| お邪魔しま〜す。
No21790あたりからの、わたしまだそこらへんだよ〜 カントの原文、ネットのドイツ語調べて、わたしなりに訳してみて、pipitさまが提示してくれたいろんな訳と比較してみたよ。
(独) (1)Diese Vorstellung aber ist ein Aktus der Spontaneitat, (2)d.i. (3) sie kann nicht als zur Sinnlichkeit gehorig angesehen werden. (4)Ich nenne sie die reine Apperzeption, (5)um sie von der empirischen zu unterscheiden, (6)oder auch die ursprungliche Apperzeption, (7)weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist, (8) was, (9) indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt, (10) die alle anderen muB begleiten konnen, (11)und in allem BewuBtsein ein und dasselbe ist, (12)von keiner weiter begleitet werden kann.
わたしの訳 (1) しかしこの表象は 一つの自発的な活動、 (2) d.i.←わたしこれわかんない (3) それは 当然 感性から 発生 とはみなされない。 (4) それは わたしは「純粋な統覚」と名づけ、 (5) 経験的なものから区別するため、 (6) あるいは「オリジナルの統覚」、 (7) なぜなら自意識は、 (8) 何?、 (9) することによって それは 〈“私は考える”という表象〉をもたらす、 (10) 全員 その他を 同行できなければならない、 (11) と すべての意識 一つの と 同じこと は、 (12) から さらに いかなる 付随 発生する できる。
これがわたしには精一杯
日本語の選択なんだけど、(1)の[Vorstellung]は、(9)に[Vorstellung Ich denke]ってあるから、〈[Ich denke]という[Vorstellung]〉って言うことだと思う。で、この[Vorstellung]は、ネットによると「考え・考え方・概念・想像・認識・理解・イメージ」ってあった。pipitさまからの情報のなかで、英訳で「idea」これは「観念」、「representation」これは「表現」、中山さんのは「像」、田村さんのは「表象」ってなってるんだと思う。 DeepL機械翻訳の[Apperzeption]→「知覚」とか、「representation」→「表現」っていうのはなんか違うと思う。 で、わたしどうしようかって思ったんだけど、[Vorstellung]→「representation」→「表象」ってすることにした。 で、[Vorstellung Ich denke]は、〈“私は考える”という表象〉ってしたよ。
「representation(表象)」っていうの、「現象学事典」にあったんだけど〔表象は単にあるものやことが意識に現れるその働き〕ってわたししてる。〔意識に〕だから〈感性に〉にも〈思-考に〉も現れるもの、として、re-presentationだから〈再び〉っていう意味も含んでるものとして、また〈表象する〉という能動的にも〈表象される〉という受動的にも使われるものとして、わたし見てる。 ここで、「representation(表象)」を、中島義道さんが言う「私が私の前に何ものかを立てる」っていう能動的な意味として見て見ると、 [Vorstellung Ich denke〈「私は考える」という表象〉]において、(1)は、〈「私は考える」という、私が私の前に何ものかを立てる、というのは自発的な活動、〉って見ることもできるかも。
[reine Apperzeption]は「純粋統覚」ってして、 [die ursprungliche Apperzeption]の[ursprungliche]は、「元の、当初の、オリジナルの、初期、最初の」ってあった。 でひとまず〈オリジナルの統覚〉ってした。pipitさまが提示してくれたなかでは、英語では「original」、「primitive」でDeepL機械翻訳では両方「原初的」ってなってたと思う。中山、田村さんのは「根源的」って訳してるのかな。
(5)の[der empirischen] を〈経験的の〉、〈経験的なもの〉って訳したんだけど、これ、〈感性に発生してるもの〉ともわたし見てる。田村さんは「経験的統覚」って訳してるみたい。[empirischen Apperzeption]とは書いてないけど、わたしもそう見ることにした。
ここで整理すると、(1)〜(5)は、 [Vorstellung Ich denke〈“私は考える”という表象〉]は、自発的な活動だから、[der empirischen〈経験的(統覚)〉](感性におけるもの)とは区別して[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]と名づける。 っていうことになるのかな。
ここでわかりずらいのが、(6)が、(5)にかかるのか?、(4)にかかるのか?、っていうこと。 前者の場合、 (上記のDeepL機械翻訳.日訳)〔私がこれを純粋知覚(pure apperception)と呼ぶのは、経験的知覚(the empirical)、あるいは原初的知覚 (original apperception)と区別するためであり、…〕(a) 後者の場合、 (DeepL機械翻訳)〔私はこれを、経験的な知覚と区別するために、純粋な知覚、あるいは原初的な知覚と呼んでいます。…〕(b) ってなるのかな? 前者(a)の場合は、[der empirischen〈経験的(統覚)〉] (the empirical)を、[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉] (original apperception)とも呼ぶ、っていうふうに見えるし、 後者(b)の場合は、[reine Apperzeption〈純粋統覚〉] (pure apperception)を、[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉] (original apperception)とも呼ぶ、っていうふうに見える。 田村さんのは『私はこの表象を経験的統覚と区別するために純粋統覚、あるいはまた根源的統覚とも名づける。』で後者(b)の方かな。中山さんのも『わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、「純粋な自己統合の意識[=統覚]」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』で、(b)になるんだと思う。
