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■19797 / inTopicNo.1)  Re[51]: 教父の世界
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/12/10(Fri) 19:31:51)
    田秋さん、お邪魔します。
    ■19790、
    >受講している「西洋哲学の起源」で、ギリシア・ローマ以来の古代哲学がキリスト教と出会い<
    ちょっと気になったので、
    その講師、西洋哲学の起源はキリスト教である、って言ってるのかな?
    ってわたしには見られたんだけど、その講師のはそういうんでいいですか?

引用返信/返信 削除キー/
■19795 / inTopicNo.2)  Re[50]: ミサ曲
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/10(Fri) 18:56:40)
    田秋さん こんばんは

    > >スコアが十字架音形で埋め込められていて
    > 譜例はクレドの冒頭です。赤線の所、一つ目の音ファ(このパートの音部記号がソプラノ記号なのでこの音はファになります)と四つ目の音ファを結び、二つ目の音ミと三つ目の音ラを結ぶとクロスが出来ます。これを十字架音型と言います(この譜例ではわかりにくいですが、二つ目の音がもっと低かったら?と想像してみてください)。
    > 宗教音楽では音型で意味を現わすことがしばしばあります。これもそのうちの一つです。

    そうですね。ありがとうございます。> バッハがロ短調ミサを作曲した理由は色々言われていますが、ボクが想像するに「みんな、仲良くやろうよ!」じゃないのかなと思います。

    https://youtu.be/ffrsc3wdBt4

    感動的だと思います。コメントにもすごい讃辞が並んでいます。

    実際のミサでは、この曲が終わった直後に、聖体つまりキリストの体が与えられます。聖体には十字架のマークがついていますが、最後の晩餐の翌日に十字架にかかる自分の体を与えるということですね。





    > 下はウィキペディアのロ短調ミサのページです。
    > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E6%9B%B2_%E3%83%AD%E7%9F%AD%E8%AA%BF
    > そこの「評価」の項目中に「ルター派的な十字架信仰の世界が」とあります。
    > プロテスタントでは特に十字架が重要なのでしょうか。

    十字架が重要なのは、カトリックとプロテスタントをとわず、西方キリスト教で共通だと思います。十字架の贖罪ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■19790 / inTopicNo.3)  教父の世界
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/10(Fri) 08:02:46)
    2021/12/10(Fri) 14:56:28 編集(投稿者)

    受講している「西洋哲学の起源」で、ギリシア・ローマ以来の古代哲学がキリスト教と出会い、新たな段階を迎えた西洋の知的世界を代表する教父の世界を概観する、という章があります。そこに興味深い文章があったので紹介します。

    アテナイの評議会で使徒パウロの説教で改宗したディオニュシオス・アレオパギーデスの作と信じられ、広く尊重されてきた「ディオニュシオス文書」と呼ばれる一群の著作がある。のちの研究で偽書であることが判明したが、作者・成立については未詳の所が多い。その思想内容はプロクロスの新プラトン主義思想と神の超越へと向かうカッパドキア教父の思想とを色濃く反映している。神の超越性を示すためには、被造的・有限的存在と神との区別を明示する否定的述定の方が肯定的述定よりもふさわしいと説く。『神秘神学』の書においては、精神は認識を絶した沈黙へと至り、あらゆる語りうるものの根底にある語りえないところへ上昇していく、と言う。擬ディオニュシオスの思想は、東方教会の神学を規定し、また西方世界に新プラトン主義が流入するルートとなり、12世紀から14世紀までのスコラ学や神秘思想に深い影響を与えた。
    ==============

    「否定的述定の方が肯定的述定よりもふさわしい」や「あらゆる語りうるものの根底にある語りえないところ」など示唆に富んだ表現があります。

    さっと一読してわかったような気になっても、こうやって一字一字吟味して書いていくと、理解できた!とはなかなか言えなくなります。
引用返信/返信 削除キー/
■19764 / inTopicNo.4)  Re[49]: ミサ曲
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/09(Thu) 10:14:07)
    2021/12/09(Thu) 10:38:26 編集(投稿者)

    おはようございます、knowing itselfさん

    >スコアが十字架音形で埋め込められていて
    譜例はクレドの冒頭です。赤線の所、一つ目の音ファ(このパートの音部記号がソプラノ記号なのでこの音はファになります)と四つ目の音ファを結び、二つ目の音ミと三つ目の音ラを結ぶとクロスが出来ます。これを十字架音型と言います(この譜例ではわかりにくいですが、二つ目の音がもっと低かったら?と想像してみてください)。
    宗教音楽では音型で意味を現わすことがしばしばあります。これもそのうちの一つです。

