************
    >>開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    >>そこから世界が開けているという意味での開闢です。
    > なるほど。
    > では、<私>を「世界開闢の特異点」と言うとき、いったいどういうモデルを念頭においているんでしょうか?
    > 永井の図5のようなモデルでしょうか?

    すみません、ここちょっと言葉尻を足らえての返信になりますがご容赦下さい。

    〈私〉はモデルではないんですね。そのまま、今ここにあるままの事実なんです。
    で、形象化すれば図5にはなりますが、そもそも客体化した時点で万人に共通する自我や認識主観になり下がって(変質して)元々の〈私〉ではなくなります。
    これは言語化による「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と同じです。

    ちなみに私が〈私〉を「世界開闢の特異点」という表現を用いたのは、ビッグバン宇宙論に登場する特異点と多々共通するところがあったからです。

    世界のどこにもない唯一無二であり、世界の開闢地点であり、物理の特異点は「大きさがゼロで密度無限大のため物理法則が通用しない点」であるのに対して。〈私〉の特異点はNo32693 で投稿した通り「科学(唯物論)の対象になりえない点」であること等々から特異点という表現を用いました。

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