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Re[11]: 究極の言語、表現力極大言語
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□投稿者/ knowingitself -(2025/04/28(Mon) 16:13:26)
| ザビビのふくろうさん 遅れてすみません
> ■No42726に返信(knowingitselfさんの記事) >>ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。 >> >> >>>おっしゃるとおり、今でも現象主義的解釈を採らない研究者のほうが多いと思います。 >>ですが、もちろん私見にすぎませんが、それがドグマのように私には思われるわけです。 >>これはアカデミズムのマイナス面じゃないかと思うのですが、前述しましたように、論理実証主義の失墜とともに、『論考』を論理実証主義と同じように解釈することへの一種のアレルギー反応があったように感じられるんですよね。 >>前述もしましたし、詳しくはもう述べませんが、はっきり言って、状況証拠(ウィトゲンシュタインが哲学に復帰してからの各種資料)から考えても、『論考』が現象主義言語を念頭に置いていたことは、最も自然で明らかだと私は思います(アカデミズムではこれだけでは根拠になりませんが(笑))。 >> >>質問させてください。現象主義言語と対になるのは何言語でしょうか?日常言語? >> > 物理的言語です。 > これは日常言語をそう見なすこともあるし、物理学で用いられる科学言語を指す場合もあるように思います。 > 私には確定的な答えを与えることはできません。
「『論理哲学論考』を読む」野矢茂樹 文庫版208〜209には、
意識現象に対して、「私」とか「彼女」といった人称的主語を拒否し、ただ現れだけを記述する。英語でit、ドイツ語でesを使うように、非人称化する。それが現象言語だと書いてありますね。
そうであるならば、まったく特殊な言語というべきで、日常言語でも科学言語でもないですね。
たしかに、現象言語を採っている学者は、最近の人にはいないのかもしれません。
>>野矢さんは確かに日常言語ですね。 >> >>古田さんや大谷さんはどうなっているのでしょう。 >> > > 彼らがどう捉えているかは、現象言語についての記述がざっと見た限りですがなかったので、よくわかりませんでした。 > > ■No42727に返信(knowingitselfさんの記事) >>『論考』においてウィトゲンシュタインは、特定の時期の特定の日常言語(日本語、英語、ドイツ語、フランス語等々)によって語りうることの限界を探っているのではない。そうではなく、彼がこの書物で想定しているのは、世界に起こりうる事態の一切を漏らさず表現できるだけの機能と構造を定義上備えた言語ー言うなれば、〈究極の言語〉である。そのうえで、〈究極の言語〉をもってしても語りえないことがあるということを彼は証し立てようとする。 >> >>「はじめてのウィトゲンシュタイン」古田徹也 p40 >> >> >>鬼界彰夫によると、ウィトゲンシュタインは人間の言語は「表現力極大言語」であると考えていたとなっているが、 >> >>ほぼ同じ内容なのか? > > 同じようですね。 > > 古田徹也『ヴィトゲンシュタイン 論理哲学論考』角川選書102頁参照 > > 現在スマホで、引用までする余裕がありません。m(__)m
同じだと思います。鬼界さんと古田さんでは、ウィトゲンシュタイン解釈は違うと思いますが。
この二人について、ザビビのふくろうさんは、どのようにみておられますか?率直なご意見を伺いたいと思います(笑)
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