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■1329 / inTopicNo.13)  『第一部門 超越論的な感性論』
  
□投稿者/ pipit -(2019/06/11(Tue) 23:57:48)
    中山先生訳本読むぞ!と寝転がって、、、めっちゃ寝てしまってました、、、
    睡眠薬、、、

    中山元先生訳本、1、p69〜71

    感性論のとこ読みます

    対象が心を触発して、対象の像を受け取る。
    この受け取る能力を、感性と呼ぶ。

    感性を介して対象が与えられ、感性だけが直観をもたらす。

    感覚を通じて対象にかかわる直観は、経験的な直観と呼ばれる。

    経験的な直観の未規定な対象は、現象と呼ばれる。

    ↓英訳本引用(第一部 超越論的な原理論、第一部門 超越論的な感性論)
    I. TRANSCENDENTAL DOCTRINE OF ELEMENTS.
    FIRST PART. TRANSCENDENTAL AESTHETIC.

    (略)

    The capacity for receiving representations (receptivity) through the mode in which we are affected by objects, objects, is called sensibility.

    By means of sensibility, therefore, objects are given to us, and it alone furnishes us with intuitions;
    (略)

    That sort of intuition which relates to an object by means of sensation is called an empirical intuition.
    (略)
    The undetermined object of an empirical intuition is called phenomenon.






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■1330 / inTopicNo.14)  日記的感想
□投稿者/ pipit -(2019/06/12(Wed) 00:33:52)
    (感想)

    私の心のなかにある言葉で言えば、

    感受、かな。

    感受で出来た像を私は知る。
    像が客観的なものかはわからないけど、
    像を知ること自体は確かで、その確かなことを
    直観と言ってるのかなと思いました。

    、、、今の時点で考えてること書いてみます。
    本見ずに確認せずに自分の心の中にある意見を書きます。

    わたしたちが対象を知る形式が
    外的なものに対しては空間であり
    内的なのに対しては時間である。

    そしてこの空間と時間はアプリオリ(経験に先んじた)
    像である。

    現象、は、知覚などの経験とともにはじまる。
    が、現象がたちあがるとき、そこにアプリオリな空間と時間
    という像も存している。

    アプリオリな像がないと、今ある知覚という経験は今ある形では成り立たない。

    カントは数学の根拠もこのアプリオリな空間だといってるみたい。
    例えば厳密なポイントって書けないっていいません?面積もっちゃう、みたいな。
    カントはノートに作図しても、その作図を通してこのアプリオリな空間に描いてる
    っていってるのかな、って。
    だから、数学は経験を根拠にした帰納的な不確かな学ではなく、アプリオリな像を根拠とした客観的学問となるのかな、って。

    人間にアプリオリな像を根拠にするから、公的なものとして使える。
    机上の計算が、宇宙での物理行動にフィットする。

    時間もね、私にとってはおもしろい考え方頭に入ってきたけど、
    カントの考え方とかさなってるかなー
    自信ないなー

    今日はもう寝ますね

    おやすみなさい






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■1331 / inTopicNo.15)  Re[13]: 日記的感想
□投稿者/ pipit -(2019/06/12(Wed) 01:05:01)
    ちょっと思いついたので日記つけたし

    世界は数学で出来ている、って言葉が世にある気がするけど、

    カント的にいえば

    世界(現象)も数学も根拠が同じもの(空間と時間?)で出来ている、
    かなー?

    全然違ったらすみません
引用返信/返信 削除キー/
■1334 / inTopicNo.16)  認識を構成するエレメント(要素)
□投稿者/ pipit -(2019/06/12(Wed) 22:57:01)

    『純粋理性批判』は、原理論と方法論に大別されます。
    原理論は、
    TRANSCENDENTAL DOCTRINE OF ELEMENTS.
    と訳されてます。

    ELEMENTS(要素)、日本語でもエレメントって使いますよね。

    『純粋理性批判』においては、何のエレメントかというと、

    私たちの一切の(客観的妥当性のある)認識のELEMENTS(要素)みたいです。

    中山元訳本、2、p18に、
    『このように直観と概念が、わたしたちのすべての認識を構成する要素である。』
    という文言があります。

    該当部分の英訳は、
    Intuition and conceptions constitute, therefore, the elements of all our knowledge, so that neither conceptions without an intuition in some way corresponding to them, nor intuition without conceptions, can afford us a cognition.
    〈直観と概念は私たちのすべての認識(knowledge)の要素を構成するのであり、直観を持たない概念も、概念を持たない直観も、認識になれない。〉

