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Re[15]: つれづれなるままに 18
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/11(Tue) 20:04:27)
| きりのいいところまで
No40930で「形而上学」っていうの、わたしの見方がひとまずできたところで、 つぎにね (本Ko)から、 「形而上学」と『純粋理性批判』との関係について書いてあると思われるところを少し書き出して見ると、
KoF〔まずは人間理性そのものが認識されなくてはなりません。そのためには、人間理性になにが認識できてなにが認識できないかを「分ける」法廷が必要です。そして、この法廷が『純粋理性批判』なのです。〕(p32)
KoG『なお、ここで純粋理性の批判とは、書物や体系の批判のことではなく、理性能力一般の批判のことである。それも、純粋理性が、経験に一切依存することなく追究しようとする、すべての認識にかんする理性能力一般の批判である。したがって、純粋理性の批判とは、形而上学一般が可能であるか不可能であるかを決定することであり、また形而上学一般に源泉ならびに範囲と限界を規定することである。しかも、この批判はこれらすべてを原理に基づいて行うのである。(AXU)』(p33)
『純粋理性批判』、カントがこの著作を執筆した目的 KoH〔その目的とは、形而上学に対する同時代人の無関心に対して、人間にとって実はどうでもよくないはずの形而上学について、その可能性あるいは不可能性を決定することです。そのための方法は、純粋理性という認識能力を批判すること、言い換えれば、人間理性に分かることと分からないことを分けることです。〕(p35)
「理性」っていうの、後で見てくことにして。
これらと、 No40930で見たような (A-meta)「形而上学」=人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問。 とから、 わたしに思われたのを、
カントの世界には、形而下(人間の経験的生活世界)と形而上っていうのがあって、後者に全知全能である世界の創造主みたいなのがあって、これをたとえば「神」という名で呼んだとして、そこには普遍・必然があって、それにかかわる人間の形而上学っていうのがあって、「知(認識)」において、それにかかわる人間の「理性」っていうのを見てて、だから、あくまでも神に対する“人間の”「理性」による「知(認識)」なのであって、こういうなかで、〔人間理性になにが認識できてなにが認識できないかを「分ける」法廷〕(a)、『形而上学一般が可能であるか不可能であるかを決定することであり、また形而上学一般に源泉ならびに範囲と限界を規定する』(b)、「人間理性に分かることと分からないことを分けること」(c)、こういうことをしようとしてるのが『純粋理性批判』。
超簡単に、 普遍性・必然性をもった神の全知全能性に対して人間の理性(認識)はどうなのよ。 っていいうことかな?
あと、 (本Ko)には、こんなことも書いてあったよ。
KoI〔人間の理性は、この形而上学の領域において、自分では答えられない問いを自分で立ててしまうという困った事態につきまとわれるのです。〕(p28)
KoJ〔純粋理性批判において、批判されるのも理性であり、批判するのも理性であることになります。これがまさに理性の自己認識です。あるいは理性の自己批判といてもいいでしょう。〕(p34)
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