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Re[8]: ニーチェとチェーザレ・ボルジア
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□投稿者/ パニチェ -(2026/01/20(Tue) 21:07:40)
| こんばんは、こんにちは、フローラさん。レスありがとうございます。
■No45182に返信(floraさんの記事) > パニチェ様、種々の引用等、貴重なお時間を割いてくださりありがとうございます。 > 私は若いときに塩野七生氏の『チェザーレボルジア あるいは優雅な冷酷』を読み、それ以降チェザーレの名前は記憶から離れませんでしたが、最近、友人からニーチェがチェザーレに関心を持っていたと聞き、これはパニチェさんに伺って見ようと思った次第です。上記の著作はもとより『君主論』も自宅に有り、引用その他、全く表示出来ない状況にもかかわらず、お返事くださり感謝しております。
どういたしまして。
> >ニーチェが批判対象としている(ニーチェが思うところの)キリスト教的道徳とは、他者への同情や哀れみ、神の前では平等ということを重んじる、いわば弱者の道徳(奴隷道徳)であり、人間や生が本来有するダイナミズムや創造性を委縮させ弱体化させる禍因であると看破している。 > >ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアは倫理的側面からみればアンチクリストであるということ。 > おそらく教皇職に必要にしがみついた実は傲慢な偽善者であった父 ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)が反面教師としてあったかも知れませんね。
なるほど、そうかもしれませんね。 ニーチェの祖父はアイレンブルグの管区総監督牧師の地位にも昇った人であり、父も牧師、母の家系も牧師であったことから、これまた反面教師としたのだと思います。
> >ニーチェは人間について位階を認めている。生物進化も一部から生じるように人間の精神的進化も万人に生じるわけではない。 > これはすごいですね!ダーウィンの『種の起源』の初版が1859年出版、一方ニーチェは1844年生まれ、ニーチェが15歳にして、英国でかつ英語で記された著作を読んだとは想像するのが難しい・・・精神的進化の部分も考察していたのは正直 驚きでした。
ニーチェは小学校の頃に級友から「小さな牧師さん」と呼ばれるくらい牧師的教養も深く博学だったようです。 以下、ニーチェ事典から引用します。
「1859年にダーウィンの『種の起源』が公刊されたとき、ニーチェは15歳であった。すなわち、ダーウィンの進化論がヨーロッパ中を瞬く間に席巻していった時期は、そのままニーチェの精神形成期に重なっている。しかもニーチェが旺盛な執筆活動を続けていた1870年代から80年代にかけては、社会ダーウィニズムが、すなわち人間は遺伝と環境に支配されつつ生存闘争を行いながら、優勝劣敗の鉄則に従って不適応者は次第に淘汰されていくという宿命的ペシミズムの思想が世界的流行を見せていた時期でもあった。それゆえ、ニーチェがこうした時代思潮から受けなかったわけはない。事実、彼はダーウィンの『種の起源』と『人間の由来』を丹念に読んでおり、またランゲの『唯物論の歴史』を通じて進化論の思想的意味を把握していた。しかし、ダーウィニズムに対するニーチェの態度は、いわば両義的と言わざるをえない(ニーチェ事典 ダーウィイズムより)」
詳しくは省きますが、結論から言えばニーチェのダーウィニズムに関する評価は賛否あるということです。
> アンチクリストということは 道徳心を持たないということですか?道徳心とはどこから出てくるものなのでしょうか? 私はこの道徳心というのがわからないのです。
アンチクリストというのは反キリスト教道徳&教会(キリスト教道徳の対岸が善悪の彼岸ということになります)ということであって道徳心を持たないということではありません。 奴隷として生まれたユダヤ人がそのルサンチマンを原動力として築き上げたユダヤ・キリスト教道徳の禍因性を看破してということです。 ニーチェは以下のように述べています。
「自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)」
私は道徳心というのは結局のところ自己保存本能や種の保存本能に根差したものであると考えています。 人間という種の保存にとってプラスになるのが善で、その反対が悪。 病原菌は種族の維持という目的に適わないから「悪」玉菌、ビフィズス菌は種族維持という目的に適うから「善」玉菌みたいな発想です。
実際、昨年日本では熊による被害が急増して駆除していたわけですが、これを動物保護団体が批判したり、世界的には捕鯨が批判されたりするわけですが、その一方では豚や牛、鶏や魚は毎日殺して食べてるわけで、道徳と呼ばれるものは人間優先でしかないわけであってそういうことも自覚すべきだと考えています。 昔からそのように考えていたのですが、遠い昔、ニーチェに出会って以下のアフォリズムが私の言いたかったことを端的に捉えていてびっくりしました。
「あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫をあげる人間であり、精神の土百姓である。しかしついにはあらゆる土地が利用しつくされる、かくてくりかえし悪の犂頭が到来しなければならなくなる。──こんにちでは、とくにイギリスで名声嘖々たる道徳の根本誤謬があらわれている。それによると「善」と「悪」という判断は「目的に適う」と「目的に適わない」ということについての諸経験の蓄積の結果である。それによれば、善と呼ばれるものは種属を維持するもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことである。だが実際には、悪の諸衝動は善のそれらとそっくり同様に高度に合目的のものであり、種属を維持するもの不可欠のものである、──違うのはそれらの機能の点だけである。(悦ばしき知識 第3番)」
見事に道徳を解体していると思いました。
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