    バッハがロ短調ミサを作曲した理由は色々言われていますが、ボクが想像するに「みんな、仲良くやろうよ!」じゃないのかなと思います。もう少し真面目に書けば、自分の死期を感じ始めていたバッハの、キリスト教への思いだったのではと想像しています。

    下はウィキペディアのロ短調ミサのページです。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E6%9B%B2_%E3%83%AD%E7%9F%AD%E8%AA%BF
    そこの「評価」の項目中に「ルター派的な十字架信仰の世界が」とあります。
    プロテスタントでは特に十字架が重要なのでしょうか。

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■19756 / inTopicNo.5)  ミサ曲
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/08(Wed) 17:33:37)
    田秋さん こんばんは。

    モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルトといったカトリックの作曲家はミサ曲を作曲していますね。ミサで唱えるか歌われる、定型的なラテン語に曲をつけたという。

    プロテスタントのバッハもなぜか、この「ミサ通常文」から大曲「ロ短調ミサ曲」を作っていますね。指揮者にしてバッハ研究者である、プロテスタントの鈴木雅明さんによると、スコアが十字架音形で埋め込められていて圧倒されるとか。

    いずれにしろ、ミサはキリストが現存する場ということだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■19752 / inTopicNo.6)  Re[45]: おくりびと
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/08(Wed) 08:10:30)
    おはようございます、knowing itselfさん

    >逆ですね。カトリックがそう信じるのが一般です。といっても、人間になった神であるキリストがいまそこにいて、リアルにそのまんま見、聞き、触り、嗅ぐということでなく、パンという形態の中に、二千前、というよりあらゆる時間に遍在して、そこに現存している人間でもあり神でもあるキリストが現存している、その現存を信じるということです。

    >もっといえば、パンの実体をキリストの実体に変化させる、いまこの瞬間の神秘を信じるのカトリックという意味です。

    ありがとうございました。





引用返信/返信 削除キー/
■19751 / inTopicNo.7)  Re[44]: おくりびと
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/08(Wed) 07:36:19)
    おはようございます。田秋さんレスありがとうございます。
    > こんばんは、 knowing itselfさん
    >
    > >ミサに二千年前のキリストと寸分の違いもなく同一の存在が「そこにいる」と信じる
    >
    > このように信じるのがプロテスタントの人で、カトリックの人はこれを信じないということでしょうか?
    >
    > 宜しくお願いします。


    逆ですね。カトリックがそう信じるのが一般です。といっても、人間になった神であるキリストがいまそこにいて、リアルにそのまんま見、聞き、触り、嗅ぐということでなく、パンという形態の中に、二千前、というよりあらゆる時間に遍在して、そこに現存している人間でもあり神でもあるキリストが現存している、その現存を信じるということです。

    もっといえば、パンの実体をキリストの実体に変化させる、いまこの瞬間の神秘を信じるのカトリックという意味です。



引用返信/返信 削除キー/
■19749 / inTopicNo.8)  葬式仏教
□投稿者/ ディディモ -(2021/12/08(Wed) 00:13:37)
    パニチェさんこんばんは。

    >このような時代背景もあり合掌して称名すれば極楽往生できるという阿弥陀信仰が仏像崇拝とともに広く民衆に受け入れられるようになり浄土系仏教は隆盛を極める。これが葬式仏教の下地となった。

    なるほど、浄土系もですか・・。
    僧籍にない者が称名する姿は、わたしなどには怖いものがあると感じるのですが・・「称名すれば極楽往生できる」という一見易行(たやすく)みえる方法の中に(いや、たやすいからこそ安易に)葬式仏教に結び付く要因が秘められていたのでしょうかね。

    私は田舎育ちで、町内にある六つの寺すべてが臨済宗という環境で育ちました。ですから、大人になって初めて関西に出た時、髪の毛を伸ばしたお坊さんを始めて見たことになります。真宗や親鸞のことは教科書でしか知らなかったので実際の姿を見て大変驚きました。^^; で・・教科書にある「善人なおもて往生をとぐ、なおもて悪人をや」との深遠な言葉とのギャップを感じました。^^;
引用返信/返信 削除キー/
■19748 / inTopicNo.9)  Re[46]: 明日のホームズ
□投稿者/ ディディモ -(2021/12/08(Wed) 00:12:19)
    田秋さんこんばんは。

