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No40973 の記事


■40973 / )  Re[18]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/15(Sat) 18:28:06)
    No40871の(本Ko)から「カントの」にわたし取り組んでるんだけど
    やっぱ、カントの『純粋理性批判』、(本Ko)から、「形而上学」っていうの必須課題みたいなのね。
    No40933で、カントの『純粋理性批判』と「形而上学」の関係について簡単に見たんだけど、
    こんどはカントの「ア・プリオリ」と「形而上学」の関係について書いてあるところを書き出して見たよ。

    (p57)
    「経験に依存することなく、感官の一切の印象にさえ依存することのない認識が存在しないかどうか」という問いは、言い換えれば、「ア・プリオリな認識が存在するかどうか」という問いだということになります。この問いは、形而上学の可能性をめぐる問いでもあります。形而上学は経験できない「形而上」の領域で議論されるという点で、ア・プリオリな性格をもつからです。カントが形而上学という学問をめがけて議論を展開していることに、私たちも注目しましょう。
    (p62)
    このように数学や常識的な悟性使用には、判断や概念にア・プリオリな源泉をもつものが見出だされます。では、形而上学においてはどうでしょうか。形而上学がまさにメタ-フィジックスとして経験の限界を超えた学問であるとしたら、そこには経験に依存しないア・プリオリな概念や判断が見出されることが予想されます。さらには、そうした概念や判断によって、形而上学という学問における認識の拡張、したがって学問の発展が実現しているのではないでしょうか。
    (KoK)『まさにこのような感性界を超え出た認識、そこでは経験が指導原理も正誤表も与えることができない認識にこそ、私たちの理性が追求するものが存する。私たちは、このような追求を、重要さの点で、悟性が現象の領野で学ぶことができることすべてに比して、はるかに優れたものと見なし、その究極意図においてたいへん崇高であると見なしている。(中略)このような純粋理性そのものの不可避な課題が、神、自由。不死である。その究極意図が、自分のもっている装備すべてをもって本来もっぱらこの課題の解決に向けられている学問が形而上学と呼ばれる。形而上学の手続きは、当初、独断的である。すなわち、形而上学は、理性にかくも大きな企てを実現する能力があるかないかを前もって吟味することなしに自信たっぷりで実行に着手するのである。』(B6f.) 

    (p72) 〈形而上学とア・プリオリな総合判断〉
    しかし、『純粋理性批判』の主要問題は、数学や自然科学ではなく、形而上学です。これは初版の序文を読めば明らかなことです。では、もし形而上学が可能であるとするなら、そこにはア・プリオリな総合判断が含まれるのでしょうか。
    (KoL)『形而上学を、これまでただ試みられたに過ぎない学問ではあるが、それでも人間理性の本性によって不可避の学問であると見なすなら、そうした形而上学にはア・プリオリな総合的認識が含まれているはずである。形而上学にとって重要なのは、私たちがア・プリオリに物事について作る諸概念を、たんに分解しそれによって分析的に説明することではない。むしろ、私たちは自分のア・プリオリな認識を拡張しようとする。そのために私たちは、与えられた概念を超え出てそこに含まれていなかったことを付け加えるような諸原則を使用しなくてはならない。そして、ア・プリオリな総合判断によって、経験そのものがそこまではいってこられないところまでに出て行こうとするのである。たとえば、世界には最初の始まりがなければならない、という命題におけるように。このように啓示少額は、少なくともその目的からすれば、まったくア・プリオリな総合的命題からなるものである。』
                                                                   (B18)
    この引用文では、形而上学について「ただ試みられたに過ぎない学問」であるとか「その目的からすれば」という留保が付けられています。それは、学問としての形而上学がいまだ実現していないことを示唆しています。ともあれ、初版の序文冒頭でカントが書いていたように、人間理性はその「推理の能力」としての本性上、「なぜ」と根拠を問い続けながら、経験不可能な世界にまで問いを及ぼそうとします。これは、概念分析を行うことではなく、ア・プリオリな認識を拡張しようとすることです。そこではア・プリオリな総合判断が行われるに相違ありません。したがって、仮に形而上学が可能であるとするなら、それはア・プリオリな総合判断からなる学問であるはずなのです。(p73)

    (p73) 〈形而上学の可能性への問い〉
    以上のことから、形而上学の可能性への問いは、次の問いへと収斂することになります。
    (P74-76)
    (KoM)『いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるあるか。』 (B19)
    カントの批判哲学を読む人は、彼が「いかにして・・・・は可能であるか」という問いを立てることに気づきます。これは、彼が哲学する姿勢や方法bを代表する問い方なのです。ともあれ、ここに提示された問いこそが、『入水理性批判』の全体、少なくともその前半部を貫く問いです。
    ・・・・・
    形而上学が可能であるとしたら、ア・プリオリな総合判断が可能であるはずです。・・・・
    (KoN)『いかにして純粋数学は可能であるか』
    (KoO)『いかにして純粋自然科学は可能であるか』 (B20)
    上述のように、純粋数学の判断はすべてア・プリオリな総合判断です。自然科学の原理を扱う純粋自然科学もまた、ア・プリオリな総合的原則からなるはずです。こうした問いにおいて「いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるか」を明らかにするなら、それは形而学の可能性に光明を見いだすことになるかもしれません。なお、『純粋理性批判』の中で、第一の問いは「超越論的感性論」において、第二の問いは「超越論的分析論」において扱われることになります。
    もっとも、ア・プリオリな総合判断が可能であるか否かにかかわらず、人類は形而上学を(上首尾にではないにせよ)試みて見てきました。どうやら人間理性には形而上学への素質があるらしいのです。仮にそうした素質がないとするならば、ア・プリオリな総合判断が可能であったとしても、形而上学に人間が関心をもつことはなかったでしょう。そこで第三の問いが立てられます。
    (KoP)『いかにして自然素質として形而上学は可能であるか』 (B22)
    人間は、自分の素質に基づいて、すなわち人間理性の本性に基づいて、どのように形而上学を展開してきたのでしょうか。それは『純粋理性批判』の「超越論的弁証法」で批判的に明らかにされます。そうした批判を介して確定的に答えられるべき究極の問いが次のようなものです。
    (KoQ)『いかにして学問としての形而上学は可能であるのか』 (B22)
    この問いに答えるため、カントの批判哲学は、旧来の独断論的形而上学とヒュームに代表される懐疑論を論駁して見据えつつ、本来の形而上学に向けて準備を行うのです。

    『 』内は、たぶんカントの記述訳だと思う。

    でね、ちょっと思ったのね。
    カントの『純粋理性批判』の背景には「形而上学」っていうのがあって、これ読むとき、これを大前提としとかなくっちゃ、って。
    でね、カント記述の日訳で、「私たち」って言うのを〈(神に対して)私たち人間〉ってして見たらどうかしら?って。
    たとえば(KoL)に『私たちは』ってあるけど、これを「(神に対して)私たち人間は」って補足して読むことにして見たのね。

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