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Re[29]: :つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/10/11(Sat) 15:34:06)
| No44414についてはまたあとにするとして、
わたし、基本、現象学のに倣ってるんだけど、 カントのとフッサールのとの関係について少し書いとく。
No41741(F-D)『デカルト的省察』の訳注に、 (K-F)―――――――――――――― 悟性に関わる「超越論的論理学」は二つに分かれており、悟性のアプリオリな認識要素を分解(=分析)するのが「超越論的分析論」であり、その誤った使用について論じるのが「超越論的弁証法」である。しかし、ここでもその名称を、フッサールはカントから離れて使おうとしている。ここでフッサールのカントに対する姿勢について、少し付け加えておこう。本書を大幅に改訂したドイツ語版を構想していたフッサールは、1931年フランクフルト、ベルリン、ハレの各カント学会で行った講演「現象学と人間学」を機に、1935年のウィーン講演およびプラハ講演を通じて『危機』の「新しい道」へと転じていった。それは、「デカルト的な道」に対して言えば、「カント的な道」と言えるかもしれない。しかし、フッサールは早い時期から、カントに学びながらも、批判的であり、『第一哲学』でもこう述べていた。「カントを現象学的な眼で見ることは、彼を新たに理解し直すことであり、彼の先を見通す直観の偉大さに驚くことであるが、かと言ってそれは、彼を模倣したり、カント主義やドイツ観念論の単なる復興を弁護することでは決してない」と。『危機』も、「カントの暗黙の前提」として「生活世界」を指摘するところから「新しい道」が始まる。 ――――――――――――――――――P339第5(74)→本文p261 ってあった。 (F-D)には「超越論的○○」っていうのがいっぱい出てきてるんだけど・・・・
『純粋理性批判』でのカントの問いは、 No40973で見たように、 (KoM)『いかにしてア・プリオリな総合的判断は可能であるあるか。』 (B19) (KoN)『いかにして純粋数学は可能であるか』 (KoO)『いかにして純粋自然科学は可能であるか』 (B20) (KoP)『いかにして自然素質として形而上学は可能であるか』 (B22) (KoQ)『いかにして学問としての形而上学は可能であるのか』 (B22) でみたいで、 No40930で、 (A-meta)「形而上学」=人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問。 ってしてわたし見てるなかで、 このようなあっち系よりも、わたしのばあい、現象学のでわたしが関心があるのは、「超越論的」みたいなんじゃなくて、「生活世界」に根ざした――ん〜ん、生活世界のフィロソフィアみたいな?――カントので言えば「経験的」っていうことになるかな?
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