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Re[7]: ニーチェとチェーザレ・ボルジア
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□投稿者/ flora -(2026/01/18(Sun) 19:47:34)
| パニチェ様、種々の引用等、貴重なお時間を割いてくださりありがとうございます。
私は若いときに塩野七生氏の『チェザーレボルジア あるいは優雅な冷酷』を読み、それ以降チェザーレの名前は記憶から離れませんでしたが、最近、友人からニーチェがチェザーレに関心を持っていたと聞き、これはパニチェさんに伺って見ようと思った次第です。上記の著作はもとより『君主論』も自宅に有り、引用その他、全く表示出来ない状況にもかかわらず、お返事くださり感謝しております。
>ニーチェが批判対象としている(ニーチェが思うところの)キリスト教的道徳とは、他者への同情や哀れみ、神の前では平等ということを重んじる、いわば弱者の道徳(奴隷道徳)であり、人間や生が本来有するダイナミズムや創造性を委縮させ弱体化させる禍因であると看破している。
>ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアは倫理的側面からみればアンチクリストであるということ。
おそらく教皇職に必要にしがみついた実は傲慢な偽善者であった父 ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)が反面教師としてあったかも知れませんね。
>ニーチェは人間について位階を認めている。生物進化も一部から生じるように人間の精神的進化も万人に生じるわけではない。
これはすごいですね!ダーウィンの『種の起源』の初版が1859年出版、一方ニーチェは1844年生まれ、ニーチェが15歳にして、英国でかつ英語で記された著作を読んだとは想像するのが難しい・・・精神的進化の部分も考察していたのは正直 驚きでした。
>精神的な君主たりえるのはやはり少数の人間であり、大多数の人間は畜群的であり、かつ近視眼的でもある。
>そういう民衆を統治する場合には有害になりうることも想定しなければならないというのがニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』であり、それを実践したのがチェーザレ・ボルジアであるなら、ニーチェからすれば親近感を抱く対象にはなりうる。
>ニーチェにとってチェーザレ・ボルジアはアンチクリストとして「高級な人間」ではあるが、かららずしも「偉大な人間」と等価ではなく、ましてや超人のモデルではない。
>何故なら、神の対極である超人は対極であることからして、ひとつの理想的な典型を持ちえないからである。外延としては自律的、自制的な君主道徳を有する対象ではあるが、共通の内包を持ちえないのが超人の本質でもあるからである。
アンチクリストということは 道徳心を持たないということですか?道徳心とはどこから出てくるものなのでしょうか? 私はこの道徳心というのがわからないのです。
私は短絡的に、非道徳とか、冷酷、手段を選ばないエゴイストとチェザーレを捉えていましたが、それも考えてみれば、どこから発生したのかわからない道徳心やらに固執した結果からのことなんでしょうね。
チェザーレ、残念ながらその名の意味の通りシーザー(カエサル)のように志を貫くことは出来ませんでしたね。
丁寧な御返事ありがとうございました。
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