| ■41575 / ) |
Re[66]: つれづれなるままに
|
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/29(Sat) 17:46:47)
| もし、カントのが 〔人間ならざる知性的存在〕〔知的直観〕〔直接的悟性〕(G)―vs―「私たち人間の経験的認識」(H) っていうなかで考えてるんだとしたら、ね。
まず(G)のようなのをカントが想定して(前提として)、それからそれに対して(H)を考えたのは、 たぶん、 No41109で見たような、 (a)「形而上学」⇒人間の経験-感性的知を超えたところに、普遍・必然的な知があるとする学問 ってしたとして、 そして『純粋理性批判』でのカントの問い、 No40973で見たような、 (KoQ)『いかにして学問としての形而上学は可能であるのか』 (B22) みたいなのがあるからだと思う。
でもね、 私たち人間の経験(感性)的認識を見ようと(考えようと)するとき、(G)のようなのを想定する(前提とする)必要があるのかしら?って。
わたしには(G)のようなのないから、カントの『純粋理性批判』、分け分かんないんだと思う。
でね、(G)vs(H)っていう見方から(G)をナシに(カントのように捨象)しちゃって、主に(H)に関することについてカントのから抜き出して見よっかな、って。
ん?それじゃカントのを読む意味ない?-----〈神的〉なのを念頭においている人にとっては-----そうかもね。
でも、今から思うと、わたしがカントのから知りたかったのは、私たちの経験的認識(日常の認識や科学的認識〉について、カントはどう見てる(考えてる)のかな?っていうことだったような気がしてる。 だって、メルポンは「私」や「日常の生活世界と私とのかかわり」について考えてるみたいだし。
こういうのから、わたしのばあい、 No41410の(資料E)には興味あるのかも。
なんかお喋りしてて、『純住理性批判』からわたしが知りたいところが絞れてきた感じ。
|
|