□投稿者/ knowingitself -(2025/04/24(Thu) 15:38:53)
| 『論考』においてウィトゲンシュタインは、特定の時期の特定の日常言語(日本語、英語、ドイツ語、フランス語等々)によって語りうることの限界を探っているのではない。そうではなく、彼がこの書物で想定しているのは、世界に起こりうる事態の一切を漏らさず表現できるだけの機能と構造を定義上備えた言語ー言うなれば、〈究極の言語〉である。そのうえで、〈究極の言語〉をもってしても語りえないことがあるということを彼は証し立てようとする。
「はじめてのウィトゲンシュタイン」古田徹也 p40
鬼界彰夫によると、ウィトゲンシュタインは人間の言語は「表現力極大言語」であると考えていたとなっているが、
ほぼ同じ内容なのか?
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