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■19514 / inTopicNo.73)  Re[17]: カント的『様々な観念の段階』7
  
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 23:43:04)
    【Diese ist entweder Anschauung oder Begriff (intuitus vel conceptus). 】

    (英)A cognition is either an intuition or a conception (intuitus vel conceptus).
    (日)認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。
    (D)This is either intuition or concept (intuitus vel conceptus).
引用返信/返信 削除キー/
■19513 / inTopicNo.74)  Re[16]: カント的『様々な観念の段階』6
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 23:42:35)
    【eine objektive Perzeption ist Erkenntnis (cognitio). 】  

    (英)an objective perception is a cognition (cognitio).
    (日)また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。
    (D)an objective perception is cognition (cognitio).
引用返信/返信 削除キー/
■19512 / inTopicNo.75)  Re[15]: カント的『様々な観念の段階』5
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 23:42:03)
    【Eine Perception, die sich lediglich auf das Subjekt, als die Modifikation seines Zustandes bezieht, ist Empfindung (sensatio),】

    (英)A perception which relates solely to the subject as a modification of its state, is a sensation (sensatio),
    (日)この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。
    (D)A perception that refers only to the subject, as the modification of its state, is sensation (sensatio),
引用返信/返信 削除キー/
■19511 / inTopicNo.76)  Re[14]: カント的『様々な観念の段階』4
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 23:41:31)
    【Unter ihr steht die Vorstellung mit Bewusstsein (perceptio).】

    (英)Under it stands representation with consciousness (perceptio).
    (日)この類の下に、意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
    (D)Under it stands the conception with consciousness (perceptio).
引用返信/返信 削除キー/
■19510 / inTopicNo.77)  Re[13]: カント的『様々な観念の段階』3
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 23:40:42)
    【Die Gattung ist Vorstellung ueberhaupt (repraesentatio). 】

    (英)The genus is representation in general (representatio).
    (日)まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、
    (D)The genus is representation at all (repraesentatio).
引用返信/返信 削除キー/
■19509 / inTopicNo.78)  Re[12]: カント的『様々な観念の段階』2
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 23:39:54)

    【Hier ist eine Stufenleiter derselben. 】

    (英)The following is a graduated list of them.
    (日)ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。
    (D)Here is a stepladder of the same.
引用返信/返信 削除キー/
■19508 / inTopicNo.79)  カント的『様々な観念の段階』1
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 23:38:27)
    投稿したら、アク禁になったー
    頭から徐々に投稿してみます。



    うましかさん、原文の引用ありがとうございます!
    とても嬉しいです。文字化け直すのとか大変だったんじゃないかな?と思いました。
    感謝です(^人^)

    いつか役立つかも、と、わたしも英訳部分を調べてみました。

    【カント原文】B377あたり?『理念一般について』の最後らへん。

    (英) J. M. D. Meiklejohnさんの英訳 https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html
    (日)『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用
    (D)翻訳アプリDeepl無料版にて翻訳した英訳
    (※田秋さんにおすすめいただいたDeeplとても使い勝手がよくて助かっています!ありがとうございます♪)

    の、コラボレーションでございますー
    (カント先生、未来にこんなコラボになるなんて、予想できました?(#^.^#))


    ====================
引用返信/返信 削除キー/
■19501 / inTopicNo.80)  Re:うましかさんの勉強ノートを読んでのー
□投稿者/ うましか -(2021/11/28(Sun) 20:19:47)
    No19495に返信(pipitさんの記事)

    > わたし、↓以下のカントの文章が前から気になってるんですよねー。
    > そのうち、わかるようになるかなー。
    >
    > No18867より一部再掲
    >>『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用
    >
    > 『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。
    >
    > まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、
    >
    > この類の下に、
    >
    > 意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
    >
    > この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。
    >
    > また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。
    >
    > 認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。
    >
    > 直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。
    >
    > 概念は多くのものに共通な特徴によって、対象と間接的にかかわる。
    >
    > 概念は経験的な概念であるか、純粋な概念であるかのどちらかである。
    >
    > 純粋な概念が(純粋な感性的な形象においてではなく)知性だけを起源とするときは、それは知性の概念(ノティオ)と呼ばれる。
    >
    > 知性の概念から生まれたものではあるが、経験の可能性を越え出た概念は、理念あるいは理性の概念と呼ばれる。』<
    >
    > おつかれさまです ☆彡

    *******

    pipitさん、こんばんはー

    おつかれさまですm(__)m

    私もpipitさんの引用箇所を共有したかったので、とりあえず原典の該当部分を引用してみましたー(/・ω・)/


    *******

    Hier ist eine Stufenleiter derselben.

