| ※文字化けしそうな文字は、似た形のアルファベットに置き換えしてます。 B132あたりです。
(カント原文) 『Ich nenne sie die reine Apperzeption, um sie von der empirischen zu unterscheiden, oder auch die ursprungliche Apperzeption, weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist, was, indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt, die alle anderen muB begleiten konnen, und in allem BewuBtsein ein und dasselbe ist, von keiner weiter begleitet werden kann. 』
(中山元先生訳)[]は中山先生の補注。 『わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、純粋な自己統合の意識[=統覚]と呼ぶことにする。 これはあるいは根源的な自己統合の意識とも呼べるが、それはこれが、わたしは考えるという像を生みだす自己意識だからである。 この自己統合の意識は、[心のうちに思い描くことのできる]ほかのすべての像に伴うことができるものであり、わたしのすべての意識において同一のものであり、ほかのどのような像もこれに伴うことはできないものである。』 『純粋理性批判2』中山元訳、光文社古典新訳文庫p116.117
次は、同箇所の田村一郎先生の訳です。 『私はこの表象を経験的統覚と区別するために純粋統覚、あるいはまた根源的統覚とも名づける。 なぜならこの統覚は、すべての他の表象に伴うことができなければならず、すべての意識において同一のものである「私は思考する」という表象を生み出すので、もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような自己意識だからである。』 『純粋理性批判 上』宇都宮芳明監訳、以文社、p188
=============== ここから、中山元先生が『自己統合の意識(統覚)の必要性』という題名でカントの統覚概念について解説されてる箇所を、参考のために引用します。ここではまだ感性論においての解説です。↓
(中山元先生の解説) 『(略)ただここでカントは重要な概念を提示する。 それは時間と空間、内的な知覚と外的な知覚の橋渡しをする心的な意識の概念であり、 一般的に統覚と訳されるが、ここでは〈自己統合の意識〉と訳することにする。 原語のラテン語はアペルツェプティオだがペルツェプティオは外界の対象に向かう意識である。 これは直観によって外界の対象を認識する営みであるが、それに方向を指すアプという語がついているので、外界の対象に向かう意識そのものに向かう意識ということになる。 主体が外界の事物から触発されて、これを認識するのはごく日常的な営みであるが、ときに主体のまなざしが外界の事物だけでなく、これを意識する営みに向けられることがある。 庭の樹木を眺めている自分に意識が向かうわけだ。 だからこの意識はたんなる自己意識とは違って、意識する自己への意識であり、その自己に向かうまなざしに特徴がある。 この意識は自己に戻ってくる意識であるとともに、自己意識の統一を作りだす、すなわち主体の自己統合を実現する意識でもあるのだ。 (略)』 『純粋理性批判1』p391.392より引用。
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★pipit雑感
悪魔ちゃんが No21791で、 >わたし perception=知覚 apperception=統覚 ってして見てて、両者は区別して見てるんだけど、<
って書いてくれてたけど、
中山先生は解説で 『原語のラテン語はアペルツェプティオだがペルツェプティオは外界の対象に向かう意識である。 これは直観によって外界の対象を認識する営みであるが、それに方向を指すアプという語がついているので、外界の対象に向かう意識そのものに向かう意識ということになる。』
とあって、複合して思考してみると、
perception=知覚は外界の対象に向かう意識で、 それで、ap が方向を指すのかな? として、 知覚してる意識を意識する意識,って感じなのかな(^◇^;)
カント的統覚とは、知覚してる自分、という意識を生み出す意識ってことなんかなー 違ったらごめん! 勉強していってみるねー
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