    というわけで、この第一部門の原理論に、認識の二大要素(エレメント)の
    感性論〈直観〉と悟性論〈概念〉がおさめられてるのですね。

    で、

    今はその感性論を読み始めてて、感性の形式には、空間(外的な直観の形式)と時間(内的な直観の形式)がある、ということで、、、とりあえず空間のとこ書いてます。

    外的なもの認識するの、一般的には空間認識しますよね?
    少なくとも、私は、感受するものが位置を持ってます。
    位置を持つ、その土台、が、アプリオリな像としての空間だとカントは言ってる、と、今の所理解してます。

    アプリオリ、だから、人間なら、みんな共通としての空間の像を備えてる、ということかな、と。

    その共通の像に、各人が、個人的経験的アプリオリ的に、感受したものをそれぞれ固有的な座に表象させてるかと。

    人間自体が個体で空間的に位置もってますからね、見る位置からの角度が変わりますからね、表象される座標もかわりますよね。

    現象させるための空間という像(形式)はアプリオリで、
    現象の素材はアポステリオリ。


    カントの考え方が無理筋かどうかはさておき、とても面白い考え方だなー、と、感心します。
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■1338 / inTopicNo.17)  純粋理性批判におけるアプリオリの定義
□投稿者/ pipit -(2019/06/13(Thu) 22:56:04)
    アプリオリの定義について

    カントは序論で、本書におけるアプリオリとは、すべての経験から絶対的に独立している認識のことと理解してほしい、と定義しています。(中山元訳、1、p19)

    該当部分英訳
    By the term "knowledge a priori," therefore, we shall in the sequel understand, not such as is independent of this or that kind of experience, but such as is absolutely so of all experience.
    〈アプリオリな認識とは、単なる個々の経験から独立している認識と解するのではなく、全ての経験から絶対的に独立している認識と理解していただきたい。〉

    ということなのですが、

    『カント入門』という新書のp111〜113で、著者の石川文康先生は、
    世間ではよく誤解されているが、「純粋理性批判」におけるアプリオリとは、生得的という意味ではない、と注意喚起されています。
    (経験から)獲得的⇔生得的
    これが一般的な対語だが、カントはこの従来の二分法を超えて、第三項として「根源的獲得」という領域を切り開く、とされてます。

    部分引用します。
    『それに対してカントが第三項として導入した自然法用語「根源的獲得」は、一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念である。
    したがって神からも経験(先なる根源)からも派生しない概念である。
    それは知性がその自己活動によって知性自身から獲得したという意味である。
    そしてその意味で、カテゴリーは知性自身にその根源をもつ概念である。』(p113より引用)


    『たしかにカント以前、とくにライプニッツにおいては、「アプリオリ」と「生得的」とはほぼ同義であった。しかしカントの場合、「アプリオリ」とは「経験に先立つ」すなわち「経験に由来しない」という意味を出ない。その目印は「普遍妥当性」と「必然性」をもつことである。』(石川文康先生『カント入門』p111より引用)

    (感想)
    でもぉ、知性能力(使ってないにしても)は生得的なんじゃないかなー、と、思いました。
    が、
    そうかぁ、アプリオリに生得的という意味持たせちゃうと、アプリオリな認識と言った時、どうしても背後に神様がちらついちゃうから、純粋理性批判的には、先験的という意味の方が都合よかったのかな
    人間回帰って言葉が浮かぶけど、間違った言葉使いやったらすみません。



    いろんな生命さん、今日も一日おつかれさまです!

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■1345 / inTopicNo.18)  時間についてに入る前に思うこと(長文)
□投稿者/ pipit -(2019/06/14(Fri) 22:50:09)
    まず自分の時間についての認識を考えてみて、

    次に、諸先生方の解説読んで、

    最後に、カントの本文読んでみようと思います。

    カントは、認識は自分の手元にあるんだから、なぜそうなってるのかはわからなくても、どうなってるのかは、自分の認識みたらわかるんやで〜(超意訳)って言ってた気します。