    Die Gattung ist Vorstellung ueberhaupt (repraesentatio).

    Unter ihr steht die Vorstellung mit Bewusstsein (perceptio).

    Eine Perception, die sich lediglich auf das Subjekt, als die Modifikation seines Zustandes bezieht, ist Empfindung (sensatio), eine objektive Perzeption ist Erkenntnis (cognitio).

    Diese ist entweder Anschauung oder Begriff (intuitus vel conceptus).

    Jene bezieht sich unmittelbar auf den Gegenstand und ist einzeln; dieser mittelbar, vermittelst eines Merkmals, was mehreren Dingen gemein sein kann.

    Der Begriff ist entweder ein empirischer oder reiner Begriff,

    und der reine Begriff, sofern er lediglich im Verstande seinen Ursprung hat (nicht im reinen Bilde der Sinnlichkeit) heisst Notio.

    Ein Begriff aus Notionen, der die Moeglichkeit der Erfahrung uebersteigt, ist die Idee, oder der Vernunftbegriff.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html 参照


引用返信/返信 削除キー/
■19495 / inTopicNo.81)  うましかさんの勉強ノートを読んでのー
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 18:29:35)
    もう一つ、思ったことをー (o^^o)v

    No19480
    > ・カントはロックとヒュームが主張した感覚の主観性を否定していない。
    ・感覚の主観性が主題となるのが、『プロレゴメナ』における「知覚判断」についての議論
    ・カント曰く「すべての経験判断は経験的である、・・・ それでも逆にすべての経験的判断が(それゆえに)経験判断であるわけではない。」
    ・カントによれば、経験的な判断は、@客観的な妥当性をもつ経験判断 A主観的にしか妥当しない知覚判断に区分される。
    ・フリーマンによる感覚sensationと知覚perceptionの区別は、カントの議論におそらく対応している。
    ・意識において綜合された感覚が知覚である。(山下)〔p.78〕<

    わたし、↓以下のカントの文章が前から気になってるんですよねー。
    そのうち、わかるようになるかなー。

    No18867より一部再掲
    > 『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用

    『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。

    まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、

    この類の下に、

    意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。

    この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。

    また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。

    認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。

    直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。

    概念は多くのものに共通な特徴によって、対象と間接的にかかわる。

    概念は経験的な概念であるか、純粋な概念であるかのどちらかである。

    純粋な概念が(純粋な感性的な形象においてではなく)知性だけを起源とするときは、それは知性の概念(ノティオ)と呼ばれる。

    知性の概念から生まれたものではあるが、経験の可能性を越え出た概念は、理念あるいは理性の概念と呼ばれる。』<

    おつかれさまです ☆彡


引用返信/返信 削除キー/
■19490 / inTopicNo.82)  Re[9]: 謎沼探検記(;´・ω・) − 7
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 18:10:58)
    2021/11/28(Sun) 18:13:02 編集(投稿者)

    うましかさん、沼ようです!

    ↓笑笑で仕事の疲れが癒されましたー(o^^o)♪

    >謎沼ばかりでヤケ〇ソの拾い読みです!( ノД`)シクシク…<


    No19480
    >第二節 カント認識論の構図
    ・『純粋理性批判』とは、文字通り、「理性批判」
    ・「純粋理性を批判するのが純粋理性自身」ということが重要。
    ・理性批判とは、自己認識という仕事、言いかえれば、「認識する主観の自己主題化」(クレメ)
    ・純粋理性は、超越論的認識を行う自身でもある。ここでいう超越論的とは、「対象にではなく、それがアプリオリに可能な限りで対象についての我々の認識のあり方にそもそも従事すべき全ての認識」に名づけられるのであり、超越論的認識を行うものは、アプリオリに認識する原理を含む純粋理性自身でもあるということ。⇒ 『純粋理性批判』において純粋理性の批判を行うのは、著者カント自身の純粋理性である(ブフナー:「超越論的議論の自己関係化」)
    ・上を言いかえるならば、『純粋理性批判』を執筆し、その中で主語として「私(Ich)」と言っているカントの「私」となり、現代の認知科学でいうなら「メタ認知」に相当する。<


