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■568 / inTopicNo.37)  Re[20]: またいずれ。
  
□投稿者/ パニチェ -(2018/08/01(Wed) 21:48:00)
    2018/08/01(Wed) 21:52:22 編集(管理者)

    ダンザさん、こちらこそ返信ありがとう。

    今度の土曜は仕事なので日曜にカキコしますが、返信を求めるものではありません。

    その後は、せっかくトピも作ったので、しばらくは〈私〉についてカキコできないことを承知でカキコしていこうと思ってます。

    それにしても普通に編集してるのに何で「編集(管理者)」になるんかなぁ〜。
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■567 / inTopicNo.38)  Re[21]: 久しぶりに
□投稿者/ なん -(2018/08/01(Wed) 10:54:50)
    ダンさん!!

    私のイメージでは、これは「立体的な曼荼羅図」になります。仏教の方ではなくて、ユングの方の。

    くるくる回る、立体ホログラム曼荼羅のロジック。もしかしたら、近いのは「分子構造模型」かもしれない。

    これは言語で説明するのは難しいわーーー!!だけは、思いました。
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■565 / inTopicNo.39)  Re[20]: 久しぶりに
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/08/01(Wed) 02:04:46)
    なんさん、読んでくださりありがとうございます。

    ワニですみません。

    先ほど補筆した投稿記事もできれば読んでみてください。更にワニ論に困惑されることになりかねないのですが。


    ますます混乱してもらうために更なる補筆を加えるとするのならば、次のようなレトリックになります。

    哲学・心理学・科学・言語学・美学などすべての学問の多様で重要な断片を方程式とし、連立方程式に組み込めるものだけを100個だとか200個選別し、連立方程式化した10個だとかの変数に何を入れても、それぞれにちなんだ解が現れる。この、200個の方程式で表される連立方程式が海図です。わりと数学的な考え方の構造です。


    相当な酷暑ですので、なんさんもご自愛くださいね。



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■563 / inTopicNo.40)  Re[19]: またいずれ。
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/08/01(Wed) 01:07:42)
    丁寧なレスをいただき、本当にありがとうございます。


    説明足らずで勝手に去ろうとしてすみません。最後にできる限りの説明を試みます。


    まず、パニチェさんのせいではない、私に全面的な非があるということを書き過ぎたために、かえってパニチェさんに負い目の気分を味あわせてしまうこととなってしまいました。重ね重ね申し訳ないというほかないのですが、そう書けば書くほどそういうことになってしまうので、どう書いたら良いのかわかりません。

    一つ言えるのは、対話相手がパニチェさんだったからではないということです。
    普段、ふつうの会話をするのには問題なく意思疎通できますしジョークを含めよくしゃべるほうですが、例えばビジネスの場面で新しいプロジェクトのプレゼンをする時たまにあるのですが、話が通じなくなります。皆さんあっけにとられたような顔で、返ってくる質問といえばズレているものばかり。これは私の独りよがりで、自分が解っていることを例を交えるなどして丁寧に説明せずに、しかも中間部分をざっくり省略してしまうなど、要は、相手に解ってもらうことは第一義ではないという姿勢に問題があるのです。


    ますます混乱させてしまうかもしれませんが、私の議論の主たる対象はロジックです。ふつうはロジックによって「何を主張したいのか」になるかと思いますが、ロジックそのものということです。

    例に相応しいかどうか一抹の不安がありますが、例えば、このニーチェクラブのサイトの「構造」の創造のようなものです。


    拙小論の概観の下に流れるロジックを例にとります。

    拙小論の概観において言語で何も書いていないことが対象となっていて、これは、古代ギリシャ時代のsubiectumの概念から始まるSubjekt〜subject(主体/主観)の哲学の歴史、Subject―Objectの二元対立からカントによるSubject→Objectへの逆転、主体/客体の概念から主観/客観への変化(私は主観/客観という邦訳は西周のミスだと思っていますが)、このSubject―Objectの重層的かつ複雑的、或いは自由自在なSubjectの設定。西洋哲学の存在論/認識論、実在論/観念論、その他唯物論(科学)や唯名論、更には心理学を含めて、一つの設計図におとしこむことができる、できたのではないかと。この海図を用いれば、デカルトの『哲学原理』もカントの『純粋理性批判』もフッサールの『デカルト的省察』も楽に読解できる。そのほか同種の論を論述してきた哲学者たちの「何を言ったのか」という内容よりも断然重要な、その哲学者の“思考のはたらき型”を説明できる。ハイデッガーの(晩年に自分で気づいた)存在論の間違いも。そして西洋哲学の陥穽についてもこの海図で説明できるのではないかと。その陥穽を克服できるのは「私の存在しない」Objectだけの世界観でそれも海図に入れたのです。インドヨーロッパ言語圏の言語ではその世界は表現できないが日本語ならば表現できる。(『日本語に主語はいらない』『像は鼻が長い』などの国語学者の文献を幾つか参考にしています)

