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■19741 / inTopicNo.13)  Re[43]: おくりびと
  
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/07(Tue) 21:57:56)
    こんばんは、 knowing itselfさん

    >ミサに二千年前のキリストと寸分の違いもなく同一の存在が「そこにいる」と信じる

    このように信じるのがプロテスタントの人で、カトリックの人はこれを信じないということでしょうか?

    宜しくお願いします。


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■19722 / inTopicNo.14)  Re[42]: おくりびと
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/07(Tue) 08:00:38)
    ディディモさん、フローラさん、横レス失礼します。

    > >1.教学と儀式と伺い、私はプロテスタントとカソリックのような感じを受けました。あくまでもバイブルによる普及と、教会中心(その中には華麗な儀式を含む)を連想してしまいました。類例には遠いですか?
    >

    > で、カトリックにプロテスト(抗)した当時の宗教改革者たちが、具体的にカトリックの何に抗したかというと、@〜Bです。
    >
    > @カトリックの「聖書と聖伝」に対して、プロテスタントの「聖書のみ」という形で抗したのです。
    >
    > 聖伝とはイエスに遣わされた使徒たちに依るとされる「使徒伝承」と、教会での【典礼】をも含む「諸伝承」のことです。これがカトリックには加わっているんですね。その典礼にはフローラさん仰る >教会中心(その中には華麗な儀式)< という言説が含まれます。したがって救済の条件に聖書だけでなく聖伝が加わることによって【典礼】つまり儀式には効力があるとされます。その儀式はカトリックでは七つのサクラメント(秘跡)と位置づけされます。それに対してプロテスタントではこれを礼典と呼び、聖書由来が明確である洗礼と聖餐の二つだけです。そしてその意味付けは概ね神の恵みをあらわす徴とされます。象徴論ではカトリックのように効果は計られませんよね。ですからプロテスタントでは礼典(儀式)に与ったとしても、そのことに依って救われた・とは
    > ということで、カトリックとプロテスタントには同じキリスト教と言っても少なからず違いがあり、教学と儀式をプロテスタントとカトリックに対比させてみたフローラさんの直感は、あながち的を外してはいないと思いますよ。(^^)

    華麗な儀式中心のカトリックと、その種を否定するプロテスタントという対比ですが、実はその奥にもっと重要な立場の違いがあると思います。それは、ミサに二千年前のキリストと寸分の違いもなく同一の存在が「そこにいる」と信じるかどうか。この一点ですね。正確にいうとそれは儀式ではないんです。キリストが本当にそこにいるなら、この世の、いかなるものより心のこもった儀式にするというのは、「そこにいる」ことの効果に過ぎません。普通の人ならそんなバカな、トンデモだと敬遠しても当然ですが。

    カトリックとプロテスタントをめぐる様々な対立は、この一点から派生するといっていい。もっとも、二千年前のキリストを信じることにおいては、カトリックとプロテスタント、なんの違いもありません。新約聖書もまったく同じです。

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■19713 / inTopicNo.15)  Re[42]: おくりびと
□投稿者/ flora -(2021/12/06(Mon) 15:27:50)
    ディディモさん、おはようございます。詳しいご説明ありがとうございます。

    >プロテスタント神学を要約した有名なラテン語に、三つの「Sola(ソラ)」があります。このSolaの意味は「のみ」です。すなわち「聖書のみ(Sola scriptura)」と「信仰のみ(Sola fide)」と「恩恵のみ(Sola gratia)」です。

    英語のsoloはこのSolaから来たんでしょうね。

    >@カトリックの「聖書と聖伝」に対して、プロテスタントの「聖書のみ」という形で抗したのです。

    >聖伝とはイエスに遣わされた使徒たちに依るとされる「使徒伝承」と、教会での【典礼】をも含む「諸伝承」のことです。これがカトリックには加わっているんですね。その典礼にはフローラさん仰る >教会中心(その中には華麗な儀式)< という言説が含まれます。したがって救済の条件に聖書だけでなく聖伝が加わることによって【典礼】つまり儀式には効力があるとされます。その儀式はカトリックでは七つのサクラメント(秘跡)と位置づけされます。それに対してプロテスタントではこれを礼典と呼び、聖書由来が明確である洗礼と聖餐の二つだけです。そしてその意味付けは概ね神の恵みをあらわす徴とされます。象徴論ではカトリックのように効果は計られませんよね。ですからプロテスタントでは礼典(儀式)に与ったとしても、そのことに依って救われた・とはなりません。それが次のAに続きます。

