□投稿者/ pipit -(2025/09/27(Sat) 18:14:48)
| 2025/09/27(Sat) 18:42:51 編集(投稿者)
悪魔ちゃん、こんにちは(^▽^)
No44291
>「超越論的統覚」っていう働きするものを(私)、ってして見るっていうことね。<
>平素的なわたしの言い方で簡単にして見ると、 >我々人間には知り得ることはないけど、なんか感じられるXである(私)なんだけど、そのような「(私)は存在する」、っていうことがカントには「認識」されてる、 って言うことになるかな。<
ここらへんややこしいみたいだね、一つの見解として、山下和也先生の『システム論的自我論 ―カントとオートポイエーシス― 』をご紹介するね。
h ttps: //core.ac.uk/download/pdf/39165013.pdf
P8より引用 『まとめれば、超越論的統覚は「私は…と考える」という表象を自己言及的循環として反復的に継続して産出しつつ閉域を形成して単一性と自己同一性を維持する、言い換えれば単位体の自己として存在し続ける活動である。』 p9より引用 『カントが現実性を経験の質料的制約としての感覚への関連と定義しつつ、感覚や直観ではなく単なる意識である「『私は…と考える』が私の現存在を規定する活動を表現」(B157Anm.)し、それだけで私の現存在を与えることができると主張するのは、しばしば矛盾とされるが、システムが構成素を産出する限り存在するとするオートポイエーシス論から言えば不自然ではない。 超越論的統覚をオートポイエーシス・システムと考えると、なぜそれが経験的統覚から区別されるのかが明らかになる。カントは経験的統覚を内官とほぼ同一視しているがxix、正確に言えば、内官によって我々自身に現象するように意識に提示されている我々が経験的統覚になろう。カントは「いかにして私が私にとってそもそも客観、それも直観と内的知覚客観でありうるか」(B155f.)を論じており、この私にとって客観となった私が経験的統覚である。これは内的直観が綜合統一されたものに他ならない。さて、前述したように、オートポイエーシス・システムは二重の自己、システムの自己とそれによって産出されるシステムの構造の自己を持つ。つまり、超越論的統覚がシステムの自己であるとすれば、それによってその都度産出される私の内的表象の総体である経験的統覚はシステムの構造の自己に相当するわけである。その都度の構造の自己同一性がシステムの自己同一性によって保証される点も、カントの議論と一致する。カントが経験的統覚と内官をほぼ同一視して受容性とするのは、産出された表象が産出するシステムから見て受動的な立場にあるからであろう。』 引用終了
様々な条件で「台風」個体が生まれるように(考えられるように)、自我も個体として存在するように現象するのかもしれないな、とこの投稿を書きながら思いました。
直知できるのは、目の前のものだけだけど、統覚とかは推論なんかな、って思ってしまう。だから権利問題なんかな。 わかんないな。
No44298 >カントの「統覚」には、「経験的統覚」(ea),「根原的統覚」(ua),「純粋統覚」(ra),「超越論的統覚」(ta)があるみたいで、(ua)(ra)(ta)と(ea)とは明らかに区別されてるらしくて、そして No44224のQから、わたし「根原的統覚」=「純粋統覚」ってして見たんだけど、 〈(ua)=(ra)〉=(ta)なのか、〈(ua)=(ra)〉≠(ta)なのか、 そもそも、(ua)≠(ra)で、(ua)≠(ra)=(ta)なのか、(ua)≠(ra)≠(ta)なのか、 ここんところがわたしにはいまいち分かんないでいるのね。<
No2296で引用した文章では、 (ua)=(ra)=(ta)みたいに読めてしまうけど、どうなんだろうね。 No2296を引用しますね。 ※アクセス禁止になるので投稿引用文から英文を削除しますねm(__)m
-------------------------------------- 『こんばんは >カント哲学において統覚は、経験的なものと純粋なもの、の、二種類に分けてるみたいです。 1.経験的統覚 2.純粋な根源的統覚 (カント事典p373)< について、実際はどうなのか、『純粋理性批判』を少し読んでみました。
む、難すぎる ((((;゚Д゚)))))))
ですが、とりあえず、カント哲学においては【純粋統覚と根源的統覚と超越論的統覚】はかなり一緒な感じみたいだとわかる箇所がありました。ので、カントの文章から引用します。 この3つは、《経験的》と区別されるようです。 (つまり、経験的なものでないのが、 【純粋統覚】であり 【根源的統覚】であり 【超越論的統覚】である、ということですね。)
『純粋理性批判2 カント 中山元訳』p116〜より引用します。 同じ箇所のMeiklejohnさんによる英訳も引用します。
『第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的な統一について』
『わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。』
『(略)だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。』
『しかしこのような像が生まれるのは、人間の自発的な営みによってである。そしてこの像は、感性に属するものと考えることはできない。』
『わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、純粋な自己統合の意識[=統覚]と呼ぶことにする。』
『これはあるいは根源的な自己統合の意識とも呼べるが、それはこれが、わたしは考えるという像を生みだす自己意識だからである。』
『(略)わたしはこの統一をさらに、自己意識の超越論的な統一とも呼ぶ。』
『それはこの統一によってこそ、アプリオリな認識が可能となることを示すためである。』 』
それではね〜(^▽^)/
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