    だから、不十分なことは承知で、自分で自分の認識みてみることチャレンジしたいです。


    まず思ったことは、認識論としての変化は、記憶がないと変化という認識できないんじゃないか、と思いました。

    変化、を、考えたとき、時間、があらわれる気がしました。

    だけど、変化の構成要素の一つの記憶は、内容は過去だけどその内観対象そのものは、ただ対象としてあるだけです。

    内容に対して、時間的な規定をして、変化が生まれる気がしました。

    これは、カントの考え方に沿ったときの空間認識と同じシステムだと思いました。

    現象がある座を占める。
    現象としての外的対象物(≠物自体)が空間像のある座を占める。空間認知
    現象としての内観対象物(≠物自体)が時間像のある座を占める。時間認知


    あとカントは理屈として、
    pipitが生まれる。
    pipitが死ぬ。
    同じ主語に対して矛盾の述語が成り立つには時間によるしかない、と、書いてたような。
    でも、違うかもだから、なるべくちゃんと読んでいきます。

    カント哲学における、現象の形式である空間と時間は、
    経験的実在かつ超越論的観念である、と、されてるかと思いますが、

    あ、そうだ、

    時間のテンポに関して、、、

    これは私見なのですが、

    外的対象の変化が時間になるとすると、(ここらへん、外的対象と時間が相互的関係に解説されてるみたいです。解説引用していくつもりです)

    もし物質が刹那生滅してたら、それがテンポになって、共通の時間規定にならないかな、って。

    それで、昔のコンピュータって、信号を取ってカウントして時計時間に足して時間表示してたって記事をネットで読んで、
    コンピュータも仕事しすぎてたら信号とりそこなう時があって、そしたら表示も狂ってたんですって。
    人間も熱中してたら、生滅のテンポ信号とりそこなって、時計表示より体感時間がずっと前(信号が上乗せカウントされてない)ってこともあるかも、なんてことその記事からインスパイアされて思いました。

    おもしろいなー




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■1358 / inTopicNo.19)  思うこと
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 16:25:49)
    赤ちゃんってどんな世界みてるんかなー

    自分が赤ちゃんのときに、どんな表象してたんかなー

    ちゃんと遠近法で表現されてた?

    1.という概念で、みてた ?

    いっぱい、って、概念、でみてた ?

    残念ながら、覚えてないですね

    覚えては人いるのかなー

    わたしの一番古い記憶は、、、もう、物語性のある世界です。

    わたしの子供が生まれて1年以内のとき、仰向けに寝てて、自分の手を上にあげて、
    自分の眼に対してヒラヒラ裏表に変化させながら、じーっと見てたことがありました。

    どんな世界見てたんかなー

    もう本人は覚えてないやろうなー

    人の認識は、、、

    わたしは、わたしの認識しか、一生みること叶わずなんかなー

    わたし問題、の一種なんかな〜?

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■1359 / inTopicNo.20)  今日見たもの
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 17:19:45)
    『入門書の最高峰』という本の帯を見ました。

    なんか、カテゴライズ的に、おもしろかったです。
引用返信/返信 削除キー/
■1360 / inTopicNo.21)  中山元先生の解説
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 18:50:19)
    >自分の時間についての認識を考えてみて、
    次に、諸先生方の解説読んで、
    最後に、カントの本文読んでみようと思います。<


    中山元先生の解説を抜粋引用しますm(_ _)m
    カントの文章ではなく、中山元先生の文章です。

    『(略)空間は知覚に必ず必要な条件なのである。(略)
    時間も同じく必然的なものである。同じように還元を施して
    みよう。何か仕事に没頭していると、あとで思わぬ時間が経っている
    ことにきづくことがある。(略)
    その仕事をしなかったならば、(略)、あるいは別のことをした時間が
    経過しているはずだ。
    だからその時間が主観的にどれほど短く感じられようとも、
    誰もが一つの客観的な時間の流れで生きているのだ。
    そこから個々の出来事の時間を取りのぞくことができるとしても、
    「時間そのものは(現象を可能にする一般的な条件として)、
    取りのぞくことは、できない」(055)のである。

    (略)

    空間の第三の解明と時間の第三の解明で考察されるのは、
    空間と時間の「唯一性」である。

    (続く)』

    一旦中山元先生の文章の引用はここまでで終わります。
    また後ほど続きを引用していきますm(_ _)m

    引用本
    『純粋理性批判1』
    カント、中山元訳、
    光文社古典新訳文庫
    p356〜357より、抜粋引用
引用返信/返信 削除キー/
■1361 / inTopicNo.22)  中山元先生の解説続き
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 23:23:07)
    中山元先生の解説文章の引用の続きです。