    >Aカトリックの「信仰と行為」に対して、プロテスタントの「信仰のみ」で抗したのです。

    宗教改革ですが、やはり教会と聖職者たちの腐敗があげられると思うのですが、時代を遡ればいつ頃から、こういう考え方が出てきたのでしょうか? それと、大変初歩的な質問で申し訳ないのですが、 聖書が読めない人々はどのようにして聖書の内容を知ったのでしょうか? 例えば読んで聞かされる場合、この時点で人間の説明が入ったりはしなかったのでしょうか?

    >つまり救われるのは「信仰のみ」です。これは本来罪深い存在(原罪)である人が救済されるかどうかは、その人の外的な行為ではなく、すべて内的な信仰による、とする考え方です。その外的な行為には、善行も、悪行も、修行も、儀式も・・すべてが含まれます。あるいはどんな地位を獲得しようと、どんな人格を身に着けようとすべて救済には関係ありません。ただ「信仰のみ」で救われるということです。付言すると、これは信じさせられる(受け身)ということで、これを煎じ詰めれば、人間側ではなく神の側の自由裁量で救済される人を選ぶということです。・・神の側ということで、次いでBになります。

    >Bカトリックの「(神の)恩恵と(人の)意志」に対して、プロテスタントの「(神の)恩恵のみ」で抗したのです。

    3つのSolaはすべて受け身なのですね、私は最初の2つは主体が私たちにあるのだと想像しておりました。私たちを評価(正しい表現かどうかわかりませんが^^;)するのはGod Almightyだけ(Sola)ということなんですね?

    >パウロは言っております。【正しいものはいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。・・善を行なう者はいない。ただの一人もいない】と。(ローマの信徒への手紙3−10以下)

    「悟る者もなく」、この場合悟るとはどのようなことを意味しているのでしょうか?

    >他にもロマ書には類型の言葉が散見されますが、要は、人はどんなに善を欲しても善をなすことができない。自分の心に反して悪をなしてしまう。すべての人は罪人である、というパウロ神学の粋がここに表れています。このことは哲学用語での自由意志という言葉で捉えられる困るんですが・・少なくとも「善をなすことができない」という神学的な意味では・・人に(善に向う)自由意志はない、と言っても良いように思われます。ですから善をなすことができた、あるいは信じることができた・・としたら、それは人ではなく神の恩恵によるのだという考え方になるんですね。つまりこれもすべて「恩恵のみ」なんですね。

    個人の自由意思はない、全体としての自由意思はある・・・・ 自分=全体=神と見た場合のみ自由意思はあるとうことなのかな〜? 禅的(?)には私(個人)ではなくわたし(全体)と見なした場合は自由意思はあるとか、そんか解釈を愚さん伺ったことがあるような気がします。 

    ちょっと前に土葬か火葬か?天国に召される場合は火葬はまずいんじゃないかのようなことを伺いましたが、すべて神が決める場合は、そんな小手先の事はどうでもいいということにおそらくなるのでしょうね。どうなんでしょうか?


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■19677 / inTopicNo.16)  Re[41]: おくりびと
□投稿者/ ディディモ -(2021/12/04(Sat) 23:54:55)

    >1.教学と儀式と伺い、私はプロテスタントとカソリックのような感じを受けました。あくまでもバイブルによる普及と、教会中心(その中には華麗な儀式を含む)を連想してしまいました。類例には遠いですか?

