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■36917 / inTopicNo.49)  Re[2]: 超越論的分析論\−6
  
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 08:44:13)
    うましかさん、こんにちはー(^∇^)

    No36908
    > あーもうすぐ四月か! (;゚Д゚)(゚Д゚; )<

    もうすぐ うまさんとしかさんの日ですね!
    ちょうど桜の開花と重なるかなー??

    > ◇ 私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。<

    認識の段階で、知覚から普遍的概念へと高まろうとする....
    この道順はロックさんの主張と重なるところがある、と....


    > ◇ しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。<

    でもアプリオリな概念の演繹は、知覚→普遍的概念 への道には含まれていない。


    > ◇というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。<

    アプリオリ → 純粋概念

    にも関わらず、経験からの産出の証明(血統書) も 私たちの生と関わる『学』に純粋概念も使用するつもりなら 提出義務がある。


    > ◇ このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕*1≠フ説明と呼ぼうと思う。<

    なるほどー
    違うかもだけど、、、、

    生理学的導出の試みが、論理学の判断表から純粋悟性概念を導出することなのかな、と思いました。


    > *1 「私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。」〔 No.36646 より引用。〕
    >
    > ◇ 従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、
    > また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。<

    カントは、判断表からアプリオリなカテゴリーを導出して、
    >所有〔Besitzes〕<の説明
    をなしたあと、
    次は
    >この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕<
    にとりかかる、と....

    うましかさんのおかげで、カントの記述に向き合うことができます。
    大感謝です!

引用返信/返信 削除キー/
■36908 / inTopicNo.50)  超越論的分析論\−6
□投稿者/ うましか -(2024/03/24(Sun) 21:56:20)
    2024/03/24(Sun) 21:57:15 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    お久しぶりになってしまいました〜(;´・ω・)

    あーもうすぐ四月か! (;゚Д゚)(゚Д゚; )

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的な演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。
    それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。

    *1 概念@ 感性の形式:空間と時間 −ア・プリオリな連関− 対象 → 表象
    概念A 悟性の概念:カテゴリー  −ア・プリオリな連関− 対象 → 表象

    ◇しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識についてと同様、それらの可能性の原理を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。
    この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける、或る種の形式≠ニを含んでいる。こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質〔質料〕を機会として、まず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。

    ―― No.36646,36657 の続き ---

    ◇ 私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。

    ◇ しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。

    ◇というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。

    ◇ このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕*1≠フ説明と呼ぼうと思う。

    *1 「私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。」〔 No.36646 より引用。〕

    ◇ 従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、
    また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。


    † 原佑訳上巻、p.237〜p.238参照。 原典はMeiner, p.166〜p.167
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.95〜p.96、石川文康 訳 上巻,p.146〜p.147
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908

引用返信/返信 削除キー/
■36891 / inTopicNo.51)  日記・包摂について2
□投稿者/ pipit -(2024/03/23(Sat) 20:13:54)
    次に、純粋悟性概念への包摂のpipitイメージもイラスト化してみました。
    カント的には 感性的現象 と 純粋悟性概念(現象から作られた概念ではなく、知性にのみ由来している概念) は別種なのに、なぜ包摂が可能なのか・・・それは図式が仲介してるから・・
    ということかなと考えています。

    勉強続けてみます(´;ω;`)ウゥゥ


657×355 => 600×324

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引用返信/返信 削除キー/
■36890 / inTopicNo.52)  日記・包摂について1
□投稿者/ pipit -(2024/03/23(Sat) 20:13:03)
    みなさまこんばんは。『図式論』ゆっくりでも進もうと思います。
    概念の包摂についてイラスト化してみました。(いらすとやさんの素材を使用。)

    経験から作られる経験的概念・・・例えば『おにぎり』。
    経験的直観→→→『おにぎり』という概念が生成されたとき、
    →→に含まれる【条件】に各対象が当てはまるかを判断して、個別対象の概念への包摂が行われる。

    wikiよりその【条件】を抜粋してみると、
    『おにぎりまたは、おむすび、握り飯(にぎりめし)は、ご飯を三角、俵、円柱形などに成形し、海苔でつつんだ日本の食べ物。』
    とのこと。
    まず『おにぎり』概念への包摂のpipitイメージをイラスト化してみました。
    この条件は、元々現象から概念が形成される際の条件を抽象(?)したものなので、条件が対象に含まれているか否かを判断することで包摂も可能になるということかなと思いました。


920×605 => 600×394

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■36889 / inTopicNo.53)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/23(Sat) 18:14:20)
    2024/03/23(Sat) 18:18:47 編集(投稿者)

    おくたがわさん、こんにちはー
    図式論がpipitの予想よりも超難解そうで、絶望感で倒れていたのですが、おくたがわさんの書き込み読んで元気でましたよー
    p(^_^)q