    その母国語を使う民族は、母国語にちなんだ世界観をもつため、西洋人と日本人はもともと違った世界を見ているとなります。そのどちらも包括できる地図。


    この海図が私の対象だったんです。


    その海図上では「私の存在しないObjectだけの世界観」にのみ知覚的世界があり、他の視座(視座というと視覚を思い浮かべるかもしれませんが全く違っていて、言わば視点のない視座)で思考したり省察したりする世界は「意味と価値の世界」であって、こうして私がここへ書いている全文も、パニチェさんが書いている全文も、通称、神の視点(視点忘却的な仮設定の視点)を使っているとなるんです。たぶんとても承服できないでしょうけど。

    世界に意味と価値を与えるではなく、意味と価値“で”世界を作っている、という海図です。これは、大森荘蔵が紹介している「全盲の達っちゃん」のなかで、全盲の男の子が晴眼者ばかりの幼稚園に入園し、その後、全盲の子と晴眼者の子たちとほぼ完全な意志疎通が行えるようになってサッカーの試合ができたという実話から、大森は他我論の克服へ向かうのですが、そこからヒントを得て、私は、人間が活動しているリアル世界は実は意味と価値の世界であって、知覚的世界(主として視覚的世界)はそのフォローをしているだけというロジックに基礎を築きます。

    もっとも重要な意味・価値的世界観視座は、意味と価値(記憶や感性、感情も含めて)の全てを内包したコアな主格・主体を無意識下にしたがえ、自分の存在さえ消してしまったObjectだけの世界に対峙する視座であり、(こう書いてしまうと書いている自体が神の視点で違うのですがそれは横に措き)、そのいきいきとした生のナマの実感とナマの(思考に寄らない、或いは思考を中間省略した)言葉こそまさに人間らしい、否、これこそ人間そのものではないかと思うのです。この視座と、この視座を使った言動だけは唯一、神の視点を使わない。そのナマの世界において人類全部が幸せになるためには、欲求に直結する無意識下の価値を個々がどのように作るかにかかります。


    その海図に足りないのは同一性の力動論だとか価値論、意志論で、今その肉付けをするためにいろいろな文献からヒントを得たり考え込んだりしています。この海図をアップデートしていくことによって、人間が価値と意志をもつまでの構造が徐々に明らかになり、その基礎構造の上に、現代人類が想像もできないような新しい価値を建設できるのではないかというのが目的です(もちろん数百年後だとか数千年数万年後にです)。

    ますます理解不能になられたかもしれませんが、2時間半ほどかけてこれだけしかまとめ切れない私の言語能力をご理解いただければありがたいです。おそらく抽象論のみになってしまっているところにも理解を困難にしている原因があるのかなと、今思いました。堅くてつまらない文章です。レトリックを練習して習慣づけなくてはなりませんね。


    今は自分のことでいっぱいいっぱいになっているところもありますので、またいずれお邪魔致した際にはよろしくお願いします。年齢的にも油断せずにご自愛くださいね。



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■562 / inTopicNo.41)  久しぶりに
□投稿者/ なん -(2018/07/31(Tue) 23:30:19)
    この感じは、久しぶりだなぁと読んでおりました。私の理解度は限りなくゼロに近いので、ちゃんと言えることは何もないのだけど、読み応えのある応酬で読ませてもらえてうれしかったです。

    パニさんに冷蔵庫の明かりや、カニッツァの三角の図形の比喩を教えてもらったなぁと懐かしく思い出されておりました。たくさん質問して答えてもらえて嬉しかったなぁあの時も。

    ダンさんは相変わらずワニっぽくて、なんというか、日本語喋れるようになったワニが自分の見え方を説明してくれようとしているような感覚とイメージの違いがあって、ついていけない理解できない自分をもどかしく感じるのでした。

