| No37636のつづき、
No37109資料(5)のなかに次のようなことが書いてあった。
(E-2)・・・・・・・・ 純粋自我によって遂行される各々のコギト作用は、原印象においてそのつど新たに「生じて」は「消え去って」ゆく。正確には、作用が遂行されなくなった後は、「把持」という仕方で沈殿してゆく。仮に純粋自我もまた、そのつどのコギトのように新たに生起・消滅するのであれば、〈以前〉の自我と〈今〉の自我の間に時間的隔たりがあり、両者は原理的に別個の自我ということになる。その場合、“複数の別々の《私》”が存在することになり、後から「反省/自己知覚」を遂行したときに、私はみずからを同じ一つのこの私として同定することはできない。 ところが実際には、この私は、首尾一貫して“同じ一つの私”であるという信憑が、いつでもすでに成立している。…‥。では、そのような自我の同一性・一貫性は“何に由来するのか”、――この問いが、まさに自我の時間的な統一を生み出してくる起源への眼差しを導くわけだが、ここで例の「内的意識」の機能が際立ってくる。 〈五分前〉に私が遂行した作用と、〈今この瞬間〉に私が遂行している作用が、後から反省を遂行したときに同じ一つの《この私》の作用であると信憑されうるためには、〈五分前〉に遂行された作用が、まさにその時点で、他ならぬ私の作用であるということが前もって暗々裏に気づかれている必要がある。……各々のコギト作用は、当の作用遂行が中断されれば消滅してしまうにも係わらず、どのコギトも私のコギトであると言えるのは、それらが生成しては消滅する個々のコギトを「貫いて」、唯一の「同じ」自我が、当のコギトの主観として連続的に意識に知られているからに他ならない。 こうして、純粋自我は、〈五分前〉の作用と〈三分前〉の作用を共に私の作用として把握する「同じ一つの」主観として、意識の流れのうちで持続したものとして構成される。それゆえ、純粋自我は、たとえ作用のうちで顕在的に機能していない場合であっても、いわば「隠れた自我」として、「眠った意識/朦朧とした意識」)に随伴していると考えられねばならない。この「覚醒して」いようが「眠って」いようが、いつでもどこでも同じこの私の自我である、という純粋自我の同一性を暗々裏に構成しているのが、他ならぬ内的意識なのである。そして、まさにそれは純粋自我を時間的な拡がりを持ったものとして・・・・構成するがゆえに、内的時間意識とも呼ばれるのだ。 ・・・・・・・・・・・・
ここに、「私」にかかわることとして、「内的時間意識」が出てきてる。
これについてのわたしの後で。
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