    カントは、理性による理性批判のことを(理性にとっての?)『あらゆる任務のうちでもっとも困難な自己認識の営み』と、第一版序文で述べてますね。

    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p204より引用。AXTあたり。
    『この無関心は理性にたいして、あらゆる任務のうちでもっとも困難な自己認識の営みにふたたび着手することを、そしてそのために一つの法廷を設けることを求めるものなのである。』
    引用終了

    おつかれさまです!
    わたし、実は、純理の最後の方(超越論的な方法論・中山先生の本では最終巻の第7巻)も読むの楽しみなんですよねー。
    まだチラッチラッと見るだけだけど、カント先生の言葉が伸びやかに展開されてる気がして。

    けど、、、遠いよおーーー( ;∀;)

引用返信/返信 削除キー/
■19480 / inTopicNo.83)  謎沼探検記(;´・ω・) − 7
□投稿者/ うましか -(2021/11/28(Sun) 11:48:14)
    2021/11/28(Sun) 11:49:09 編集(投稿者)

    pipitさん、沼っす!(`・ω・´)ゞ

    謎沼ばかりでヤケ〇ソの拾い読みです!( ノД`)シクシク…


    ******* 山下和也 『カントとオートポイエーシス』*******

    ◇序 カント認識論とオートポイエーシス


    ◇第一章 オートポイエーシス論 ・・・ p.1〜p.14
    ■第一節 経緯
    ・1960年、マトゥラーナは生物の起源について講義していたなか医学生から受けた「35億年前に生命が始まったとき何が起きたのか」という質問を機に、生命のシステムの特徴について考察しはじめ、思いついたのが、生命システムの、すべてが自身との関連について起きるという自律性であった。
    ・1961年からは、マトゥラーナは生命システムを自己言及(self-referring)と呼んだ。ただし、彼はシステム自体とシステム・環境関係を区別する必要を感じていたのでこの表現に満足できなかった。
    ・1963年、マトゥラーナは微生物学者との対話により、DNAがタンパク質の合成に関与し、タンパク質はDNAの合成に関与するという生命システムの循環性に気づく。
    ・1964年から、マトゥラーナは生命システムを「その内ではそれを構成する産出以外、すべてが変化しうる分子産出の循環的システムとして、相互作用の単位あるいは存在者として構成されたシステム」と定義し始める。その一方で、ハトの色覚の実験を通じて、いわゆる神経システムが閉じたネットワークであることに気づく。
    ・1967年、マトゥラーナは分子産出システムとしての生命システムも神経システムも閉じていることを発見。
    ・1968年、マトゥラーナはネオ・サイバネティクスの権威であるフェルスターから招待され、1969年に「認知の神経生理学」を主題に発表するよう依頼される。この中で、生命システムは分子産出の循環的システムとして単位として構成されたシステムであるという構想を発表。
    ・1972年、マトゥラーナは共同研究者のヴァレラから形式化への示唆も受けて、マトゥラーナがこの構想を完成させスペイン語の論文「生命の機構と性質について」を発表。この論文を執筆中、マトゥラーナは友人との会話を通じて「オートポイエーシス」という造語を思いつく。
    ・1980年、マトゥラーナはヴァレラと『オートポイエーシスと認知』を出版。「生命の機構と性質について」の英訳を添えた。
    ・1987年、マトゥラーナとヴァレラは、入門書的な意味合いをもつ『知恵の樹 − 人間知性の生物学的根源』を英語で出版。
    ■第二節 定義
    ・オートポイエーシスを原理として成立するシステムを「オートポイエーシス・システム」という。
    ・「オートポイエーシス・システム」の定義とは、「構成素(component)を産出する構成素を産出(変形あるいは破壊)するプロセスのネットワークとして組織された(単位体として定義された)マシンであり、構成素は(@)その相互作用と変形を通じ、自身を産出するプロセス(関係)のネットワークを再生し実現する、そして(A)それ(マシン)を、自身(構成素)が存在する空間において、そうしたネットワークとしてのその実現の位相的領域を特定することで、構成する」〔p.4〕
    ・上記の定義は、山下によれば一見して分かりづらく、しかも言いたいことの内実が表現しきれていない。「産出」「連鎖」「循環」「閉鎖」というキーワードを使った山下による定義とは、「オートポイエーシス・システムとは、産出物が次の産出プロセスを作動させる仕方で連鎖する産出群が作るネットワークの、循環的に作動して閉鎖した自己完結的閉域である。閉域形成に参与する産出物をシステムの構成素と呼ぶ」〔p.5参照〕
    ・APシステムの分かりやすい例とは、細胞システム(※ただし細胞そのものではない)。
    ■第三節 基本概念
    ・「コード」
    ・「構造的ドリフト」
    ・「構造変動」
    ・「メタモルフォーゼ」
    ・「システムの環境」
    ・「相互浸透」
    ・「攪乱」
    ・「構造的カップリング」
    ・「カップリング・システム」
    ・すべてのオートポイエーシス・システムに共通な性質・・・@個体性、A単位性、B自律性、C入力・出力の不在
    ・「言及システム」・・・ (元のシステムに対する新しいシステムとして)一階言及システム、二階言及システム〜