    息子は「自分はマトリョーシカ。開けても開けても続きがあって、最後は多分空っぽなのが、最高の不条理」って言ってて、
    私は「ワイスのひよこの思考実験みたいに、物質的には同一でも、なんか違うのところにある私ってのもあるのかなぁ」と思ってます。

    いずれ続きが読めるといいなぁと読者決め込んでます。ありがとうございました。
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■561 / inTopicNo.42)  Re[18]: またいずれ。
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/31(Tue) 21:58:11)
    なんか、こちらこそ申し訳ないです。
    ダンザさんのカキコへの飲み込みの悪さや無関係なレスは私の問題です。
    でも無駄で無益な労力をかけたなんて、とんでもないです。
    久しぶりに知的好奇心をそそるような刺激的なレス交換でした、例え互いに噛み合っていなくとも、私にとっては。

    〈私〉に関しては原理的に誰よりも私が知っています。
    だからダンザさんが〈私〉としているものとは違うことだけは分かるのです。
    その一方で先にも述べましたがゴウさんや、「〈仏教3.0〉を哲学する」の共著者である藤田一照氏や山下良道氏らが語るところの〈私〉が消滅するような地点(これがダンザさんが語ろうとしているものと同一かどうかは分かりませんが)が〈私〉を突き抜けたところにある可能性もゼロではないと思っています。
    ただ現段階では、それはありえないし、〈私〉の存在が無いなんてことが在りえないし、想像もできないってのが正直なところです。

    私はダンザさんが語ろうとしている対象が理解できていません。
    〈私〉についての論考でなくとも、それはいいのですが(テーマが違っても気付きはありえると思うので)、互いに異なる対象について語っていては議論が成立しないというのは分かります。

    > 7月6日に頂いたレスもそうでしたし、「対象化」のロジックについてパニチェさんにご理解いただけるまでに約3週間を要しました。拙小論については、全体のロジックを先にご理解いただかないと一行たりとも理解不能だと思います。そのロジックを私が説明するとなるとおそらく2万文字以上と20枚以上のチャートによる説明を要します。なおかつ今回の「対象化」のように粘り強く説明するとなると、パニチェさんにご理解いただけるまでに数か月か数年を要することに成りかねません。そこで初めて議論がスタートとなるので、今の私の状況では難しいということをご理解ください。
    > もっと上手にロジックを説明できる能力が私にあれば良いのですが、それが無いために、深いところのロジックの全体的な流れに気づかれずに、浅いところの言語の表面だけを、しかも部分的に切り取られ引用されてレスを受けてしまう。「対象化」のときも7月6日のレスの時も同じで、今思えば、最初に、「部分引用レスをなさらないで全体的なレスを付けてください」という要請をすれば少しは違ったのかもしれません。

    対話者が私であったためにダンザさんが語ろうとしている対象にかすってなかったということですね。
    申し訳ない。何が浅くて、全体的な流れがなんなのかさえ私には分かりませんでした。
    でも、私的には収穫はありました。ありがとうございました。

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■560 / inTopicNo.43)  またいずれ。
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/31(Tue) 18:55:15)
    いろいろとありがとうございました。

    対話議論の方向性とは全く異なりましたが、個人的な議論の中でに一つの大きな閃きを得る機会に恵まれましたので有意義な時間でした。パニチェさんも一歩進んだとのことでそれは私にとって嬉しいことでした。

    拙小論内容については、”以上が私の〈私〉ロジックに対する概観であり、「それは〈私〉ではない」と拒否されているのですから今後は上述の小論について当掲示板で触れることはありません。同意、反論、共感、理解、不理解の別、などは必要としません。”

    以上のとおりで触れません。


    なぜ私の論考は誤解を招くのか、全く無関係のレスが付いてしまうのかについては今後の課題です。

    7月6日に頂いたレスもそうでしたし、「対象化」のロジックについてパニチェさんにご理解いただけるまでに約3週間を要しました。拙小論については、全体のロジックを先にご理解いただかないと一行たりとも理解不能だと思います。そのロジックを私が説明するとなるとおそらく2万文字以上と20枚以上のチャートによる説明を要します。なおかつ今回の「対象化」のように粘り強く説明するとなると、パニチェさんにご理解いただけるまでに数か月か数年を要することに成りかねません。そこで初めて議論がスタートとなるので、今の私の状況では難しいということをご理解ください。