    >「本来仏教の発想からすると、現世を超越して悟りを求めることが目指されたはずであるが、密教を源流に持つ行法の力は、現世を脅かす死者や悪霊を鎮めて救済することで、現世の秩序を保っていくところに強力な力を発揮するようになった。
    中世には、現世を超える領域を<冥>と呼び、現世の人間の力の及ぶ領域を<顕>と呼んだが、仏教は<冥>の世界にまで及ぶ力を発揮することで、<顕>の世界の秩序を守る役割を果たしたということができる。
    このような仏教の力が、後世の葬式仏教を成り立たせる源流と考えることができる。

    これは末木文美士氏の講義を纏められた文なんですよね。ありがとうございます。わたしも末木氏の「日本仏教史」という文庫本を一冊持っています。大変分かりやすく纏められていて重宝しています。副題に「思想史としてのアプローチ」と添えられているのが嬉しい本です・・その副題のままが私の知りたいこと・興味の対象でしたので。

    密教が葬式仏教を成り立たせる一つの源流になるだろうということには、私も薄々そうではないかと感づいていたことです。
    以前はゴウさんという密教の行者さんがいらして、Ya!掲示板にもさかんに投稿しておりましたが、健在ならこのことについても教えてもらいたかったんですが・・どうも大病をなさったようで、今はそれがかないません。
    田秋さんからの詳しい講義の内容、楽しみにしております。(^^)

引用返信/返信 削除キー/
■19746 / inTopicNo.10)  Re[44]: おくりびと
□投稿者/ ディディモ -(2021/12/07(Tue) 22:46:48)
    あれ?新しいトピができていますけど、ここに投稿してよかったのかな?
引用返信/返信 削除キー/
■19745 / inTopicNo.11)  Re[43]: おくりびと
□投稿者/ ディディモ -(2021/12/07(Tue) 22:35:56)

    フローラさん今晩は。(^^)

    >宗教改革ですが、やはり教会と聖職者たちの腐敗があげられると思うのですが、時代を遡ればいつ頃から、こういう考え方が出てきたのでしょうか? それと、大変初歩的な質問で申し訳ないのですが、 聖書が読めない人々はどのようにして聖書の内容を知ったのでしょうか? 例えば読んで聞かされる場合、この時点で人間の説明が入ったりはしなかったのでしょうか?


    僕らが習った中高の教科書には、
    【ローマ教皇が免罪符(正しくは贖宥状)を乱発したので、ルターがこれは金銭で贖宥状を購入したことによって霊魂が贖えるという安易な教説で、これを腐敗と見咎め、宗教改革の運動を起こした・・】
    云々という主旨のことが書かれておりましたが、それは外面的なことだけのように思います。

    で、ご質問の・・そういう腐敗がいつ頃から始まったかといえば、ルターが宗教改革を起こす二百年も前(14世紀)から贖宥状は発行されており、また聖職を金で買うという禁止されていた筈の売官行為も横行し・・それになにより、教皇自身が独身の戒律を破って私生児をつくり、その子供を甥(neps)と呼んでひき立て昇進させたので、nepotism(ネポティズム・身びいき)という言葉ができるほどだったそうです。それほど聖職者の道徳的退廃はルター以前から猖獗を極めていたんですね。

    あ!間違えました。「いつ頃から」とお書きになっているので、「腐敗が」と早読み・誤読してしまって上記のように書きましたが、宗教改革の考え方そのものが「いつ頃から」であれば・・下記のとおりです。^^;

    ローマンカトリックを批判した者には、ルターの先駆者として・・英国のウィクリフ(1320年頃〜1384年)やチェコのフス1369年頃〜1415年)がおります。これはルターが1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだして宗教改革が始まったとされる時より、200年近くも前になります。
    ウィクリフは聖餐においての【化体説】を批判しました。これはカトリックの神学上、大問題です。(カトリックの唱える化体説では、パンとワインが実際にキリストの体と血に聖変化します。これに対しプロテスタントではパン・ワインは象徴説、あるいは両在説)
    またフスにいたっては贖宥状を批判し、聖書のみを信仰の根拠としましたから、これは明らかに宗教改革の先駆者といえるでしょうね。
    結局フスは異端とされ火刑に処されました。一方ウィクリフの死因は脳卒中だそうですが・・死んだ後、墓から掘り起こされ、その後に焼かれて川に捨てられたそうです。

