| > 全然、そんなことはなかったのですが、ヴァージョンTにせよUにせよ「〈仏教3.0〉を哲学する」で〈私〉を理解しようとするには無理があると思います。 > あの書籍は〈私〉に関してある程度の共通認識を前提としたものになっているので、余計に分かりにくいと思います。
そうですよね。藤田さんでさえ、あのやりとりの中だけかもしれないけど、すぐには把握しきれなかったところがあるようでしたし。
でも。今はなんかとりあえず、〈私〉についての永井さんの本を買って読んでみたい、という気が起きないんです。 このところ本立て続けに買ったというのもあり。 買ってもわからなそうだし。 なので、ロムしてわかればラッキーみたいな。 >>私は特に山下さん支持ということでもなく、著書を読んだということなぐらいなんですね。 > > あ、そうですか。それは少し安心しました。私の返信は、ちょっと山下さんのことを批判的に書き過ぎたかな、と思ってましたので。^^
ぜんぜんですよ〜。
>>一方、永井さんについてはまったく歯が立たない。。。 >>しかし、あの、あとがきの永井さんの文章も、私が考えずにはいられない内容ではありましたし。(そうそう、そんなんだよね、と。) > > 散会したのでスルーでも結構なんですが、もしよければ永井さんのあとがきで、どの辺が「そうそう、そんなんだよね」と思われたか教えてもらえれば有難いです。
具体的には、トピに引用した部分ですよ。 質疑応答に答えたものなそうです。 (p281)
@心理的事実にすぎないのか。
A実はもともと、ある主体(永井さんは、〈私〉としている。)だけが、この世界の外からこの世界を観察しそこに影響を与えうる存在で、それは瞑想を通じてわかることなのか。
私はAなんじゃないかとは思ってるんですが、@でも実は構わないんです。 でも、@だとつまらない気はするかな。 そんなところです。
なぜAじゃないかな、と思うかといいますと。 この世が幻影であろうとも、幻影を成立させめための目には見えない装置的なものは必要だろう、ということです。 それが主体であり、実はそれしかない。 そのことに気づくと、幻影である人が娑婆世間を見る目も変化する。
実際、世界が映画みたいに感じられるというか、昔もこんなだったっけ?的な感覚はあるんですよね。 でも、命は大切にしたいし、他者に対してもそうしたいという思いは、もちろんあります。
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