    もっと上手にロジックを説明できる能力が私にあれば良いのですが、それが無いために、深いところのロジックの全体的な流れに気づかれずに、浅いところの言語の表面だけを、しかも部分的に切り取られ引用されてレスを受けてしまう。「対象化」のときも7月6日のレスの時も同じで、今思えば、最初に、「部分引用レスをなさらないで全体的なレスを付けてください」という要請をすれば少しは違ったのかもしれません。

    いずれにせよ、私に、全面的に責があることですので無駄で無益な労力をパニチェさんにさかせてしまい、大変申し訳ございませんでした。


    また、私の〈私〉観念が「私」であろうとパニチェさんの〈私〉とは違っていようとも、“私にとっては”何の問題もなく無関係です。「真の〈私〉」なるものやその議論には関心がありません。〈私〉についての考察というのは私にとって断片であり、本来の目的のために利用する一つのファクターという位置づけです。なので、パニチェさんにとっては、パニチェさんの信念に基づく感覚的な〈私〉について探求・研究のお話をされたいということなのでしょうが、これも、ごめんなさい、私にはできませんでした。


    拙小論を書き置いたのは、このニーチェクラブの掲示板という場での議論の中で、方向性は違えども個人的な閃きの要素の中の一つを得ることが出来たことへの、私なりに筋道のけじめです。自分のサイトで論考を書く前にここにその概観でも書き留めねば筋がとおらないだろうという勝手な思いです。試論の全体としても主張未満であり、もともとあらゆる持論には固い信念や執着がないので、これを主張として誰かに通そうなどとは全く思いません。既に前の投稿記事から価値論を含めた構造へヴァージョンアップしているので、つまり、一週間経てば別の説明をしていかなければならない、というのも私の今後の課題です。


    くりかえしになりますが、前の投稿記事で触れましたように、

    “もし参考にできるところがあって、今後のパニチェさん固有の「〈私〉論」に生かしていただけるのなら望外の幸せです。

    この“心”に嘘偽りはありません。


    長くなりました。最後までお読みくださりありがとうございました。


    激暑のなか、パニチェさん、ニーチェクラブにご参加の方々にとりましても厳しい今年の夏ですが、暑さに負けず油断せず、8月を乗り切ってまいりましょう。



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■559 / inTopicNo.44)  論考
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/29(Sun) 10:48:42)
    2018/07/29(Sun) 10:49:07 編集(管理者)

    五・六三三
    世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。ここでの事情は眼と視野との場合と全く同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。そして視野における何者からも、それが眼によって見られていることは推論されえない

    五・六三三一
    というのも視野は決してこのような形をしていないからである
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■558 / inTopicNo.45)  「私」は〈私〉に非ず
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/29(Sun) 10:38:12)
    2018/07/29(Sun) 10:59:39 編集(管理者)

    おはようございます。昨日は野暮用で返信できませんでした。
    すんまそん。^^

    No554に返信(Danza Espanolaさんの記事)
    > 上記での「そもそもの〈私〉は在ります」という文言で、何かが「在る」の前には必ず「その何か」の対象化がなければならない。〈私〉を記述する以前に、パニチェさんの頭の中で対象化が行われているのです。
    > ですから、
    > 「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」に合意であるのならば、既に対象化し変質した、〈私〉という表記以前の何かの存在は既に変質しており、「〈私〉の存在など無い」に合意できるのではありませんか?
    > もしくは、「対象化で変質」を撤回し、「言語化で変質」にしますか?
    > (こちらの方はロジックとして間違っていないのは自明です)

    もの凄く的確な指摘です。
    言葉にした時点で〈私〉は変質する、これは間違いないのですが、自己のうちで変質するのかどうか内観したり確かめたりしてみました。
    これまで考えてもいなかったことで、これを試みることで一歩前進しました。

    例えは的確ではないですが〈私〉は自然(無意識的な)呼吸に似たところがあります。
    呼吸って意識した途端に意識的な呼吸になり、自然呼吸とは違うものとなってしまう。
    〈私〉もこれを分析しようとしたり、客体化してしまうと自己の内でも変質する。そういういうところは呼吸に似ている。
    ところが呼吸も〈私〉も意識したり客体化する以前から存在はしている。それは間違いないが、この理由や根拠を言葉にできない、もしくはもう少し深化する必要があるとは思います。

