| 2021/11/26(Fri) 21:38:34 編集(投稿者)
pipitさん、エフニさん、おくたがわさん、レスありがとうございます。 ザビビのふくろうさんの提案を受け入れノーサイドを前提として、pipitさんの疑問やおくたがわさんの質問に答えつつ以下はネタバラシです。
まず結論から言えば。。。 “比類なき先言の<私>”は論考の形而上学的主体(哲学的自我)と同じではないが、全く異なるということでもないということです。 要するに共通する部分もあるし、異なるところもあるが、おそらく(断言はできませんが)前期の(写像理論を前提とした)独我論とは一線を画しており同一ではない。
また、ザビビのふくろうさんの1の主張「PとQが同じではない」のかあるいは「PとQは全く異なる」のかを判断するためにはPとQを理解しているのが大前提。 “比類なき先言の<私>”に関してはザビビのふくろうさんは(永井哲学の〈私〉も含めて)全く理解していないと毒入りパニチェは見た。 まずはここを弄ってやろうというのがひとつ。
もうひとつは私の結論に絡むところですが『AとBは同じものではない』と『AとBは全く異なるものである』は同じではないにもかかわらず、途中から『AとBは全く異なるものである』に変更している点や、この二つは明らかに日本語としても違うだろうというところを弄るだけ弄り倒してやろうというのが毒入りパニチェの魂胆でした(笑)。
毒入りパニチェとしてはまず上記の二つの言明が異なるということを認めさせる必要がありました。
ザビビのふくろうさんも述べているようにザビビのふくろうさんの主張を論破するためには、ザビビのふくろうさんの論考に関する(独特な)読解に反論する必要があるのですが、私が想像するにこの論争は非生産的かつ平行線になるのは明らかだし、それより何より私にとって全く面白くないし、手間ひまかけるモチベーションがないというのが正直なところでした。(これについては何度かレスしたし、ザビビのふくろうさんもこの点については同意していたw)
おそらく論考の無意義と無意味の違いや、論考において示された語りえない対象とは何かということを含めた論考論になるでしょうし、無意味に関しては前期にとどまらず後期の言語ゲームも絡んでくるだろうなと予測してました。完全決着には“比類なき先言の<私>”がどのようなものか示す必要があり、これは論考論よりもさらに私にとってつまらない、時間と手間をかけたくないお題です。
成り行き次第では論考論に移らざるをえないが、弄りながらの様子見というところでした。
そういうわけで、ザビビのふくろうさんのお陰でもって久々に毒入りパニチェを楽しませてもらいました。 私の方はノーサイドで全然問題はありません。 もしザビビのふくろうさんがトピでも作る気になったら、いつでもリクエスト下さい。
PS、上記の私のレスでまだ疑問や質問があるメンバーは遠慮なくどうぞ。 グレートムタこと毒入りパニチェではなく、武藤敬司ことパニチェでもって回答します(笑)。
ヘ( ̄― ̄ヘ)(ノ ̄― ̄)ノ〜 ちゃんちゃん♪
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