    蛇足ですが、このウィクリフは以前フローラさんと聖書の英語への翻訳史の話題が出た時に、その嚆矢として彼の名前が出てきてレスを交わしたことがありましたね。記憶していますか?その時の私の投稿はUSBメモリーに保存しています。僕の記憶を頼りにいま探してみたら何と10年前の・・2011/ 6/12という日付がついていました。何なら貼り付けても良いですよ〜、懐かしい!(^^)

    戻って・・最初に贖宥状とか道徳的退廃のような外面的なことだけで宗教改革が起こったのではナイと述べたことを説明しますと・・
    その要因として最も重要な点であると考えたのは、前回に述べたAの「信仰のみ」に対するカト・プロ双方の異見ではなかったかと思っております。これは【信仰義認説】とも呼ばれ、プロテスタント各教派ではキモになる教説です。

    前に述べたようにカトリックでは、人間には自由意志がある・・従って人間はそれに依り善行をすることができる・・故にその善行に依って救いが得られる、という考え方になります。
    それに対し多くのプロテスタント各派では、アダムの堕罪(神の命に反し知恵の実を食ったこと・これが原罪)によって人は神に向かう自由意志を持たなくなったため、そもそも善行を行うことが出来ない、と説いています。これを煎じ詰めれば・・人間が自力で善行できると考えるのは原罪の否定ではないか、となります。

    ルターも、そもそもアウグスティヌス修道会の修道士でしたが、激しい罪の意識にさいなまれ、修道院で凄まじい修行・苦行を重ねています。しかしそれでも救いの確信は得られず、
    「もし、修行によって救済が得られるならば、私は必ず救済されるはずだ」
    との、究極までやり切った人間だけが言えるような言葉を残しています。(まぁ、最後には救済は神の恩恵によって一方的にくることを悟ったのですが・・)
    つまり、人間側の行動によって救済されると考えるのは傲慢なことなんですね、というのは「私はこういうことをしたから救済せよ」と、神に命令するに等しいからです。

    最後に「信仰義認」(信仰によって神は人を義とする)にかかわる聖句はロマ書に多くちりばめられていますが、その一つである3章27節だけ引用しておきましょう。

    【では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです】

    逆に「行為義認説」(善行によって神は人を義とする)の方は、ルターが「藁の書簡」と蔑んだヤコブ書の2章14節以下が有名です。

    【わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴なわければ、何の役に立つのでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。】

    平然と相反する聖句が並んでいる聖書とは、まことに面白い書物であります。!(^^)!


    > 聖書が読めない人々はどのようにして聖書の内容を知ったのでしょうか? 例えば読んで聞かされる場合、この時点で人間の説明が入ったりはしなかったのでしょうか?


    確かに中世ヨーロッパの民の識字率は10%以下とも、極端な説では2%以下とも囁かれるほどで、一般民衆ではとても聖書は読めなかったでしょうね。おまけに新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、これはカトリックの坊さん達でさえほとんど読めなかったそうです。まぁ余程の学僧なら読めたかもしれませんが・・せいぜい普通の坊さんはヒエロニムスが手掛けたラテン語(ウルガタ訳)で読んでいたのでしょう。どちらにしても民衆ではお手上げですね。

    その点、サラセン諸国では識字率が100%に近く、ギリシャ語を読める人もザラにいたそうです。その地ではギリシャ哲学やキリスト教神学の研究がさかんにされていて、あの欧州のルネッサンスはアラブから入ってきた学問の恩恵を受けてこそ成り立ったものだ、ということを何かの本で読んだことがあります。そのうえキリスト教でさえ「俺たちがヨーロッパ人に教えてやったのだ」という深層意識がアラブ人にはあって、現代まで続く欧米VSアラブの確執の素因になっているとの分析でした。いくら何でもそれは顛倒した見方じゃないのかな・・と、こっそり笑いながら読んだものですが、意外に賛同する研究者も多いようで、後には私もウンウンと頷きながら読んでしまいました。いや全く真面目な本でしたよ。(^^)