    ◇第二章 理性と認識システム ・・・ p.15〜p.34
    ・オートポイエーシスの認識論の基本となる三つのシステム、生命システム、意識システム、認識システムと、カントのあげる三つの認識能力、感性、悟性、理性との対応を考える。
    ・この図式が山下の展開する認識論の基礎となる。〔p.15〕

    ■第一節 三つのシステム 生命・意識・認識
    ・生命システムとは、認識を考える場合の出発点。
    ・生命システムとは、生体器官を構成素とし、身体を構造とするAPシステム。
    ・意識システムとは、脳における自己言及に基づく生命システムの一階言及システム。表象を構成素とするシステム
    ・認識システムとは、生命システムからは二階言及、意識システムからは一階言及のシステム。
    ・認識システムとは、認識表象を構成素とし、認識を構造とする。
    ■第二節 感性・悟性・理性
    ・カントによる人間の認識(能力)
    「すべての我々の認識は感官に始まり、そこから悟性に進み、理性で終わる、理性を超えて、直観の素材を加工し、思惟の最高の統一の下へともたらす、より高次のものは我々のうちに見いだされない」(B355)
    「人間の認識には、おそらくは共通の、しかし我々には未知な根から生える二つの幹がある、すなわち、感性と悟性である。前者によって我々に対象が与えられ、後者によってしかし思惟される」(B29)
    ・山下のイメージでいえば、感性と悟性とによって個別の認識が成立し、理性によってそれが体系化される。


    ◇第三章 批判と二つの視点 ・・・ p.35〜p.52
    ■第一節 オートポイエーシスの二つの視点
    ・河本によれば、オートポイエーシス論を認識論的にみたときに決定的な区別とは、@システムそのものにとって(fuer sich)の視点と、A観察者にとって(fuer uns)の視点である。
    ■第二節 カント認識論の構図
    ・『純粋理性批判』とは、文字通り、「理性批判」
    ・「純粋理性を批判するのが純粋理性自身」ということが重要。
    ・理性批判とは、自己認識という仕事、言いかえれば、「認識する主観の自己主題化」(クレメ)
    ・純粋理性は、超越論的認識を行う自身でもある。ここでいう超越論的とは、「対象にではなく、それがアプリオリに可能な限りで対象についての我々の認識のあり方にそもそも従事すべき全ての認識」に名づけられるのであり、超越論的認識を行うものは、アプリオリに認識する原理を含む純粋理性自身でもあるということ。⇒ 『純粋理性批判』において純粋理性の批判を行うのは、著者カント自身の純粋理性である(ブフナー:「超越論的議論の自己関係化」)
    ・上を言いかえるならば、『純粋理性批判』を執筆し、その中で主語として「私(Ich)」と言っているカントの「私」となり、現代の認知科学でいうなら「メタ認知」に相当する。
    ■第三節 現象と物自体を区別する者
    ・カントは内官の対象である主観と、外観の対象である外的現象に関して、現象としてのあり方とそれ自体としてのあり方を区別する。
    ・後者(外観の対象)に対しては、現象と物自体の区別となる。
    ・ここで、区別している、いわば「カントの私」は、いかなる資格の私なのか?… 純粋理性としての私?純粋統覚としての私?自体的な私?内官の対象である主観としての私?
    ・現象と物自体の区別は、我々にとって認識されうるものと認識されえないものの区別である。
    ・あるものが認識されえないと言えるためには、少なくともそのものが存在することは知られていなければならない。しかし、「認識不可能な物自体の存在をカントはいかにして語ることができるのか?」
    ・上の問いに対する解釈二例。カウルバッハのパースペクティブ論とアディッケスの議論 → 両者とも、二世界解釈ではなく二側面解釈であり、物自体というあり方の事実性を否定しない。
    ■第四節 『純粋理性批判』における二つの視点


