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Re[80]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/29(Sat) 16:18:21)
| ■No37613、 やっぱ、ニーチェでよかったみたい。 パニさん、ありがとございま〜す!
転記してくれたの読んでみて、なんか現象学のと似てる感じ。
(a)「内的世界」の現象論、とか「内的経験」、これ現象学の「内的意識」っていうのと似てて、こういうのから見てる。 (b)現象学で言うと、現在における〔知覚的対象は単なる現前ではなくつねに付帯現前〕だったり、〔投影〕されてるもの。 (c)(b)のような記憶が想起されてる。 みたいなところ。 メルポンは、【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかで、 『現象学はずっと以前から、その道を歩みつつあったのである。その信奉者たちはいたるところに、ヘーゲルやキルケゴールはもちろん、マルクス、ニーチェ、フロイトにもまた、現象学を見出すのである。』 って言ってる。 もっともニーチェのほうがフッサールより先だから、マルクス、ニーチェ、フロイトのとフッサールのとが、間(相互)主観的にフッサールのうちに「現象学」っていうのが抽出されてきたのかも、だけどね。
>個人的な記憶と経験に基づいて捏造される< ってあるけど、わたしのばあい「捏造」って言うより、「思い込み」かな。 個人的な記憶や経験は、文献(昔の制度・文物を知るよりどころとなる記録や言い伝え。文書。)じゃないし、ようするに「記憶」と「記録」とは異なる、ってわたし見てるいうこと。 だから、「記録」に重きを置くと、『文献学の欠如』っていう見方になるのかも。 でもね、「記録」されてるその内容にも、付帯現前化(思い込み)されてることもあるんじゃないかしら?
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