    『空間の第三の解明と時間の第三の解明で考察されるのは、
    空間と時間の「唯一性」である。
    もちろん空間はさまざまな場所に分割できるのであり、
    それぞれの場所は個人にとって意味の異なるものである。
    しかしさまざまな部分的な空間を合成して、一つの全体の
    空間が考えられるのではない。
    「部分的な空間は、単一の空間の内部でしか考えることが
    できないものなのである。」(043)
    (略)
    同じことは時間についても語ることができる。
    古代のギリシアのヘラクレイトスは、夢見るときのように自分だけの
    時間に籠るものは、大きな共同性から外れてしまうと語ったことがある。
    誰もが自分だけの時間の流れのうちに生きているが、
    それが時間として意味をもちうるのは、
    他者とのあいだで共有した大きな一つの時間のうちの一部であり、
    他者もまた私的な時間を生きながら、この大きな時間のうちで
    暮らしているからなのである。

    この空間と時間の唯一性は、(略)空間と時間が人間が知覚するために必要な
    アプリオリな形式的な条件であることによっても生まれる。
    カントはこのことを空間と時間が「純粋な直観」(同)である
    という言葉で表現する。

    (略)ぼくたちは誰もが何かを知覚するときに、空間と時間という形式に依拠するのであり、その形式は、すべての人に共通なものとして普遍的なものである。
    その普遍性から、人々が生きる空間と時間性の唯一性が結論されるのである。
    (略)

    それが「直観」と表現されるのは、概念は複数のものに適用されるが、
    直観は唯一のものだからである。
    ある論者が指摘しているように、「直観は多数なものが統一されていることを示し、
    概念は多数のうちに統一されたものが含まれていることを示すからである。」。

    (続く)



    (同本p356〜358より中山元先生の解説を抜粋引用)

    また明日以降に解説の続きを引用します。

    おつかれさまです・おやすみなさい

引用返信/返信 削除キー/
■1364 / inTopicNo.23)  今日見たもの
□投稿者/ pipit -(2019/06/17(Mon) 17:57:42)
    軽自動車サイズのタイヤの自転車で走るおじさま。
引用返信/返信 削除キー/
■1366 / inTopicNo.24)  中山元先生の解説続き
□投稿者/ pipit -(2019/06/18(Tue) 00:00:43)
    中山元先生の解説文章を抜粋引用します。

    『(略)
    カントは時間の超越論的な解明においては、時間が経験を可能にすると同時に、
    物理学を可能にするという意味で、二つの超越論的な条件を備えていることを指摘するのである。
    (略)
    カントがここで問題とする空間は、測量が可能な開かれた公的な空間であり、時間は、物理学的な測定が可能な一次元の公的な時間なのである。
    (略)
    すべての人間に共通の認識の条件を考察しようとするこの書物では、すべての認識が成立するための一つの公的な空間と時間に焦点を合わせる必要があったのである。

    (略)

    カントはこの時間と空間には、客観的な実在性だけでなく、「超越論的な観念性」がそなわっていると主張する。
    それが「観念的」であるというのは、これは物自体にそなわるものではなく、人間が物自体を現象として認識するために必要な「主観的な条件」にすぎないからである。
    (略)
    またそれが「超越論的な」ものであるのは、(略)、経験に先立って存在し、経験を可能にするアプリオリなものだからである。
    そしてこのアプリオリな性格のために、すべての人間が共通の事物を認識し、共通の法則について同意することができる。
    数学も自然科学も、この空間と時間のアプリオリ性に依拠していることは、「超越論的な解明」で明らかにされたとおりである。
    (続く)』

    同本p364〜369の中山元先生の解説からの引用でした。

    今日はここでおわります。
    このあと、おもしろそうなところです。

    外の世界がないと、内の変化がおこらないし、自己認識もできないけど、
    時間という内的な直観の形式によらなければ外部の対象の認識ができない。
    『純粋理性批判』における、奇妙な循環であり、逆説である。
    カントが考え出したのは、、、
    ここらへん、私は未勉強ですが、カントの自我論につながっていきそうですね。
    中山先生は、逆説は解決されてない、とみてるかんじかなー
    ちょっとだけ先に引用
    『時間と変化の問題は考えてゆけばゆくほどに深まる謎として、本書で繰り返し提起される。ハイデガーが語るように、本書は時間と存在についての書物だと考えることもできるほどである。』(p375)

    おつかれさまです!

    おやすみなさいー

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