中山さんの訳?なんだけど、「純粋な自己統合の意識[=統覚]」の[=統覚]はどこにかかってるのかしら?「純粋な自己統合の意識」に?それとも「意識」に?もし「純粋な自己統合の意識」[=統覚]だとしたら、『…「統覚」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』ってなって、ちょっと原文のとは違う感じ。「意識」だけにかかってるんだとしたら「純粋な自己統合の統覚」ってなって『…「純粋な自己統合の統覚」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』ってなる。こっちのほうがそんな感じがする。「自己統合」を抜かすと「純粋な統覚」「根源的な意識」ってなる。ところで、中山さんは原文のどこを「自己統合」って訳してるのかしら?[SelbstbewuBtsein]?これドイツ語翻訳では「自己意識」ってあった。英語では「self-consciousness」に当たるんだと思う。「self-consciousness」をネットで調べて見たら〔自己意識、あるいは自意識。自己が存在することに気づく能力であり、外界や他人と区別された、自我としての意識〕ってあった。で、「自己統合」をネットで調べて見たんだけどなんかよくわかんなかった。なんか、山中さんのはわたしにとっては分かりにくい。彼の訳にはあまり深入りしないほうがよさそう。
カントは(a)[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]を別名[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉]と呼んでいるのか、(b)[der empirischen〈経験的(統覚)〉]を別名[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉]と呼んでいるのかはわたしには分かんない。[ursprungliche]は、「元の、当初の、オリジナルの、初期、最初の」だった。もし、〈経験(感性)における統覚〉を〈最初の統覚〉として見ると(b)になるようにもわたし思えるんだけど。ここらへんはどちらにも取れるっていうことで保留にしといて、ここからは、カントは[Apperzeption〈統覚〉]を[der empirischen〈経験的(統覚)〉] と[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]に分けてるっていうことだけを抽出しとく。
(7)weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist,〈なぜなら自己意識は、〉(9) indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,〈することによって それは 〈“私は考える”という表象〉をもたらす、〉 ってすると、[Vorstellung Ich denke〈“私は考える”という表象〉]は、[SelbstbewuBtsein〈自己意識〉]から生まれてくるもの、って見られる。〈自己意識〉を〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉ってすると、〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉(自己意識)によって、〈“私は考える”という表象〉が生まれてくる、っていうことになる。
こう見たとき、デカルトの[Ego cogito, ergo sum, sive existo]を想い出す。前にわたしが調べたのを書き写してみますね。
ネットで、 〔「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis[1]、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている。〕 ってあった。 そこでラテン語で検索したら、 (ラ)sum:1人称:sum(スム)(I am)、私はいる。(ラテン語コピュラの一人称単数・直説法・現在形)私は〜である。 (ラ)Ego:私は。私が。第一人称。→「わたしは」と一人称的に表記する (ラ)ergo:したがって existo:存在 cogito:考える sive:また ってあった。で、これで訳してみると、 *Ego cogito, ergo sum, sive existo=わたし 考える、したがって 私はいる、また 存在する *ego cogito, ergo sum=わたし 考える、したがって 私はいる *Ego sum, ego existo=わたし 私はいる、私 存在する ってなった。
もし、カントが、〔〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉(自己意識)によって、〈”私は考える”という表象〉が生まれてくる〕のようなことを言ってるんだとしたら、デカルトの[Ego cogito, ergo sum, sive existo]を逆に(自己意識が存在する、ゆえに“私は考える”という表象が生まれる)反復してるようにも思える。 でもよく考えて見ると[Ich denke]「I think」「私は考える」のなかにはすでに[Ich]「I」「私」が入っちゃてるから、とりたててのことじゃないかも。(1)〜(9)では、「私」あるいは「自己意識」というのがどのようにして生まれてくるのかについての記述じゃないみたい。
(10)(11)(12)のところはわたしに分かりやすい文章にするのはできなかったで〜す。
訳としては、
I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical; or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation “I think,” must necessarily be capable of accompanying all our representations. (DeepL機械翻訳) 私はこれを、経験的な知覚と区別するために、純粋な知覚、あるいは原初的な知覚と呼んでいます。なぜなら、これは自己意識であり、「私は考える」という表現を生み出す一方で、私たちのすべての表現に必ず付随していなければならないものだからです。 の(DeepL機械翻訳)の「知覚」→「統覚」、「表現」→「表象」に置き換えたのと、
田中さんの訳 『私はこの表象を経験的統覚と区別するために純粋統覚、あるいはまた根源的統覚とも名づける。なぜならこの統覚は、すべての他の表象に伴うことができなければならず、すべての意識において同一のものである「私は思考する」という表象を生み出すので、もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような自己意識だからである。』
のが、わたしにとってはわかりやすかった。
『もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような』、「自己意識」(外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識)は問題よね。わたしなりに見ると「私」が問題。
長くなっちゃってごめんね。一生懸命調べて考えて見たから。
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