    > パニチェさんの感覚上の〈私〉ではないと断言されているので、この掲示板に記述するのは無意味と判断し小論を書くのはやめることにします。
    > とりあえずチャートは20枚ほど準備しておりましたが、約2万文字程度を予定していた試論は取り掛かっていませんでしたので、そう仰っていただき助かりました。

    ははは。^^

    > 私がイメージしていた〈私〉は哲学者が色々なところで「私」と書いていますが、下記に好例がありますので引用し、その下に小論の概観だけ記述しておきますね。

    ありがとう、手間かけました。

    ********************

    > デカルトもパスカルも「私」の視点から世界を見ることを一度は発見した。ところが、神的(視点忘却的)視点から世界を見る存在観が残っていると、この存在観に舞い戻ってしまう。これを防ぐのが、世界の存在に対する「判断中止」(エポケー)である。世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している、という信念にコミットせず、宙吊りにしておくのである。
    > この存在論的問題を踏まえたうえで、フッサールは続けて言う。「哲学者にとって・・・・・・「客観としての世界の中の主観性」であると同時に、「世界に対する意識主観」であるということの相互関係のうちにこそ、それがいかにして可能かということを理解すべき必然的な理論的問題が存しているのである。」
    > (中公クラシックス版 『フッサール デカルト的省察』前書きより)
    > ***** 以上引用終わり *****

    神的視点からせかいを見ているかのようなイメージは錯覚であって、それは存在感でもなんでもないように私には思えます。
    『世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している』というのは幻想や想像でしかない。
    上記は独我論が超リアルでああるのに対して、むしろSF的な世界観となります。つまり世界『世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している』という常識的とも言える感覚は厳密に言うと感覚ではなく幻像や妄想の類です。何故なら、私たちの感覚は決して超越論的感覚ではありえないからです。

    > 同書の翻訳は船橋弘氏ですが、前書きについては、哲学者の谷徹氏が39ページに渡っての長文で「フッサールの問いは終わらない」というタイトルで述べています。(※翻訳は岩波文庫版 浜渦辰二訳『デカルト的省察』の方が断然読みやすいので、これから読んでみようという方には岩波版のほうをお勧めします。)

    > そしてフッサールはその「私」の視座世界に現象学のすべてを還元しようとした。しかしその視座では「私」は存在しないし一切の言及ができない。(ウィトゲンシュタインが「『私の見た世界』という本があるなら「私」には言及できない」と述べていたとおりです。

    デカルトやフッサールは訳本を読んだことがないので分かりませんが。。。ウィトゲンシュタインは違うと思います。
    論考の五・六三三『世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。ここでの事情は眼と視野との場合と全く同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。そして視野における何者からも、それが眼によって見られていることは推論されえない。』に続く、五・六三三一(次のレスで図入りで引用しておきます)で『というのも視野は決してこのような形をしていないからである』は自分の眼や存在を含む世界を俯瞰する図は想像上のものであしかなく、ありえないことを示しているからです。

    > 彼らが、その視座では「私」が使えない、しかし存在論上では「私」は在る、という矛盾状態の「私」のことを、私は〈私〉としています。

    それは多分、〈私〉ではなく「私」だと思います。仏教で教えるところの無我の対象となる「私」で、超リアルな〈私〉ではありません。

    > 上記のとおりフッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーするのですが、私はエポケーせず、上記視座の私は存在しない、存在論視座の実在の私は確かに存在する、またもう一つの観念論的視座(パニチェさんが〈私〉と世界を俯瞰した視座です)の「私」は変質した言語になっているが私の存在を許容する、という立場をとり、三視座の矛盾をそのままにどこまでも純化します。

    ここちょっと理解できていません。〈私〉は観念論や存在論や認識論を止揚するとことの〈私〉です。また〈私〉と世界を俯瞰した視座は誤りであると気付いた視座(球面の底)ですが、それはよろしいでしょうか。
    その上で『フッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーする』ということの意味は原点の〈私〉に戻るということであれば理解できますが、判断を中止する対象を〈私〉としているのであれば、それは〈私〉ではなく「私」ということになります。その「私」は誰にでも当てはまるとのころの「私」であるからです。

