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No32765 の記事


■32765 / )  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/08/31(Thu) 12:42:58)
    ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32764
    > ああ、ふと思いついたんですが、この6-4とか7-3とかいう割合は、ひょっとすると、どちらの説を支持するかっていう心理的度合いのようなものでしょうか?

    はい。そうですね。言い換えますと、教えていただいた言語相対主義的な割合のとらえ方になりますね。

    > もしそうであれば、理論的立場としては不整合ということになりますし、やはり私としては関心がもてないって感じですね。

    ザビビのふくろうさんのご認識は、了解しました。私個人としては、あまり強固な理論的立場を取りませんので、これはこれでOKという事で。(笑)

    > 少なくとも英語圏の哲学アカデミズムでは、主流は物理主義(唯物論)ということのようです。
    > それと科学者がどう考えているのか実際はわかりませんが、あえて私見を述べますと、その人個人の考えはわからないとしても、科学という営みそのものが物理主義の立場を方法論の基礎とするものですから、少なくとも科学者としては物理主義である、ということになるのではないでしょうか?

    はい。そのように思えますね。

    > 私の立場については、前述した言語相対主義的なとらえ方、つまり、唯物論(物理主義)的にも、観念論的(独我論的)にも捉えることは可能だとする立場が一応基本です。

    ここは、私と同じように感じました。実際に独我の世界に入り込むと、大変興味深い世界が広がりますしね。だからといって物理主義を完全に否定しているわけでもないのですが。ただ、そこから出て見渡してみると、そこには、(各人の自覚とは別に)多くのミクロコスモスの集まりがあり、それらが互いに影響を与えながら入れ替わり立ち替わりしている、まるで星が流れるクラインのツボのように見えたという記憶があります。^^

    それら多くのミクロコスモスが見えているという事は、これはマクロコスモスなのか?とかいろいろと考えていた時期もありましたが、でもまぁ、これも始まりも終わりもないようなマンデルブロ集合図のようなんだろうなぁと、ここでコスモス関係の妄想は、打ち切られました。(笑)

    > ただ、思い描かれる世界像としては、唯物論的世界像も観念論的世界像も、どちらが正しくてどちらかが間違いということはないと思いますが、

    はい。ですので、私個人は、絶対的唯物論や絶対的観念論の両者の言い分の理解はできても、そのどちらにも完全には賛同しきれないのですね。双方がやりあっても、アインシュタインとタゴールの対話の様になるだけでしょうから。ですので、今現在では、強いてというのであればあると思いますが、どちらかの論に完全に偏るというのは・・ないでしょうか。

    > 「私にとってのリアル・リアリティー(現実)とは何か?」という問いの答えとしては、
    > 観念論的世界(ヴァーチャル・リアリティー)がすなわちリアル(現実)ではないか、と今のところ思っています。
    > このあたりのロジックは勉強中です(笑)

    その答えが出て、またその機会がありましたら、そのロジックを是非ご教授ください。(笑)

    > まあそうです。
    > ただ、偏るというより、そもそも他方を認めない、って感じですね。
    > つまり、度合いではなく、0か100しかない、って感じです。

    ありがとうござます。了解しました。しかし私個人としては、通常の0か100の世界観はないですかね。

    > う〜ん、よくわかったとはいえませんが、
    > 私の上の言い方で言えば、
    > 時さんにとってのリアル(現実)とは四聖諦の問題であって、唯物論か観念論かっていうような哲学的問題は、どちらであろうが「何も問題ありません」ってことでしょうかね(笑)

    うーん、、よくわかりませんが、、苦のある世界観も現実であり、苦のない世界観も現実ですかね。(笑)

    唯物論か観念論かという哲学的問題については、0-100の世界の答え探しだと思いますので、私の分野ではないですね。よって、どちらに転ぼうが、「問題はありません」ですね。(笑)

    唯物論か観念論かという哲学的問題については、少しお話がややこしくなりそうですので、この機会に自由意志の有無についてザビビのふくろうさんにお尋ねしたいと思います。

    まずは、自由意志の定義を、他から束縛されず自らの責任において自発的に決定する意志。(広辞苑)とします。

    そこで考えたのが、この世の身の周りで起こる出来事の一切(雨が降る、傘を持って出かける、晴れてくる、傘を喫茶店で忘れてくる。ボールを右手で握る、振りかぶって投げる、思ったところにはいかずに家の窓ガラスを破る・・等々)は、因果関係による必然なのか?それとも偶発的に起こる偶然なのかといった事です。

    そのうえで、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係の中で起こる必然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続け、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係とは無関係に起こる偶然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続けるでしょう?

    必然ならば、それは自由意志とは無関係に起こり続け、偶然ならば、それも自由意志とは無関係に起こり続けます。つまりは、この世界で起こり続ける出来事に自由意志は関与できません。そこには、ただただ、私には自由に決定する事ができるのだという思いがあるだけでしょう。仮にその思いの中での決定だけができるとしましょう。しかしこれは・・・この世界での出来事とは無関係なもので、そこにその思いがあるというだけです。この場合の思いとは、自由に決められる、決められないという”思いだけ”があるという事ですね。

    こう言った意味において、自由意志はある?ない?という哲学的問題について、自由意志はある!(唯物論だ)自由意志はない!(観念論だ)と偏っても、そこには意味がないという事で、今の私の答えは、どちらに転ぼうが「問題はありません」なのですね。(笑)

    昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と表現したそうですが、それが「我思う、ゆえに思いあり」だったならば、現在の私でしたらその言葉の解釈として十分にしっくりと来たと思います。(笑)
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