| ディディモさん、フローラさん、横レス失礼します。
> >1.教学と儀式と伺い、私はプロテスタントとカソリックのような感じを受けました。あくまでもバイブルによる普及と、教会中心(その中には華麗な儀式を含む)を連想してしまいました。類例には遠いですか? >
> で、カトリックにプロテスト(抗)した当時の宗教改革者たちが、具体的にカトリックの何に抗したかというと、@〜Bです。 > > @カトリックの「聖書と聖伝」に対して、プロテスタントの「聖書のみ」という形で抗したのです。 > > 聖伝とはイエスに遣わされた使徒たちに依るとされる「使徒伝承」と、教会での【典礼】をも含む「諸伝承」のことです。これがカトリックには加わっているんですね。その典礼にはフローラさん仰る >教会中心(その中には華麗な儀式)< という言説が含まれます。したがって救済の条件に聖書だけでなく聖伝が加わることによって【典礼】つまり儀式には効力があるとされます。その儀式はカトリックでは七つのサクラメント(秘跡)と位置づけされます。それに対してプロテスタントではこれを礼典と呼び、聖書由来が明確である洗礼と聖餐の二つだけです。そしてその意味付けは概ね神の恵みをあらわす徴とされます。象徴論ではカトリックのように効果は計られませんよね。ですからプロテスタントでは礼典(儀式)に与ったとしても、そのことに依って救われた・とは > ということで、カトリックとプロテスタントには同じキリスト教と言っても少なからず違いがあり、教学と儀式をプロテスタントとカトリックに対比させてみたフローラさんの直感は、あながち的を外してはいないと思いますよ。(^^)
華麗な儀式中心のカトリックと、その種を否定するプロテスタントという対比ですが、実はその奥にもっと重要な立場の違いがあると思います。それは、ミサに二千年前のキリストと寸分の違いもなく同一の存在が「そこにいる」と信じるかどうか。この一点ですね。正確にいうとそれは儀式ではないんです。キリストが本当にそこにいるなら、この世の、いかなるものより心のこもった儀式にするというのは、「そこにいる」ことの効果に過ぎません。普通の人ならそんなバカな、トンデモだと敬遠しても当然ですが。
カトリックとプロテスタントをめぐる様々な対立は、この一点から派生するといっていい。もっとも、二千年前のキリストを信じることにおいては、カトリックとプロテスタント、なんの違いもありません。新約聖書もまったく同じです。
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