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Re[23]: つれづれなるままに 20
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/29(Sun) 08:59:13)
| おはようございま〜す。朝から分けの分からないカントのだけど。
カントの「経験的認識」っていう語、あらためて調べたら、 No40965にすでに抜粋してた(あのときは「ア・プリオリ」で見て見たんだけど)。書き写し間違いがあったので、再掲してもう一回見てみるね。
No41672(本Ko)、 (K-ar)――――(p59) したがって、以下でア・プリオリな認識とは、この経験やあの経験から独立に生じる認識ではなく、すべての経験からたんてきに独立に成立する認識のことである。この意味でのア・プリオリな認識には、経験的認識、言い換えれば、たんにア・ポステリオリにすなわち経験によって可能な認識が対置される。さらに、ア・プリオリな認識の内で、まったく経験的なものが混入していない認識は純粋と呼ばれる。たとえば、「それぞれの変化にはその原因がある」という命題は、ア・プリオリな命題だが純粋ではない。なぜなら、変化は、経験からだけ引き出すことのできる概念だからである。 ――――――――(B2f.) わたしの見方で、 『この経験』『あの経験』→《知覚〈主観/素朴的〉》 『経験的』→《知覚〈主観/素朴的〉・経験〈客観/科学的〉」》 『経験』→《経験〈客観/科学的〉》 ってして見ると、 A(K-ar)―――― したがって、以下でア・プリオリな認識とは、《知覚〈主観/素朴的〉》から独立に生じる認識ではなく、すべての《経験〈客観/科学的〉》からたんてきに独立に成立する認識のことである。この意味でのア・プリオリな認識には、《知覚〈主観/素朴的〉・経験〈客観/科学的〉」》認識、言い換えれば、たんにア・ポステリオリにすなわち《経験〈客観/科学的〉》によって可能な認識が対置される。さらに、ア・プリオリな認識の内で、まったく《知覚〈主観/素朴的〉・経験〈客観/科学的〉》なものが混入していない認識は純粋と呼ばれる。たとえば、「それぞれの変化にはその原因がある」という命題は、ア・プリオリな命題だが純粋ではない。なぜなら、変化は、《経験〈客観/科学的〉》からだけ引き出すことのできる概念だからである。 ―――――――― ってなる。 『たんてき』なんだけど、ネットで調べたら、 【端的】デジタル大辞泉 1 はっきりとしているさま。明白。 2 まのあたりに起こるさま。たちどころであるさま。 3 てっとりばやく要点だけをとらえるさま。 ってあって、ここでは「明白」ってして見て、
A(K-ar)を簡単にすると、 @ア・プリオリな認識とは、《知覚〈主観/素朴的〉》から独立に生じる認識ではなく、《経験〈客観/科学的〉》から明白に独立に成立する認識。 Aア・プリオリな認識には、《経験〈客観/科学的〉》が対置される。 Bア・プリオリな認識の内で、《知覚〈主観/素朴的〉・経験〈客観/科学的〉》なものが混入していない認識は純粋と呼ばれる。 ってなる。カントにおける「ア・プリオリ」と「純粋rein」の違いが書いてあるみたいなんだけど、わたしにはいまいち分かんない。 カントのを見るとき、「経験的認識」と「ア・プリオリで純粋な認識」って大きく分けとばいいのかな。
・Aでちょっと想い出したのが、カントの問い、何度も書いてるけど、 No40973に、(本Ko)から抜粋した、 (rein)―――――(P74-76) 形而上学が可能であるとしたら、ア・プリオリな総合判断が可能であるはずです。… (KoN)『いかにして純粋数学は可能であるか』 (KoO)『いかにして純粋自然科学は可能であるか』 (B20) 上述のように、純粋数学の判断はすべてア・プリオリな総合的判断です。自然科学の原理を扱う純粋自然科学もまた、ア・プリオリな総合的原則からなるはずです。こうした問いにおいて「いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるか」を明らかにするなら、それは形而学の可能性に光明を見いだすことになるかもしれません。 ――――― のところ。 この〔ア・プリオリな総合的判断〕っていうのを「ア・プリオリな認識」=「経験〈客観/科学的〉認識」ってして見て、 「ア・プリオリな認識」と「経験〈客観/科学的〉認識」が対置された結果、〔純粋数学の判断はすべてア・プリオリな総合的判断〕って、カントには見られたのかも?しかも「純粋」がついてないとダメなやつね。
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