    ◇第四章 自我とシステム ・・・ p.53〜p.68
    ■第一節 システムの自己
    ■第二節 統覚論とオートポイエーシス
    ■第三節 『オプス・ポストゥムム』の自己措定論


    ◇第五章 感覚と攪乱 ・・・ p.69〜p.92
    ■第一節 ロックとヒュームの感覚論
    ■第二節 感覚の主観性
    ・カントはロックとヒュームが主張した感覚の主観性を否定していない。
    ・感覚の主観性が主題となるのが、『プロレゴメナ』における「知覚判断」についての議論
    ・カント曰く「すべての経験判断は経験的である、・・・ それでも逆にすべての経験的判断が(それゆえに)経験判断であるわけではない。」
    ・カントによれば、経験的な判断は、@客観的な妥当性をもつ経験判断 A主観的にしか妥当しない知覚判断に区分される。
    ・フリーマンによる感覚sensationと知覚perceptionの区別は、カントの議論におそらく対応している。
    ・意識において綜合された感覚が知覚である。(山下)〔p.78〕
    ■第三節 感覚の客観性
    ■第四節 オートポイエーシス論の攪乱概念と感覚
    ・外的な物理的刺激によっては神経システムの活動は決定されず、むしろシステム自身によって決定されている(オートポイエーシス論の着想をえたマトゥラーナのハトの視覚神経の実験より)。ただし、神経システム自身は単独のAPシステムではなく、生命システムの部分ネットワークである。〔p.84〜p.85〕
    ・神経の反応は閾値をもち、自分が反応する外的刺激の強さや種類を自律的に自分で決定するが、強力すぎる刺激は神経の反応を不可能にする。明るすぎる光では何も見えず、大きすぎる音は耳鳴りにしかならない。


    ◇第六章 カテゴリーと概念コード ・・・ p.93〜p.114
    ■第一節 認識システムの概念コード
    ■第二節 カントのカテゴリー
    ■第三節 概念コードとカテゴリー − 超越論的演繹論から −
    ■第四節 カテゴリーの超越論的演繹 − オートポイエーシス論から見て −


    ◇第七章 物自体と認識システムの環境 ・・・ p.115〜p.130
    ■第一節 カントの物自体
    ■第二節 システムの環境と認識
    ■第三節 認識システムの環境としての物自体


    ◇第八章 超越論的観念論とラディカル構成主義 ・・・ p.131〜p.150
    ・この章では、カント超越論的観念論とAP論的構成主義の認識論の比較しカントの記述通りに理解することを試みる。
    ・エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドのラディカル構成主義をカントの議論と比較する。

    ■第一節 カントの超越論的観念論
    ■第二節 現象の主観性
    ■第三節 ラディカル構成主義
    ・グレーザーズフェルドによれば、ラディカル構成主義とは、「知識をどのように定義したところで、知識は人の頭の中に存しており、思考自体は自らの経験を基礎として自ら知っていることを構成する以外に他にないという前提から出発する。」
    ・「われわれが経験を用いて構成しているものは、われわれが意識しながら生きている唯一の世界をなす。それは、事物、自我、他者などのような多くの種類に分類することが可能だ。」
    ・「しかしあらゆる種類の経験は本質的に主観的なものである。」〔p.139〜p.140〕
    ・山下によれば、ラディカル構成主義の基本的な主張とは、「我々が経験している世界は我々が構成したもの」である。〔p.139〜p.140〕
    ■第四節 超越論的観念論再考


    ◇第九章 超越論的自由と自律性 ・・・ p.151〜p.170
    ■第一節 第三アンチノミーにおける超越論的自由
    ■第二節 オートポイエーシスの自律性
    ■第三節 認識システムの自由


    ◇結 論 認識論の完成に向けて ・・・ p.171〜p.175

    *******

    No.18527,18608,18670,18758,19219,19242,19480

引用返信/返信 削除キー/
■19474 / inTopicNo.84)  Re[8]: 読書日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/28(Sun) 07:38:54)
    おはようございます(^ ^)

    うぅ、『知恵の樹』中頃、なんかめっちゃ、私には難しくなってきました。。。
    がんばるひょー

    でも今日お仕事 (´;ω;`)

    ありがたいけど!けどー  けどー

    でもどうせなら p(^_^)q ♪
    実践実験できたらいいよね!
    いってきます @(・●・)@
引用返信/返信 削除キー/

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