    いや、かなり近いです。
    プロテスタント神学を要約した有名なラテン語に、三つの「Sola(ソラ)」があります。このSolaの意味は「のみ」です。すなわち「聖書のみ(Sola scriptura)」と「信仰のみ(Sola fide)」と「恩恵のみ(Sola gratia)」です。
    この三つの言葉は、いずれも救済論にかかわる文脈で理解すると分かりやすいですね。つまり「何によって救われるのか?」という設問を立てたとすると、その解答は三つの「Sola(ソラ)」だと。

    で、カトリックにプロテスト(抗)した当時の宗教改革者たちが、具体的にカトリックの何に抗したかというと、@〜Bです。

    @カトリックの「聖書と聖伝」に対して、プロテスタントの「聖書のみ」という形で抗したのです。

    聖伝とはイエスに遣わされた使徒たちに依るとされる「使徒伝承」と、教会での【典礼】をも含む「諸伝承」のことです。これがカトリックには加わっているんですね。その典礼にはフローラさん仰る >教会中心(その中には華麗な儀式)< という言説が含まれます。したがって救済の条件に聖書だけでなく聖伝が加わることによって【典礼】つまり儀式には効力があるとされます。その儀式はカトリックでは七つのサクラメント(秘跡)と位置づけされます。それに対してプロテスタントではこれを礼典と呼び、聖書由来が明確である洗礼と聖餐の二つだけです。そしてその意味付けは概ね神の恵みをあらわす徴とされます。象徴論ではカトリックのように効果は計られませんよね。ですからプロテスタントでは礼典(儀式)に与ったとしても、そのことに依って救われた・とはなりません。それが次のAに続きます。

    Aカトリックの「信仰と行為」に対して、プロテスタントの「信仰のみ」で抗したのです。

    つまり救われるのは「信仰のみ」です。これは本来罪深い存在(原罪)である人が救済されるかどうかは、その人の外的な行為ではなく、すべて内的な信仰による、とする考え方です。その外的な行為には、善行も、悪行も、修行も、儀式も・・すべてが含まれます。あるいはどんな地位を獲得しようと、どんな人格を身に着けようとすべて救済には関係ありません。ただ「信仰のみ」で救われるということです。付言すると、これは信じさせられる(受け身)ということで、これを煎じ詰めれば、人間側ではなく神の側の自由裁量で救済される人を選ぶということです。・・神の側ということで、次いでBになります。

    Bカトリックの「(神の)恩恵と(人の)意志」に対して、プロテスタントの「(神の)恩恵のみ」で抗したのです。

    これは・・人間は自分の力では善をなすことはできない、善をなすのはすべて神の恩恵(grace)によるという考え方です。

    パウロは言っております。【正しいものはいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。・・善を行なう者はいない。ただの一人もいない】と。(ローマの信徒への手紙3−10以下)

    他にもロマ書には類型の言葉が散見されますが、要は、人はどんなに善を欲しても善をなすことができない。自分の心に反して悪をなしてしまう。すべての人は罪人である、というパウロ神学の粋がここに表れています。このことは哲学用語での自由意志という言葉で捉えられる困るんですが・・少なくとも「善をなすことができない」という神学的な意味では・・人に(善に向う)自由意志はない、と言っても良いように思われます。ですから善をなすことができた、あるいは信じることができた・・としたら、それは人ではなく神の恩恵によるのだという考え方になるんですね。つまりこれもすべて「恩恵のみ」なんですね。

    ということで、カトリックとプロテスタントには同じキリスト教と言っても少なからず違いがあり、教学と儀式をプロテスタントとカトリックに対比させてみたフローラさんの直感は、あながち的を外してはいないと思いますよ。(^^)

    長文を書いてるうちに眠うなりました・・田秋さんとパニチェさんへのレスはまた明日以降にでも・・。(;´・ω・)
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■19671 / inTopicNo.17)  田秋さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/04(Sat) 19:27:38)
    こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。

    No19669に返信(田秋さんの記事)

    > 教科書の葬式仏教の記載、しばしお待ちください。今日明日と面接授業で2日潰れる上にそれとは関係なく今日も明日も放送の授業があり、授業に追いまくられています。

    はい、ほんとにいつでもいいです。数週間後でも構いません。
    時間のある時で。。。

    > 今日は「野菜栽培におけるリン肥料の話」という講義で、うちの畑に為になるかと思って受けてますが、P(リン)が上下左右にお手てを繋いでいる化学式がいっぱい出てきて、お百姓は科学者か!?とツッコミを入れたくなりましたぁ。