    No36885
    > こんにちは。前の部分になります、すいません。<

    1年前の返信でも嬉しいですので全くお気になさらずに♪

    >>(訳文)
    >>『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』
    >>(『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p29.30より引用)
    >>
    >>(訳注)
    >>『ここで思考と直観の関係がずれているようにみえるので、ファイヒンガーは「円の純粋で幾何学的な概念において思考されている〈丸さ〉が、皿という経験的な概念において直観されている」と読み替える。多くの邦訳も同じように読むが、あえて訂正する必要はあるまい。』
    >>(同本p318より引用)
    >
    > 面白いですね。
    > 原佑訳はファイヒンガー流、天野と石川康は原文のままでした。
    > 中山元さんのコメントは『カントの文章をそんなに厳密に考えても仕方あるまい』という投げやりを感じました(うそうそ)<

    カントは(私にとっては)ほんとに不思議な人間です。
    捉えどころがないというか、、、また適当なんだからーと思いつつも、いや、まて、もしかして、、、と複数の可能性が頭に浮かぶことも多いです。

    > 追記
    > Xの永井さんの投稿
    >
    > 永井均@hitoshinagai1 2023年3月24日
    > 『ものを書いているとき、わかりやすさと誤解の余地のなさとの選択で、ついつい妥協してわかりやすさを選びたくなってしまうことがあるが、カントを読んでいると一箇所もそういうところがなく、つねに必ず誤解の余地のなさを選択しているのがわかる。これは見倣うべき態度といわざるをえない。
    >
    > だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまいと思う。しかし、これまたさらにだれも言わないことだけれど、概して哲学者は文章が極限的にといえるほどにうまいのではないかと思う。ひたりつくに値する文章が書ける人をほかにはあまり見ない。
    >
    > 話はむしろ逆で、極限的にうまく書かないとけっして通じないようなことを言おうとしているから、ということであろうけれど。つまり、ひたりついて読んでもらわないと読みとれないようなことを書かざるをえない人をほかにはあまり見ない、ということ。』
    >
    > ******
    > だって。すいませんすいません。
    > しかし
    > 『だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまい』
    > 永井さん以外誰も言わないことなんだからしょうがないよね。<

    引用ありがとうございます!
    webで公開中の永井先生の『純粋理性批判を掘り崩す』を読もうとチャレンジしても文章や文意が複雑で、すぐにわからなくなって、、、(ちなみに悪魔ちゃんの文章も難しくて意味を追えなくて、、、)

    永井先生みたいに物事を厳密に考える人は、カントの文章に『上手さ』を見れるのかなぁ!?
    Σ(・□・;)オドロキー

    まぁ、ひいきめがねで、「なんか美しいなー」とカントの文章が思える時はあるんですけど、、、
    はい、度数強めですね!


引用返信/返信 削除キー/
■36885 / inTopicNo.54)  Re[8]: 皿
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/23(Sat) 11:49:44)
    2024/03/23(Sat) 12:08:41 編集(投稿者)

    No36815に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。前の部分になります、すいません。
    > (訳文)
    > 『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』
    > (『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p29.30より引用)
    >
    > (訳注)
    > 『ここで思考と直観の関係がずれているようにみえるので、ファイヒンガーは「円の純粋で幾何学的な概念において思考されている〈丸さ〉が、皿という経験的な概念において直観されている」と読み替える。多くの邦訳も同じように読むが、あえて訂正する必要はあるまい。』
    > (同本p318より引用)

    面白いですね。
    原佑訳はファイヒンガー流、天野と石川康は原文のままでした。
    中山元さんのコメントは『カントの文章をそんなに厳密に考えても仕方あるまい』という投げやりを感じました(うそうそ)

    追記
    Xの永井さんの投稿

    永井均@hitoshinagai1 2023年3月24日
    『ものを書いているとき、わかりやすさと誤解の余地のなさとの選択で、ついつい妥協してわかりやすさを選びたくなってしまうことがあるが、カントを読んでいると一箇所もそういうところがなく、つねに必ず誤解の余地のなさを選択しているのがわかる。これは見倣うべき態度といわざるをえない。

    だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまいと思う。しかし、これまたさらにだれも言わないことだけれど、概して哲学者は文章が極限的にといえるほどにうまいのではないかと思う。ひたりつくに値する文章が書ける人をほかにはあまり見ない。

    話はむしろ逆で、極限的にうまく書かないとけっして通じないようなことを言おうとしているから、ということであろうけれど。つまり、ひたりついて読んでもらわないと読みとれないようなことを書かざるをえない人をほかにはあまり見ない、ということ。』

    ******
    だって。すいませんすいません。
    しかし
    『だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまい』
    永井さん以外誰も言わないことなんだからしょうがないよね。

引用返信/返信 削除キー/
■36882 / inTopicNo.55)  Re[7]: 日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/22(Fri) 21:08:07)
    そういえば、時間規定、で、規定というからには時間への能動性がある雰囲気ですが、、、

    この図式論では、『私は、直観の覚知において時間そのものを産出する』(A143/B182)などと述べられているそうです。





引用返信/返信 削除キー/
■36881 / inTopicNo.56)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/22(Fri) 20:28:59)
    いろんな解説書をパラパラとめくりまして、図式論の難しさ煩雑さに絶望的な気持ちが湧いてますが、、、

