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Re[20]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/26(Fri) 19:11:45)
| カントのカッコで括られた私―(私)について、 中島さんが、 No44106の(NtS)で言ってるように、そして「自我」っていうのを(私)ってして見て、 自我(私)=作用体=超越論的統覚 ってして見てして見とくことにした。 「超越論的統覚」っていう働きするものを(私)、ってして見るっていうことね。 で、 その(私)っていうのは、そういう“感じ”的な?感性的なものであって、でもそれは、我々人間にはこれを知り得ることはない的な?だから、何かそのようなもの的なXとして。そして、〈私は考える〉の、その考えること・考えられたもの・その私、それらを同一性ならしめるようなもの的な(私)。 こんな感じのをカントの(私)ってして見とくことにしたよ。
平素的なわたしの言い方で簡単にして見ると、 我々人間には知り得ることはないけど、なんか感じられるXである(私)なんだけど、そのような「(私)は存在する」、っていうことがカントには「認識」されてる、 って言うことになるかな。
おまけなんだけど、 「認識」を〈qはpである〉ってしたとき、このばあい、〈q〉が(私)で、〈p〉が「存在する」、っていうことになるとわたし思うんだけど、でも、ふつうに考えると、「(私)は存在する」から吟味しなくちゃならないんじゃないかしら? もっともNo44106の(資料Ap)に〔自我を反省的に捉えようとする試みがカント自身において行われていない…〕ってあるから、カントの(私)にはこれ以上は関われないことになるのかもね。
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