    はははは。^^
引用返信/返信 削除キー/
■19669 / inTopicNo.18)  パニチェさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/04(Sat) 18:50:10)
    こんばんは、パニチェさん

    教科書の葬式仏教の記載、しばしお待ちください。今日明日と面接授業で2日潰れる上にそれとは関係なく今日も明日も放送の授業があり、授業に追いまくられています。

    今日は「野菜栽培におけるリン肥料の話」という講義で、うちの畑に為になるかと思って受けてますが、P(リン)が上下左右にお手てを繋いでいる化学式がいっぱい出てきて、お百姓は科学者か!?とツッコミを入れたくなりましたぁ。
引用返信/返信 削除キー/
■19658 / inTopicNo.19)  田秋さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/04(Sat) 09:32:23)
    おはようございます、田秋さん。

    もし手間でなければ時間のある時に教科書にはどのように書かれているか引用いただければ有難いです。

    もちろん、スルーでも全く構いません。

引用返信/返信 削除キー/
■19651 / inTopicNo.20)  Re[42]: 葬式仏教
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/03(Fri) 21:18:47)
    2021/12/03(Fri) 21:45:49 編集(投稿者)

    こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。

    No19650に返信(田秋さんの記事)
    > こんばんは、パニチェさん

    > パニチェさんが書かれたこと、教科書にも書いてあります。

    そうなんですか。
    まんざら出鱈目でもないってことでしょうか。。。^^;


    No19649に返信(田秋さんの記事)

    > もしも葬式が全て無料だったらどうでしょうか。葬式仏教を非難する理由の一つに「人の死につけ込んで金儲けするのは許せない」、そういう気持ちもあるのではないかと思います。

    同意です。
    何度かカキコしてますが、もっとも悪質なのは戒名です。
    もともと仏弟子として平等にするためカースト制度上に付けられた(名前で階級が分かる)俗名を捨てさせるのが戒名であったにもかかわらず、これに位を付けて売価をつり上げるなどという悪徳商法まがいのビジネスを当たり前に平気でやってることです。

引用返信/返信 削除キー/
■19650 / inTopicNo.21)  Re[41]: 葬式仏教
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/03(Fri) 21:05:14)
    こんばんは、パニチェさん

    パニチェさんが書かれたこと、教科書にも書いてあります。
引用返信/返信 削除キー/
■19649 / inTopicNo.22)  Re[42]: 葬式仏教
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/03(Fri) 21:00:55)
    笑点で最初の挨拶の時、楽太郎さん(現円楽)がコムツカシイ話をすると次の林家こん平さんは
    「あたしにはそういう難しいことはよくわからないんですけれども・・・」
    と受けてました。

    教学仏教は難しくてよくわからないのだけれども、とにかく亡くなった自分の親には極楽に行って欲しい。ということでちゃんと弔おう、ちゃんと弔わなかったがために罰が当たって親が地獄に行ってしまってもつまらない、という気持ち、ボクはよくわかります。

    全部根拠のない迷信だと言えばそうかもしれません。ひょっとしたらボクの場合、死者の為ではなく自分の気持ちの切り替えなのために葬式や何回忌というのをしてもらっているのかもしれません。

    もしも葬式が全て無料だったらどうでしょうか。葬式仏教を非難する理由の一つに「人の死につけ込んで金儲けするのは許せない」、そういう気持ちもあるのではないかと思います。

    そういうのはやらないでも、区切りとしてやるでも、その人の考え方だと思います。

    チャ、ラーン! ターキーでーす!
引用返信/返信 削除キー/
■19647 / inTopicNo.23)  葬式仏教
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/03(Fri) 20:42:40)
    2021/12/04(Sat) 07:35:14 編集(投稿者)

