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No18110 の記事


■18110 / )  Re[37]: 「私」と「わたし」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/31(Sun) 09:22:45)
    ちょっと思ったんで書いとくことにしま〜す。

    No11447
    【フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。】ってメルポンは言ってたのを想い出してる。

    日常的に使われてる「人」、これをわたし「私」ってしてる。
    そして「私」と「わたし」を区別して見てるんだけど、ちょっとここんところ、わたしに見えるようにしとく。

    ここ、文字だけでの表現だから、意味的に異なるものを表言するのに語を違えないとごちゃごちゃになっちゃうから、ちょっとここで、口語のばあい、「ワタシ」って言うのを使って区別して置く。
    わたし、いろんな人に「私」っていうのあると思ってて、いろんな人が「ワタシは…と思う」とか「ワタシは…が好き」みたいに「ワタシ」を使ってるよね。このようなときの「ワタシ」は「わたし」に近いかな。

    No18045の、
    〔個別的・具体的な「この私」〕を、わたし「わたし」って表言することにしてるんだけど、わたしの表言する「私」っていうの、それとは違う感じのものとして区別してる。

    No17618の、訳注〔7〕に、
    〔ハイデガーのめざすものは、個別の具体的な実存の振る舞い方の記述ではなく、実存一般を「構成している」「存在論的な諸構造の連関」、すなわち「実存性」の解明にあり、しかも、それは存在了解を含み、存在の意味(真理)と深くかかわっている。自分の思索は、実存哲学というよりは、むしろ当初から一貫して、存在の思索であったのだと〕
    ってあって、ハイデガーの場合、〔個別の具体的な実存の振る舞い方の記述〕じゃなくて、〔実存一般(実存性)〕の解明みたいだけど、どちらかというと、わたしの言う「私」っていうのは、こんな感じのみたい。
    もっともわたしのは「解明」とか「存在論」っていうそういうんじゃないけどね。

    わたし前に「実存哲学」と「実存哲学の形式」の区別、ってしたけど、言い方を変えて、前者を「個別的実存」、後者を「一般的実存」ってすることにする。
    でね、「実存」として「私」を見るとき、「一般的実存」として「私」を見ようしているとき「実存私」、「個別的実存」として「私」を見ようとしているとき「実存わたし」って表言して区別することにした。

    「わたし」と「私」って区別して見たんだけど、そうすると次のようなことが問題となってくるのかな。(メルポンは分けたものの関係性を見ることってしてる見たいだから)

    (1)「私」と「他者」との関係性
    (2)「私」と「わたし」との関係性

    (1)は他我問題?ん、あまり難しく考えないで、〈「私」のうちに、fremdがどのように「他者」として現れてくるのか〉っていう問題かな。 フッサールのは、
    No15221にあるようなもの。『デカルト的省察』の第50節の題は「他者経験は、「共現前」(類比による統覚)として、間接的な志向性をもつ」。

    (2)についてなんだけど、現象学のを読んでるなかで、わたしに思いついたのが「志向性」。
    No15250に、〈自〉(わたしが勝手にそうしっちゃものね)について書いて見たけど、
    「私」の〔身体と、〈自〉(身体と直接キアスムしている、原初的で固有の、志向的生の主体)〕によって「わたし」(個別的・具体的な「この私」)ならしめてる、ってして見たよ。
    簡単に言っちゃうと、
    「私」の志向性が「わたし」。

    ひとまずこんな感じにしとく。


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