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Re[13]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/04(Sun) 17:45:08)
| 2026年もよろしくおねがいしま〜す。 休み中にいくつか考えたのあるから、ちょっと書いとく。
No45062のわたしのイメージ図について、ちょっと。
資料(5)に、 (5)-D―――――――――――――――――――― ところが実際には、この私は首尾一貫して同じ一つのこの私であるという信憑が、いつもすでに成立している。つまり、自我には「一貫性」がある(Ibid., S. 113)。 『イデーン II』の理解によれば、自我に属しているのは「そのつど性(Jeweiligkeit)」ではなく、あくまでも「一貫性(Konsequenz)」である。では、このような自我の同一性・一貫性は何に由来するのか−この問いが、まさに自我の時間的な統一を生み出してくれる起源への眼差しを導くわけだが、ここで例の「内的意識」の機能が際立ってくる。
〈五分前〉に私が遂行した作用と、〈今この瞬間〉に私が遂行している作用が、後から反省を遂行したときに同じ一つの《この私》の作用であると信憑されうるためには、〈五分前〉に遂行された作用が、まさにその時点で、他ならぬ私の作用であるということが前もって暗々裏に気づかれている必要がある。加えて、個々の作用は、それが経過する際に、それは〈たった今〉私が遂行した作用であるという具合に、「自我」を一緒に把持的沈降の過程に連れ込んでゆく。各々のコギト作用は、当の作用遂行が中断されれば消滅してしまうにも係わらず、どのコギトも私のコギトであると言えるのは、それら生成しては消滅する個々のコギトを「貫いて」、唯一の「同じ」自我が、当のコギトの主観として連続的に意識に知られているからに他ならない。こうして、純粋自我は、〈五分前〉の作用と〈三分前〉の作用を共に私の作用として把握する「同じ一つの」主観として、意識の流れのうちで持続したものとして構成される。 ――――――――――――――――――――(p216) ってあった。 〔〈今この瞬間〉に私が遂行している作用〕を〈u自我→b〉 〔〈五分前〉に私が遂行した作用〕を〈r自我→a〉 〔個々の作用〕〔各々のコギト作用〕を〈r自我→a〉〈u自我→b〉あるいは〈i自我→d〉 ってして見るのね。
わたしもちょっと考えて見たよ。 例えば、「3+4=7」っていう計算をするとしたときね。 「3」をa、「+4」をb、「=7」をc、ってして見るよ。 もし、r自我によってされた「3」と、u自我によってされた「+4」と、p自我によってされた「=7」の、それぞれの自我が同一性でないとすると、「3+4=7」は成立しない。みたいな? もっともわたし、すでに「3+4」は「7」っていうのを知ってるから「7」を予持ってして見てるけど、これ知らないときには予持はないのね。
r自我、u自我の「自我」をフッサールは「純粋自我」ってしてるんじゃないかしら?
ひとまず、一般的に、〈同一性の私〉っていうの“ある”、ってしておく。 っていうことは、ちょっと思ったんだけど、“ではない”事態として、(時間的幅をもった今のうちで)r自我からu自我への流れの中で、r自我とは異なる自我がu自我として現れることも”ありうる”のかも?
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