| ザビビのふくろうさんへ。おはようございます。レスをありがとうございます。
■No32770に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > まあ、私の場合、思想の意義は真理か否かが基準(自分がどう思うか、ではなく)だから、論理的に両立不可能な絶対的唯物論と絶対的観念論は、0か100かしかないわけですが、 > 時さんの場合、思想の意義は自分がどれだけ納得できるかという自分に基準を置いているので、そういう支持の度合いが考えられるんでしょうね。
はい。そのようですね。
> なんと、今度は自由意志の問題ですか!?(笑) > 私には正直、まずもって時さんには、自由意志の有無なんて問題ではないんじゃないの?って思うのですが。 > 仏教の実践に関係あると思えませんしね。
はい、自由意志の問題です(笑)。仏教の学びに関しては、あるといえばある、無いといえば無いのですが、仏教を学ぶ以前には、これは、私にとっての大きな問題だったのですね。詳しくは書けませんが、あれ?どうも自身の行動が自らの意志に反したことになっているぞ。そもそも意志していない事が起きているぞ。ということがあったのですね。そこが自由意思を考える始まりでした(笑)まぁ、学問的というわけではありませんので、単に人生哲学の範疇ですが。逆に言うと、人生哲学だからこその大きな問題でした。
> 私にとっては、独我論はリアリティーのある問題だったので、それなりに勉強したり考えたりしてきましたが、自由意志問題はそれほどリアリティーを感じる問題ではありませんでした。 > もちろん、どうでもいいというわけではなく、それなりに一応自分自身の考えは持っていますが、考えに考えて出した答えというよりは、割とすなおに「これでいいんじゃね?」って思う立場を採っています。
> あまり詳しい議論は必要ないと思いますので、なるべく簡単に。 > 私は、自由意志問題は時さんが述べられていることを含めて、大きく言って二つの間違った前提に基づいて生じていると考えています。
> 一つは、決定論です。私は、因果的決定論であれ、意志決定論であれ、間違っていると思います。物理的現象は物理的法則に事実として従っていると言えるでしょうが、「したがわねばならない」という必然性はありません。同様に、意志に身体を必然化・強制する力はありません。
了解しました。私の場合は、強いていうのであれば因果的決定論を支持するでしょうか。
> もう一つは、意志(心)と身体(物)を別ものとみなす二元論です。 > この二つの前提から、たとえば行為を決定するのは意志か、物理的因果か、また、意志が行為を決定するとしたらそれはいかにしてか、といった疑似問題が生じていると思うわけです。
なるほど。これはザビビのふくろうさんのご認識では、疑似問題なのですか。了解しました。
私の場合には、人間も草木や動物と同じく自然物という立場をとりますので、そこに人間の自由意志という幻想が、遺伝子に標準装備で組み込まれているのではないのか?という事を考えたのですね。
> 確かに、私の手が私の意志した通りに上がったら、私が手を挙げたと普通言いますが、ここから心としての意志が、挙手の身体動作を決定・引き起こした、ということは帰結しないように思われますね。
はい。帰結しませんよね。それ以前に、普通右手を上げようとは意志しておらずに、その時々に応じて手は上がっているので、そこにはその時の特別な意志というものは無いように思われます。つまりは、上げようと思わずとも、それは結果的に上がっているという事になるでしょう。
> 私の手が上がったのは、私がそう意志したがゆえなのか、すなわち私が手を挙げたのか、それともそれは思い込みで、実情は単に物理的因果に基づいて手が上がっただけなのではないのか? > ですが、これは上述したように、決定論と二元論を採るがゆえに生じる疑問にすぎないと私は思います。
了解しました。
> 次のように考えてみましょう。 > 私(精神としての自己)は、私(身体としての自己)である。 > つまり、存在論的には同一(一元論)である。精神と身体は私の二側面である。私は精神的存在であり、同時に身体的存在である(当たり前でしょ?(笑))。
当たり前といえば、当たり前ですが(笑)精神と身体は私の二側面であると言うところに、今は言葉にはならないのですが、何やら引っかかりを感じていますー。
> そうすると、「私が手を挙げた」という主観記述した私の動作を、「私の手が上がった」と客観記述することもできるというだけの話、ということになります。 > どちらの記述が正しいというわけではありません。 > これで、「私が手を挙げた(上がらしめた)のか」それとも「(私の意志とは無関係に)私の手が上がっただけなのか」、いったいどちらが本当なのか、という疑問は解消します。 > また、こう考えれば、意志(心)と身体動作は無関係でもありません。 > 意志(心)と身体(動作)をべつものとする二元論を採るから無関係にも思えるのです。
うーん。。記憶の後追いで客観的に記述する場合には、そうなのですが(笑)私が過去に問題視していたのは、通常の生活の上での行為(手が上がった)場合の直前、そこには手を挙げると言う意志は、ほとんどの場合には、(私の体験上では)ない、なかったのではないかという事です。
例えば、公園であらぬ方向からボールが飛んできた場合には、結果的には、ボールが身体に当たるか、身体には当たらずに素通りするか、手で払いのけるかキャッチするか等になると思いますが、それに気づいたその瞬間、反射的によけたり払いのけたりすると思うんですね。この場合、後でそのことを記述するのであれば「あの日、公園でボールが飛んできたので、私は危険だと思ったので、手で払いのけました」等となると思うのですが、実際にはその時、払いのけようという意志は働いていなかったと思いますし、少なくともその記憶はありません。ですが、払いのけたという結果の記憶は残ります。それは、自然に、反射的に、意志とは無関係に手が動いたとなると考えたのですね。
その時のことを後日に記憶をもとに記述するのであれば、「あの日、公園でボールが飛んできたので、私は危険だと思ったので、手で払いのけました」となると思いますが、、これは記憶の後追いでの記述ですので、その瞬間にはその意志はなかったのではないかなぁと(笑)
> 一応現在における私の基本的立場はこんな感じだということで、私見についての説明は以上にしておきます。
了解しました^^ ご意見をありがとうございました。
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