| パニチェさん、こんばんはー
勝手に「底なし沼探査」の隊長さんにしてしまってすみませんですm(__)m
ちょっとうれしくて(・∀・)
>うましかさんは大修館書店『 ウィトゲンシュタイン全集1』持ってられるんですね。
はい、というか全集を持っております。 大昔お小遣いためて買いました。
>ウィトゲンシュタインが難解なのは前期と後期があること、これを繋ぐ青色本・茶色本、で哲学探究以降、最期の1年半に綴られた草稿(確実性の問題)と断片もあるからでしょうね。これに加えて1993年に発見された哲学宗教日記まであります。
そうなんですね!(◎_◎;) 私の場合そもそも理解できる素養などないので、マンガ感覚で拾い読みして楽しんでいました。
永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』はたしか持っています。これも懐かしいですねー。もう内容は思い出せませんが、お世話になった本のひとつです。
>以下の草稿も含め、パニチェは永井均氏と同じく前期後期を通じて語りえぬ〈私〉を指し示していると読解しています。
なるほどー
永井はパニチェさんの語りえぬ〈私〉と同じことを指し示していると、パニチェさんは考えているということですね! でも私は永井の方は知らないからなー(;´・ω・)
でも引用してくださった『私はこう言おう。…』はとても興味深い言葉ですね! ただ私にはそれをどう解釈してよいか分かりません(´;ω;`)ウゥゥ
>もの凄く乱暴に言うと。語りえないということは前期・後期にわたり共通するが、言語の写像理論によって形而上学的主体としたものを言語ゲームでもって形而下に引きずりおろそうとした試みでもある。
うーん。。。
私の場合は印象に過ぎないのですが、形而上学的な主体というのはあくまでも彼のその時の哲学的探求における要請として出てきた観念であって、当の哲学(『論考』)の一部が崩壊してしまった?以上、御本体を「獄舎」(『倫理学講話』全集5、p.394参照)の中に置き去りにし、何処かに霧散してしまったんじゃないかと。
では何処に?(;・∀・)
私はパニチェさんの「〈私〉」が、それを知るヒントになるかもしれないと、現時点ではおもっています、、、的外れかもしれないけど。永井の「独在論」については、全く知りませんので、すみませんです。
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