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■37185 / inTopicNo.61)  Re[4]: つれづれなるままに 14
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/26(Fri) 21:21:36)
    〈考知性〉に価値を持ってる人は〈感知性〉には志向しないのかも?
    たとえそれに志向したとしても、マジで知ろうとはしないのかも?
    どうしてか、っていうと、自分の〈考知性〉への価値がカオスになるって、無意識的に”感じてる”からかも?

    こんなことすら思い出せない知性の持ち主となって生きる人たちの知識は、プアーとしか言いようがないかも?

    ん〜ん、典型的な例としては、日本の国会議員ちゃんたちや、そのフンのマスちゃんたちなかな?

    こんな無能な人たちによって「この私」の生の在り方を決められるのは、な〜んか、不快。

    日本国では自殺者が多いみたいだけど、なんか分かる気がする。
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■37183 / inTopicNo.62)  Re[3]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/26(Fri) 19:15:42)
    No37151のつづき、
    わたしがわかんなかった、フッサールの言う「モナド」ね。これってライプニッツが使ってたみたいで、前にネットでいろいろ見たんだけどよく分かんなかったんだけど、

    No37109の(4)に、
    フッサールの「モナド」概念、ってあって、その中から簡単に書き出して見ると、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ・@フッサールによれば、「モナド」とは「全き具体化において受け取られたエゴ」(Hua T,102)、「具体的で純粋な主観性」(Hua\,216)である。つまり「モナド」とは、最も具体的な自我を表す概念である。「具体的」とはどういうことか。それは「繋がりのあったものを抽象的に切り取ることはしない」ということである。
    ・Aフッサールは「主観的」と呼ばれる経験が、そのまま「客観的」と呼ばれる「対象そのもの」と地続きであると、考えている。
    ・Bそこで「モナド」という語は、ある種の媒介的な相関そのものを言い表す語として用いられている。主体的な働きだけでなもなく、対象的な収斂点だけでもなく、それらが不可分に媒介し合う相関の出来事そのものが、「モナド」と呼ばれるのである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。(4)からはここんとこだけ抽出。

    「媒介」って言うのをネットで調べてら、実用日本語表現辞典に
    〔媒介(ばいかい)とは、二つ以上の事物や現象が互いに関連付けられるための中間的な存在を指す言葉である。〕
    ってあった。

    簡単に見て、
    フッサールの言う「モナド」っていうの、〈具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする場〉、ってひとまず見ることにした。
    この〈場〉っていうのは意識のなかにあるもののことを言ってるんだとわたし見てるから、〈領域〉とか〈領分〉って言ってもいいかな。

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■37157 / inTopicNo.63)  Re[2]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 19:34:01)
    きょうは切りのいいところまで書いとこっと。

    いま、フッサールが使う用語とその意味を分かろうとしてるところ(もっとも日訳ので、だけど)。
    哲学者によってその用語の使い方(意味)が異なってる感じしてるから。

    No37154、カントの、なんか、めんどくさそう(pipitさまやうましかさんが“沼”って言ってるの、なんかわかるわ〜)なんだけど、
    カントの用語を簡単に見ちゃうと、
    ・@「純粋」≒「経験的ではない」≒「アプリオリ」
    ・A「経験的なもの」≒「アポステリオリ」
    ・B「超越論的」=「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体にかかわること。
    こういう感じになるかな。

    こういうのをふまえて、フッサールのを見て見た。

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中に、
    (a)『すべての推論の過程には必然的に、純粋な我に内在的で「生まれつき備わっている」原理を手引きにして行われることになる。』(p21)
    ってあって、この「生まれつき備わっている」っていうのを「アプリオリ」ってして、わたし見た。
    「誰かに教わったわけじゃないのに自然と」みたいな?
    ほら、1歳ぐらいになると、“自然と”立てるようになるじゃん、これって誰かに立ち方を教わったわけじゃないのに。
    こんな感じの。
    でね、
    フッサールの、
    ・C「超越論的」=「純粋」=「アプリオリ」=「経験的ではない」=「生まれつき備わっている」
    ってして見した。
    中島さんが言うような、カントのBのような「超越論的」の意味じゃなくて。

    フッサールの言う「超越論的」っていうのはこんな感じので使ってる、って見とくことにした。

    あと、(a)に、「推論」ってあるけど、これ、〈考知性(思考)〉の領域で行われてること、ってわたし見てる。
    No15221の(FD-7)あるような、
    【それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。…】
    みたいなのから。

    Cのような、「生まれつき備わっている」ものを見ようとするとき、
    No27553にあるような、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】にあった、
    【言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてその沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるだろう。】(p305)
    っていう、「幼少の頃に遡ってそのうちで(外からじゃなくて)見る」のが現象学的還元っていう方法なのかも。

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■37155 / inTopicNo.64)  Re[1]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/20(Sat) 18:01:06)
    パニさん、ありがとございま〜す。

    わたしまだお喋りしたいことあるみたいなので、またここ使わせてもらいま〜す。
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■37111 / inTopicNo.65)  つれづれなるままに 14
□投稿者/ パニチェ -(2024/04/13(Sat) 21:32:50)
    トピ主:悪魔ちゃん



    引き続きよろしくお願いします
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