    こんばんは、ディディモさん。横レス失礼します。

    No19636に返信(ディディモさんの記事)
    > 確かに釈迦も親鸞聖人も葬儀には無関心だったそうで・・ここでひとつ連想! (歴史に揉まれ、すれっからしになった京都人の俚諺「仏様ほっとけ神様かまうな」主義かいな〜と)^^; まぁ偉大なお二人に敬意をはらい、真面目に言いますが・・確かに「教学仏教」を論じるのは正統なのでしょう・・しかし私は「葬祭儀礼仏教」つまり世に葬式仏教と貶称されている、その諸々のものが日本でなぜ生まれてきたか・・このことに興味があり、この話題が何時出てくるか何時出てくるかと興味深く愚氏のトピを眺めていました。まぁインテリゲンチャになればなるほど後者の話題を嫌うようです・・。(;´・ω・)

    私の思うところをカキコしてみます。

    もともと日本に伝来した大乗仏教は南都六宗(奈良仏教)に代表されるような学究的な要素の強い教説であり、実際、南都六宗は宗派ではなく学派だった。

    平安時代になると唐から帰国した最澄や空海によって開宗された天台や真言も修行と学究の要素が強く、当時の比叡山は仏教学問の総合大学のようなところになっていた。

    で、時代は経て法然が浄土宗、親鸞が浄土真宗を開宗した時代は、地震や干ばつなどの天災に見舞われ民衆は飢餓や飢饉に苦しめられた。

    今日食べるものもままならない日常では仏修行はもちろん、学究などやってる余裕などない。
    まして当時の民衆は字が読めない人も多く佛典に縁することがない。

    このような時代背景もあり合掌して称名すれば極楽往生できるという阿弥陀信仰が仏像崇拝とともに広く民衆に受け入れられるようになり浄土系仏教は隆盛を極める。これが葬式仏教の下地となった。

    仏教を一部のエリートから大衆に引き戻したという意味ではインドで起こった大乗運動にも通じるところはあるが同時に形骸化も生じた。偶像崇拝の戒めや釈迦の姿さえ描くことを禁じていた初期仏教からすれば如来や菩薩などの仏像を崇拝することは教説(法)軽視にもなりかねない。

    江戸幕府によってキリシタンへの弾圧とこれに付随する寺請制度によって宗教統制がなされ、これが後の寺院を経済的に支える檀家制度へと発展する。

    ここからは手っ取り早く私の考えを述べますが、歯科医院が予防医療という名の下に患者(潜在的患者)を囲い込むのと同じく、先祖供養という名の下に葬式や法事で檀家を繋ぎとめておけば代が変わっても囲い込めるという寺にとってはこの上もないおいしいビジネスってことだと思います。

    また大衆は坊主が葬式や法事て垂れる説教(坊主のためのマニュアルがあります)を有難く拝聴し、仏壇に向かって経をあげれば満足するというお手軽仏教が浸透しているため、この手軽さをもって安心を得るという持ちつ持たれつのところもあるんだとは思いますが。。。


引用返信/返信 削除キー/
■19646 / inTopicNo.24)  葬式仏教
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/03(Fri) 20:01:23)
    こんにちは、floraさん、ディディモさん

    前期だか前前期に取った(いつ取ったのかもう忘れている)「日本仏教を捉え直す」という講義では1章を費やして「葬式仏教」が語られています(写真参照)。
    中身をそのまま詳しく書くことはできませんが、簡単にまとめると
    「本来仏教の発想からすると、現世を超越して悟りを求めることが目指されたはずであるが、密教を源流に持つ行法の力は、現世を脅かす死者や悪霊を鎮めて救済することで、現世の秩序を保っていくところに強力な力を発揮するようになった。
    中世には、現世を超える領域を<冥>と呼び、現世の人間の力の及ぶ領域を<顕>と呼んだが、仏教は<冥>の世界にまで及ぶ力を発揮することで、<顕>の世界の秩序を守る役割を果たしたということができる。
    このような仏教の力が、後世の葬式仏教を成り立たせる源流と考えることができる。近世に確立する仏教的な葬儀は、このような中世的な仏教の威力をもとに、それが次第に形式化し、儀礼として完成する中で形成されたという事ができる。」
    と書いてあります。

    次の投稿でボクの感想や考えを書いてみたいと思います。
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