    以下への返信は上記への返信をもらってからにしたいと思います。

    > この三関係性においては、通常、三視座の統合を目指す同一性がはたらいており、その同一性は、実在視座と観念視座の認識による価値に根源をなし、上記の私が存在しない視座に還元され価値に対する欲求となり意志となる。
    > この同一性は無意識下にはたらいているため、人は「自分は一つの視座返信で世界を見ている」と感覚しています。三視座に気づきません。哲学者でさえ、この三視座のダイナミズムの自覚なく、存在論や認識論を著述している部分があると私は考えています。
    > 「自分の中の三視座におけるロジックの整合性をとりたい」と無意識の中で同一性をはたらかせるのは人間に於いて当然であり、私のように、それぞれを純化して、「自己内矛盾大いにけっこう、第四の主観視座でまとめる方が良い」と考える変人は少ないのかもしれませんね。
    > 今の私は〈私〉については上記と認識していますので、次の段階として、この同一性を力動的観点、発生的観点から捉え直すことの考察が中盤に差し掛かっているという段階にあります。
    > 作成したチャートに関してはニーチェクラブでは掲載しないことに決めましたが、いずれ私の個人サイトで使うことが出来ますし、ビジネスとしてもコンサルティングにに活用できるので、作成についてはお気遣いなさらないようお願いいたします。要請されたわけでもなく、祝意として今週末を目指し勝手に作成していただけですので。

    以下は〈私〉ではなく「私」に関する考察としては同意できます。
    つまり言語によって形成されるところの「私」であり、万人にも共有可能な対象です。
    個別レスに対する返信は今回はペンディングさせてもらいます。

    > >>「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?
    >>感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。
    >>「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。
    > こうして「愛してる」と「愛している」の違いを感覚でき説明を試みることが出来るのは何故でしょうか。英語訳では I love you フランス語訳では Je t'aime としか書けない。それは「愛している」のほうです。
    > 「愛してる」という語感表現は、インド・ヨーロッパ言語圏では表現できません。

    > ウィトゲンシュタインが限界としたところがなぜ私には限界ではなかったかというのは簡単な理由で、ウラル・アルタイ語圏の日本文化に育った日本人だったからというだけです。

    > ********************
    > ウラル・アルタイ言語圏(そこでは主語概念がいちじるしく未発達である)の哲学者たちがインド・ゲルマン族や回教徒たちとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩きつつあるというのは、大いにありうることであろう。
    > (ニーチェ『線悪の彼岸』20番)
    > ***** 以上引用終わり *****

    > 主語概念が未発達な地域はともかく、日本の場合は武士の「拙者」や「われ」「わ」という主語は発達しており、この間接主観的一人称を省略するのではなく、禁じて表現する場面があり、一方で一人称を使用する場面(こちらは省略有)と使い分けてきたということです。
    > 『善悪の彼岸』では他にも、30番や54番など(他にもあったかと)でニーチェが自分の言語圏では捉えられない「視座」について触れている箇所があります。今更ながらその慧眼ぶりには脱帽です。
    > ※「 I 」を無くすことのできない文化のなかで、ミードは I(主我)について、「新生児は自己の周囲の社会的対象すなわち他者とのコミュニケーションを通して、次第に未組織な主我を組織化していき、ここに主体性としての主我が成り立つ。共同体の態度・期待・役割を内在化させた自我の部分を客我(me)とよぶ。主我は絶えずみずからを対象化(客我化)していく。」と述べています。

引用返信/返信 削除キー/
■556 / inTopicNo.46)  Re[17]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/25(Wed) 02:41:04)
    手荒な祝意でしたが好意的に受け止めて頂けたようで良かったです。

    先の私の記述では、補記しないと理解不能な箇所が幾つかあるなと今見て思いますが、そのままにします。

    今回は返信というよりも、パニチェさんご自身の論考を望んでいます。
    そういう「時」だとも思いますし。

    長期にわたり馴染んできた『〈私〉の哲学』の認識をわずかにでも変えることは多大なエネルギーを要すでしょうし、それよりも、パニチェさんの手による新たな“解釈の”地平が開かれることを期待しております。

    土曜日曜を楽しみに待ちます。(日曜朝〜月曜夜は不在の可能性有りです)


引用返信/返信 削除キー/
■555 / inTopicNo.47)  Re[16]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/24(Tue) 22:40:48)
    もの凄く興味深くて面白い返信です。
    なんかワクワクするようなレスです。
    特に頭に浮かべた時点で対象化しているのか、していないのかは、今まで考えもしなかった、もの凄い宿題です。
    答えが出せるかどうか分かりませんが、久々に強烈な知的刺激を受けました。
    じっくり考えて返信したいので、今度の土曜か日曜になります。
    ありがとう!^^
引用返信/返信 削除キー/
■554 / inTopicNo.48)  Re[15]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/24(Tue) 20:50:18)
    こんばんは!


