| ■45141 / ) |
Re[21]: つれづれなるままに 22
|
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/12(Mon) 16:07:50)
| No45139についてはいつかにするとして、いま取りかかってるのを。 No45123のようなわたしの見えがひとまずできたところで、ひきつづき「(Hu)自我」、
No45111の(ち)に、「“立ち止まりかつ留まり続ける”」っていうのあるんだけど、 No44414資料(6)の中にも同じようなのあって、その一部を書き写して見ると、 (6)-B――――――――――――――――(p10-11) 生き生きした現在の具体的な体験の持続から、形式的特性を抽象して、フッサールの時間化を一方的に形式的と規定すると、時間化における形式と内容の不可分離性の意味を見失うことになる(10)。 時間化は、たえず具体的であり、持続しており、まさにその意味で「立ち留まり」、「流れて」いる。しかし、この「立ち留まり、流れる」というのは、決して単なる形式的規定なのではない。この立ち留まるということは、連合的覚起に条件づけられた時間内容を通してのみ、立ち留まりうるのであり、この内容が同時に今という形式を生みだすのであって、その逆ではない。受動的綜合としての、内容的な「受動的同一化」は、まさに「立ち留まり」を可能にして、その痕跡がそのつどの今という形式であるにすぎない。 ランドグレーべは、時間形式についてのカントとフッサールの立場上の違いを、フッサールにとって、「アプリオリに与えられた形式という仮定、つまり,そこにわれわれの様々な表象がいわば、収まり、順番づけられて配置されるような形式」は必要ではなく、「 むしろ、反省的分析の中で意識における生起が証示され、形式が意識の中で形成されることが解明されうるのである。」(11)と述べている。 ―――――――――――――――――――― (10)様々なテキストの中で、次のベルナウ草稿からのテキストは、この連関を大変明確に記述している。「反省的でない周囲は必然的である。この非反省的周囲に必然的に属するのは、ヒュレーであり、われわれは、内在性の必然的本質形式に属するヒュレー的周囲について語り、絶対に第一である必然性とする。内在的時間のいかなる時点もこの第一の客観的内実なしにはありえず、内在的に向けられた時間の中でいかなる今も、ヒュレー的原印象なしにはありえない。」(Hua. XXXIII, 282)
(11) L. Landgrebe, „Die Zeitanalyse in der Phänomenologie und in der klassischenTradition,“ in: Phänomenologie – Lebendig oder tot?, 1969, S.27. なお、この論文を示唆してくださった R. Sepp 氏に感謝したい。ランドグレーべは、この論文においてすでに、フッサールの時間分析の発生現象学的観点を指摘しており、フッサールの時間分析を「時間そのものが初めて形成されてくる」現象の分析、ないし、「自己形成する時間」(同上、28 頁)の分析と特徴づけている。この論文で究極的に作動する時間流の匿名性を指摘するラングレーべは、後に生き生きした現在の時間流が衝動的志向性によって条件づけられていることを明言することになる。その点に関しては、L.ランドグレーべ「目的論と身体性の問題」(ヴァルデンフェルス他編『現象学とマルクス主義 II』所収、1982 年)305 頁を参照。 ―――――――――――――――――――― 「“立ち止まりかつ留まり続ける”」っていうより、「立ち留まり、流れる」の方がわたしにはわかりやすい感じ。 これ、「(Hu)原自我」〈自〉のことだと思う。
ここに、「時間」とか「形式」っていうの出てくるけど、これってカントのかな? カントは、感性の形式として時間を考えだしたみたいだし。 わたしのばあい、カント(Ka)のいう「感性」っていうのを「(Hu)受動的総合」、「(Ka)悟性」を「(Hu)能動的総合」って見てる。
あ、わたしがこのところから問題としてるのは、 (a)形式が意識の中で形成される (b)時間そのものが初めて形成されてくる (c)自己形成する時間 のところね。 つづくよ
|
|