□投稿者/ パニチェ -(2026/01/21(Wed) 15:42:41)
| 「形象による思考の場合でも、ダーウィン説は正しい。すなわち、より強力な形象は、より軽微な諸形象を食い尽くして行く。(ちくま学芸文庫刊ニーチェ全集3「哲学者の書」P268)」
「ダーウィン説の驚くべき帰結。ともかく私は、ダーウィン説は真理だと思っている。(ちくま学芸文庫刊ニーチェ全集3「哲学者の書」P300)」
「イギリスのダーウィニズムそのもの周りには、イギリスの人口過剰の息詰まるような空気に似た何かが、窮乏に追いつめられた細民の臭気さながらの雰囲気が、匂っている。けれど、自然科学者であるかぎりは、おのれの人間臭い片隅から抜けだしてぃるべきだろう。それというのも、自然のうちに支配いているものは、窮迫状況ではなくして、過剰であり、浪費である、しかも馬鹿馬鹿しいまでの過剰浪費であるからだ。生存競争といったものなぞは、一個も例外にすぎない、生意志の一時的な制限状態にすぎない。ほかならぬ生の意志であるところの権力の意志のままに、大小の闘争が、いたるところで、優越を競い、成長へと拡大を競い、権力を競って、おこなわれているのだ。(悦ばしき知識349)」
「弱化の状態としても最高の公平と柔和(新約聖書と原始キリスト教団、──イギリス人ダーウィン、ウォレスは、これがまったくの愚事であることを示した)。君たち高級な方々よ、君たちの公平は君たちを普通選挙その他に、君たちの「人間性」は犯罪や愚味に対する柔和にかりたてる。やがては、かくして君たちは愚味と無難なものとに勝利をもたらすであろう。快適と愚味──中間。(権力への意志130)」
「根本問題。どこから信仰のこの全能は由来するのか?道徳を信ずることの全能は?(この信仰は、生の根本条件ですら道徳のためとなら誤った解釈をうけるといいうことからもうかがいしることができる、動物界や植物界について知られていることはそうした解釈をゆるさないにもかかわらず。「自己保存」は、利他主義の原理と利己主義の原理とを調停するためのダーウィン主義的遠近法である。)(権力への意志253)」
「哲学者についての迷信、すなわち、科学的人間の取りちがえ。あたかも価値は事物のうちにひそんでいて、それを確保しさえすればよいかのごとくであるとは!どこまで彼らがあたえられた価値の教唆のもとで研究するかの問題(仮象、肉体などに対する彼らの憎悪)。道徳に関してはショーペンンハウアー(功利主義に対する嘲笑)。最後にはこの取ちがえは、ダーウィン主義が哲学とみなされるほどはなはだしくなり、かくして現今では科学的人間が支配権をにぎっている。(権力への意志422)」
「ダーウィン主義に反対して。──或る機関の有用さはその発生を説明しはしない、逆なのである!このうえなく長期にわたって或る固有性が形成されつつある間は、その固有性は、個体を保存することもなく、個体に有用であることもなく、外的環境や外敵との闘争においてはことさらそうである。結局「有用」とは何か?「何に関して有用なのか?」と問われなければならない。たとえば個体の持続にとって有用であるものは、その個体の強さや華麗さにとっては不都合であるかもしれない。個体を保存するものは、同時にその個体の発達を固定させ停止させるものであるかもしれない。他方、或る欠陥は、或る変質は、それが他の機関の刺戟剤としてはらたくかぎり、このうえなく有用でありうる。(権力への意志647)」
「ダーウィン主義的生物学の意味での「有用である」とは──言いかえれば、他者との闘争においておのれを好都合のものとして証明することにほかならない。しかし私には、高揚された感情、より強くなるという感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の進歩であると思われる。すなわち、この感情からはじめて闘争への意志が発現するのである──(権力への意志649)」
「反ダーウィン。──人間の馴致、これはいかなる決定的価値をもちうるのか?ないしは総じて馴致ということは或る決定的価値をもっているのか?──私たちは、この後者を否認する根拠を持っている。…〈中略〉… 生存競争が、弱者の死滅と最も強壮な最も天賦にめぐまれてたものの存続が、予期されている。したがって、生物は完全性へと不断に生長していると想像されている。私たちが確証してきたのはこれと逆であって、それは生存競争においては、偶然は強者にと同じく弱者にも幸いするということ、狡智はしばしば力に有利な補強をするということ、類の豊饒性は破滅の機会と注目すべき関係にあるということであった・・・(権力への意志684)」
「反ダーウィン。──人間の大いなる運命を概観して私が最も多く驚かされるのは、今日ダーウィンがその学派とともに認めないしは認めようと欲していることは、すなわち、より強いものに、出来のよいものに好都合な淘汰、類の進歩とは正反対のことをつねにまのあたりにするということである。まさしくこの正反対のことが、すなわち、幸運の抹殺、出来上がりの高級な類型の無用性、中位の類型の、中位以下の類型すらの不可避的支配が、明白なのである。なぜ人間は被造物のうちで例外であるかということの根拠が私たちに示されないなら、私はダーウィン学派はいたるところで思いちがいをしていると頭から考えざるをえない。私がすべての変化の究極的根拠や性格をそのうちで再認識するあの権力への意志が、なぜまさしく例外や幸運に好都合な淘汰が生じないかを明らかにする手引きをあたえてくれる。すなわち、最も強く最も幸福な者は、組織化された畜群本能を、弱者の恐怖心を、大多数を敵にまわすときには、弱いのである。価値の世界に関する私の総体観は、今日の人類の頭上にかかげられている至高の価値のうちで優勢を持しているのは、幸運では、淘汰された類型ではないということを示している。むしろそれはデカダンスの類型であり、──おそらくはこの世において、こうした望ましからざる光景にもまして興味深いものは何ひとつないであろう・・・(権力への意志685)」
「反ダーウィン。──あの有名な「生存競争」に関して言えば、それはさしあたり私には証明されているというより、むしろ主張されていると思われる。それはおこりはするが、しかし例外としてである。生の総体的光景は、窮乏状態、飢餓状態ではなく、むしろ豊富、豊満であり、ばからしいほどの浪費ですらある、──闘争がおこなわれるときでも、それは権力をめぐる闘争である・・・人はマルサスと自然とを取りちがえてはならない。──しかし、この闘争がおこるとすれば──そして事実、それはおこるのであるが──、遺憾ながらそれは、ダーウィン学派が願っているのとは、おそらくはこの人がこの学派とともに願ってさしつかえないと思うのとは逆の結果となる。すなわち、強者、特権者、幸福な例外者には不利となる。種属は完全性という状態のうちで成長するのではない。弱者が繰り返し強者を支配するからであり、──それは、弱者が多数であり、弱者がより怜悧でもあるためである・・・ダーウィンは精神を忘れてしまっていた。(偶像の黄昏14)」
|
|