    とりあえず、行き先の目安に、道の先取りを、、、

    カントの文章の御子柴善之先生の訳です。
    『したがって、図式は、規則に従ったア・プリオリな時間規定に他ならない。そして、カテゴリーの順序に従って記すなら、図式は、一切の可能な対象にかんする、時間系列、時間内容、時間順序、最後に時間総体に関係するものである。(A145/B184f.)』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p256より引用)

    ........._(┐「ε:)_

引用返信/返信 削除キー/
■36879 / inTopicNo.57)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/21(Thu) 23:43:10)
    No36878に返信(pipitさんの記事)
    > No36877英訳のpipit意訳・日訳
    >
    > 悟性概念は、多様一般の純粋な総合的統一を含んでいる。
    >
    > 時間---内的感覚の多様の形式的条件であり、したがって全ての表象の結合の形式的条件---は、純粋直観の中にアプリオリな多様を含んでいる。
    >
    > さて、【超越論的な時間規定】は、   
    > 普遍的でありアプリオリな規則に基づいてその統一を構成する限りではカテゴリーと同種的であり、
    > 他方では、
    > 時間が多様なあらゆる経験的表象に含まれている限りでは現象と同種的である。
    >
    > こうして、超越論的な時間規定によって、カテゴリーを現象に適用することが可能になる。
    > 時間の超越論的規定は、悟性概念の図式として、後者(現象)を前者(カテゴリー)の下に包摂させる媒介となる。

    ??

    【超越論的な時間規定】が図式としてカテゴリーと現象の回路をつなげる、、、

    時間(受動)を規定(能動)する、、、

    【時間規定】という行為において、時間;受動的側面は現象に、規定;総合的統合という能動性はカテゴリーに、【時間規定】のそれぞれに対しての同種性を見る、ということなのかなぁ、、、

    今ここ(受動)、を、人生という一つの流れに総合的統一(能動)する、のが【時間規定】???

    全然違うかなぁ、少しずつでも読み進めてみます(T . T)
    おやすみなさいー ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■36878 / inTopicNo.58)  純理「純粋悟性概念の図式について」B177
□投稿者/ pipit -(2024/03/21(Thu) 23:28:47)
    No36877英訳のpipit意訳・日訳

    悟性概念は、多様一般の純粋な総合的統一を含んでいる。

    時間---内的感覚の多様の形式的条件であり、したがって全ての表象の結合の形式的条件---は、純粋直観の中にアプリオリな多様を含んでいる。

    さて、【超越論的な時間規定】は、   
    普遍的でありアプリオリな規則に基づいてその統一を構成する限りではカテゴリーと同種的であり、
    他方では、
    時間が多様なあらゆる経験的表象に含まれている限りでは現象と同種的である。

    こうして、超越論的な時間規定によって、カテゴリーを現象に適用することが可能になる。
    時間の超越論的規定は、悟性概念の図式として、後者(現象)を前者(カテゴリー)の下に包摂させる媒介となる。

引用返信/返信 削除キー/
■36877 / inTopicNo.59)  純理「純粋悟性概念の図式について」B177
□投稿者/ pipit -(2024/03/21(Thu) 23:26:00)
    みなさまこんばんは(^ ^)続きです♪

    The conception of the understanding contains pure synthetical unity of the manifold in general. Time, as the formal condition of the manifold of the internal sense, consequently of the conjunction of all representations, contains a priori a manifold in the pure intuition. Now a transcendental determination of time is so far homogeneous with the category, which constitutes the unity thereof, that it is universal and rests upon a rule a priori. On the other hand, it is so far homogeneous with the phenomenon, inasmuch as time is contained in every empirical representation of the manifold. Thus an application of the category to phenomena becomes possible, by means of the transcendental determination of time, which, as the schema of the conceptions of the understanding, mediates the subsumption of the latter under the former.
引用返信/返信 削除キー/
■36874 / inTopicNo.60)  純理「純粋悟性概念の図式について」B177
□投稿者/ pipit -(2024/03/20(Wed) 16:21:30)
    みなさまこんにちは♪
    はやく図式論(具体)に進みたーい
    B177
    J. M. D. Meiklejohnさん英訳をpipitが意訳・日訳しました。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap56

    Now it is quite clear that there must be some third thing,
    which on the one side is homogeneous with the category, and with the phenomenon on the other, and so makes the application of the former to the latter possible.
    This mediating representation must be pure (without any empirical content), and yet must on the one side be intellectual, on the other sensuous. Such a representation is the transcendental schema.

    今や第三の何か・・・一方ではカテゴリーと同質であり、他方では現象と同質であり、前者を後者に適用することを可能にするものが・・・あるに違いないことは明らかである。
    この媒介となる表象は純粋でなければならず(経験的な内容を含まない)、しかも一方では知的でなければならず、他方では感覚的でなければならない。このような表象が超越論的図式である。
引用返信/返信 削除キー/

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