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Re[14]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/04(Sun) 18:00:22)
| No45086から、「(純粋)自我の同一性」っていうの、信憑性ある、ってしとく。 ここで No45044のことについてわたし思ったの書いて見るね。
No45034(8)-Dに、〔私が対象に向かって没頭しているとき、私は私自身を主題的に意識してはいない〕ってあるけど、わたしもこれあるよね、って思ってる。そして、〔それゆえ、自我を主題化するためには反省が必要である〕これも確かにそうなのかも、って思ってる。
で、「反省」をデカルトの『視察』から見てみた。 『省察』の「第一省察 疑いを差しはさみうるものについて」の書き出しの部分を見て見ると、
『私は、すでに幾年か前のことになるが、こう気づいたのである。幼少の頃にどれほど多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまっていることか、・・・・・』
これって、私(デカルト)が自分自身の幼少の頃の私を振り返って見て反省してるんだと思う。 「反省」って、自分自身(私自身)(あるいはその〈するもの〉によって信じ思われてるもの)に向けられる働き。
〈この文章を書いてるときのデカルトの自我〉(D0)から見た〈幾年か前のデカルトの自我(気づいたときの自我)〉(D2)において、〈幼少の頃のデカルトの自我〉(D1)を振り返って見て、「どれほど多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまっていることか」って、反省してるんだと思う。
反省が成立するためには、(D2)と(D1)の2つの自我に同一性がないと成立しないのかも。 もっともデカルトが「ego cogito ergo sum」って言う前に、すでにデカルトは「ego(自我)」の存在に気づいていいないといけないのよね。
わたしのばあい、デカルトの我(ego)は、考えることする我において存在する、に限られてるって見てるけど、考えることだけじゃななくて感じることにおいても私は存在する、って見てる。
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