    とまれ、宗教改革によって聖書が各国語に翻訳されたことは、ヨーロッパ人にとって棚からボタモチ的な恩恵を授かりましたね。

    戻って・・読めない人がどのようにして聖書を知ったかというと・・やはり教会での説教じゃないでしょうかね。僕が経験したプロテスタント教会では礼拝日に牧師が新・旧訳聖書から少しづつ一節ほどを抜きとって連続説教していました。それを1年くらい続けるとマルコ伝ならそのかなりの部分をおさめることができ、その全体が分かってきます。それを何年も続けると、聖書全体が自然に自分のものとして把握できるようになります。カトリック教会にはほんの数回しか行ったことありませんが・・カトリックの礼拝ではプロテスタントよりも説教より儀式の方が長いようですが、それでも祭司の時々韻のこもった説教を聴くと、話の内容を理解することよりもそれ以前に・・不思議な霊力みたいなものを感じさせます。

    それと、キリスト教にとって芸術が必要だという理由の一つに、文盲の人にもキリスト教の色々な教説を画像や音によって分からせることができる、あるいは一種の絵解きとしてのキリスト教芸術(絵画)の効果・・ということもあって、その利点があることも指摘されます。このことも古代中世の一般民衆にとっては聖書の内容を理解する大きな手助けになったのではないかと思います。
    ただそのことは6世紀の終わりにローマ教皇大グレゴリウスがでてきて、その点を選奨して受け入れられたそうですが、実はこれにはモーセの十戒にある偶像崇拝の問題が絡むこともあり、キリスト教公認前後(4世紀初頭)には一時禁止されていたこともあるそうです。


    >3つのSolaはすべて受け身なのですね、私は最初の2つは主体が私たちにあるのだと想像しておりました。私たちを評価(正しい表現かどうかわかりませんが^^;)するのはGod Almightyだけ(Sola)ということなんですね?


    全くその通りです、なんせ神は全知全能ですから。
    人は陶工に造られた壺のようなものです・・主権は造った神(陶工)にあって、造られた人(壺)は文句が言えません。^^;。


    >>パウロは言っております。【正しいものはいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。・・善を行なう者はいない。ただの一人もいない】と。(ローマの信徒への手紙3−10以下)

    >「悟る者もなく」、この場合悟るとはどのようなことを意味しているのでしょうか?


    少なくとも仏教的な悟りという意味ではないと思います。
    これは訳語の問題でしょうが・・
    文語訳では【義人なし、一人だになし、聡(さと)き者なく、神を求むる者なし】と、その部分は「聡き者」となっております。誤解を除くためには文語訳の方が良いのではないかと思っています。
    ちなみに、特殊な聖書ではありますが、新世界訳という聖書ではその部分を「洞察力のある者はいない」となっています。


    >個人の自由意思はない、全体としての自由意思はある・・・・ 自分=全体=神と見た場合のみ自由意思はあるとうことなのかな〜? 禅的(?)には私(個人)ではなくわたし(全体)と見なした場合は自由意思はあるとか、そんか解釈を愚さん伺ったことがあるような気がします。


    これは私個人の意見ですが、キリスト教を語る場合、仏教思想は外して見た方が良いと思います。もちろん「行きつく先は同じですなぁ〜」としたり顔で言う御人もおりますし、偶然の一致がないとまでは言えません・・しかし土台の根本思想から違い過ぎると私は感じています。
    ずっと前に、論理学一つをとっても両者にはトマス・アクイナス以降の形式論理学と龍樹論理学との違いがあるとカキコしたことがあります。


    >ちょっと前に土葬か火葬か?天国に召される場合は火葬はまずいんじゃないかのようなことを伺いましたが、すべて神が決める場合は、そんな小手先の事はどうでもいいということにおそらくなるのでしょうね。どうなんでしょうか?


    これは前の投稿でフローラさんがおっしゃっていた「復活」の時、火葬ではまずいんじゃないかということですよね。う〜ん大問題ですね、これは。このことにレスするには必然的に「復活とは何か」論を語ることになり、今日の長文のさらに三倍はかかることは必定です・・ですので、お尋ねを忘れていた訳ではなかったんですが、前回は眠くなって跳ばしてしまいました。すみません。今日も疲れましたので一言にします。復活の形はゾンビではないということです。体の復活・肉の復活・霊の復活・魂の復活・霊の体の復活、これをそれぞれ原語と訳語で区別しながら復活論を語らねば到底語り尽くすことにはなりませんので。^^;
引用返信/返信 削除キー/
■19742 / inTopicNo.12)  明日のホームズ
□投稿者/ 田秋 -(2021/12/07(Tue) 21:59:21)
    こんばんは、floraさん

    明日のホームズは「マスグレーヴ家の儀式」です。楽しみ〜
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