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Re[17]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/21(Sun) 14:05:26)
| きょうは切りのいいところまで書いとこ。
No44223のつづき、
No44173のようなカント用語のわたしの見方、 『自己意識』→<(私が存在する)と(私は考える)> 『一つの意識(『私』という自己意識)』→《<(私が存在する)と(私は考える)>の<一なる(私)>》 この<一なる(私)>っていうのは(私が存在する)と(私は考える)の両方にかかってて、後者は運動を表してるのね。 『一つの』→(私) で、(KI)のO以外のところで、カントの言う『自己意識』っていうところが出てきてるところをもういちど見て見ると、
―――――――――― Hしかしおよそ経験的意識は、先験的(個々のいかなる経験よりも前にある)意識に対して、即ち根原的統覚としての私の自己意識に対して必然的関係をもつものである。 は、 H経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉は、【(個々のいかななる経験〈経験的悟性加工認識〉よりも前にある)超越論的−意識〈超越論的コギト(私は考える)〉=根原的統覚としての私の自己意識<(私が存在する)と(私は考える)>】に対して、必然的関係をもつ。 ってなる。簡単に、 (Ha)「経験的意識」は、「超越論的意識=根原的統覚としての<(私が存在する)と(私は考える)>」と関係をもってる。
―――――――――― Iそれだから私の認識において、一切の意識が一つの意識(『私』という自己意識)に属するということが絶対に必要である。 は、 (Ia)私の認識において、すべての意識〈コギト(私は考える)〉が、《<(私が存在する)と(私は考える)>の<一つの(私)>》に属することが絶対に必要である。
―――――――――― Q(私は考える)という表象を純粋統覚あるいは根原的統覚と名づけて経験的統覚から区別する。純粋統覚は(私は考える)という表象を産出する自己意識であって他の統覚から導出せられ得ないものだかである 132 は、 (Qa)(私は考える)という表象〈私が私の前に(私は考える)を立てるということ〉を純粋統覚あるいは根原的統覚と名づけて経験的統覚から区別する。純粋統覚は(私は考える)という表象〈私が私の前に(私は考える)を立てるということ〉を産出する自己意識<(私が存在する)と(私は考える)>であって他の統覚から導出せられ得ないものだかである ってなる。 これから、カントのは、 (k2)「純粋統覚」=「根原的統覚」 ってしていいのかな。ってすると、 (a2)「統覚」は<(私が存在する)と(私は考える)>であり<一なる(私)>である。 の「統覚」を「純粋統覚(根原的統覚)」のこと、ってして見ると、 (a2-2)「純粋統覚(根原的統覚)」は<(私が存在する)と(私は考える)>であり<一なる(私)>である。 ってして見ていいのかな。
―――――――――― ㉑根原的統覚においては一切のものは自己意識の完全な統一の条件に必然的に適合せねばならない。A111 は、 (㉑a)根原的統覚(純粋統覚)においては一切のものは自己意識<(私が存在する)と(私は考える)>の完全な統一の条件に必然的に適合せねばならない。
―――――――――― K種々な経験的意識は、すべて一つの自己意識において結合せられていなければならない、という綜合的命題は、我々の思惟一般の絶対に根原的な綜合の原則である。 は、 (Ka)経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉は、一つの自己意識〈(私)の<(私が存在する)と(私は考える)>において結合せられていなければならない、という綜合的命題〈判断を言葉にして表したもの-「qはpである」〉は、我々人間の思惟一般の絶対に根原的な綜合の原則である。
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