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Re[25]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/20(Tue) 18:34:57)
| 天才Danza?さまのおかげでひきつづきここでお喋りできて、ありがとございま〜す。 日曜に投稿しようとしたのを書いちゃうね。
No45177のようなことわたし考えてるなかで、「自・我」と、「時間」すなわち「感性」との関係が課題となってきたのね。 で、いろいろ見て見たよ。
No45141の、(6)-B―の最後の方 (あ)〔ランドグレーべは、時間形式についてのカントとフッサールの立場上の違いを、フッサールにとって、「アプリオリに与えられた形式という仮定、つまり,そこにわれわれの様々な表象がいわば、収まり、順番づけられて配置されるような形式」は必要ではなく、「むしろ、反省的分析の中で意識における生起が証示され、形式が意識の中で形成されることが解明されうるのである。」と述べている。〕 の部分、 〔形式〕→カントコギトによる「感性」の「形式」としての「時間」 ってして見て、(あ)を、わたしの見方で書いて見ると、
(a あ) フッサールにとって、《カントコギトによる「時間」]という》アプリオリに与えられた《「感性」における「時間」という》形式という仮定…・順番づけられて《〈我〉が》配置されるような《「感性」における「時間」という》形式…‥《は、》むしろ、反省的分析の中で意識における生起が証示され、《「感性」における「時間」という》形式が意識の中で形成されることが解明されうる。 っていうふうになるのね。
あと、資料(8)に、 (8)-J――――――――――― 先行研究は、まさに働いている自我が存在することを認めつつも、そうした自我が反省においては捉えられないと、主張する。 では、まさに働いている自我の存在は、どのようにして認められるのだろうか。「C草稿」においてフッサールも、まさに働いている自我が非主題的・匿名的に存在していることをみとめている(cf. Mat VIII, 2, 16)。さらに、同草稿でフッサールは、自我がまさに働いている場面を、「根源現象」として流れゆく現在と見做したうえで(cf. Mat VIII, 6)、次のように述べている。
『生き生きと流れゆく現在としての原現象的な存在は、原本的に(originaliter)意識されており、その現在が形づくるすべてのものに向かう、原本的な気づき、知覚の領野である。』 (MatVIII, 7)
この一節にあるように、フッサールによれば、まさに働いている自我の存在は、原本的な気づき、知覚という仕方で、意識されている。 ―――――――――――(p118) ってあって、 「まさに働いている自我の存在」、『生き生きと流れゆく現在としての原現象的な存在』→「原自我」〈自〉 ってして見て、
(Aup) 「(Hu)原自我」〈自〉の存在は知覚の領野で気づかれる(知覚という仕方で意識される)
ってして見たのね。
あと、カントのを振り返って、 No44093から、 @「私」は何ら認識され得るような対象ではない。…「私が存在する」という言明は対象認識(判断)ではなく、単なる「意識」である。 A「私が存在する」という意識が・・・「何らかの実在的なもの」として「知覚される」 B感じられる意識こそ、カントが本来意図していたところの自己(の存在)意識である C「感じ」のような感性系統 D私の現存在は常にもっぱら感性的なものに留まる を抽出して見て見たのね。
こういうのを見ると、たぶんだけど、カントもフッサールも、〈我〉(考えることするもの)から見ると、〈自〉っていうの、感性(知覚)のうちに“感じ”として気づかれるもの、って思われてるんじゃないかしら?って。 もっともカントの言う「私」っていうのとフッサールの「自我」っていうのとは違うのかもだけどね。
「(Hu)自我」については、どうして(Aup) なの?がわたしの課題だったんだけど、いろいろ考えて図cのようにして見たのあるから添付しま〜す。 フッサールはこんなふうに見てるんじゃないかな?って。 図Cのようにして見ると、 「(Hu)「自我」(〈我〉と〈自〉)と、「感性(知覚の領域)」との関係において、 「(Hu)自我」の〈我〉極にとって、〈自〉極は、「感性(知覚の領域)」に感じとして(匿名的に)気づかれるもの。 みたいな?
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