    >>>>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    > >>上記はその通りです。

    「〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指すことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます」

    ということに同意されているのですから、


    > 「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」は合意ですが、そもそもの〈私〉は在ります。

    上記での「そもそもの〈私〉は在ります」という文言で、何かが「在る」の前には必ず「その何か」の対象化がなければならない。〈私〉を記述する以前に、パニチェさんの頭の中で対象化が行われているのです。

    ですから、

    「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」に合意であるのならば、既に対象化し変質した、〈私〉という表記以前の何かの存在は既に変質しており、「〈私〉の存在など無い」に合意できるのではありませんか?

    もしくは、「対象化で変質」を撤回し、「言語化で変質」にしますか?

    (こちらの方はロジックとして間違っていないのは自明です)



    > 了解しましたが、ここ平行線になりそうな予感もあります。^^

    > ここ聞いておいて申し訳ないのですが、(正直に言います)今回の返信からすると、やはり〈私〉については同じ対象(厳密には同じではありえないのですが)について話してないと思います。
    > ダンザさんがパニチェが言うから仮に「在るとしよう」としたところの仮の〈私〉のような気がしています。この段階で明確に言えることは、それは〈私〉ではないということです。

    パニチェさんの感覚上の〈私〉ではないと断言されているので、この掲示板に記述するのは無意味と判断し小論を書くのはやめることにします。

    とりあえずチャートは20枚ほど準備しておりましたが、約2万文字程度を予定していた試論は取り掛かっていませんでしたので、そう仰っていただき助かりました。

    私がイメージしていた〈私〉は哲学者が色々なところで「私」と書いていますが、下記に好例がありますので引用し、その下に小論の概観だけ記述しておきますね。


    ********************

    デカルトもパスカルも「私」の視点から世界を見ることを一度は発見した。ところが、神的(視点忘却的)視点から世界を見る存在観が残っていると、この存在観に舞い戻ってしまう。これを防ぐのが、世界の存在に対する「判断中止」(エポケー)である。世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している、という信念にコミットせず、宙吊りにしておくのである。

    この存在論的問題を踏まえたうえで、フッサールは続けて言う。「哲学者にとって・・・・・・「客観としての世界の中の主観性」であると同時に、「世界に対する意識主観」であるということの相互関係のうちにこそ、それがいかにして可能かということを理解すべき必然的な理論的問題が存しているのである。」

    (中公クラシックス版 『フッサール デカルト的省察』前書きより)

    ***** 以上引用終わり *****

    同書の翻訳は船橋弘氏ですが、前書きについては、哲学者の谷徹氏が39ページに渡っての長文で「フッサールの問いは終わらない」というタイトルで述べています。(※翻訳は岩波文庫版 浜渦辰二訳『デカルト的省察』の方が断然読みやすいので、これから読んでみようという方には岩波版のほうをお勧めします。)

    以上の、デカルト、パスカル、フッサール、(おそらくウィトゲンシュタインも)によって発見された「私」の視点ですが、裏を返せば、上記の哲学者以外は気づかなかった可能性があります。なぜ頭脳明晰な西洋哲学者たちが気づけなかったのかについては後述します。

    そしてフッサールはその「私」の視座世界に現象学のすべてを還元しようとした。しかしその視座では「私」は存在しないし一切の言及ができない。(ウィトゲンシュタインが「『私の見た世界』という本があるなら「私」には言及できない」と述べていたとおりです。

    上記の4名が語るに語れない「私」というのが、私の〈私〉観念です。

    彼らが、その視座では「私」が使えない、しかし存在論上では「私」は在る、という矛盾状態の「私」のことを、私は〈私〉としています。


    上記のとおりフッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーするのですが、私はエポケーせず、上記視座の私は存在しない、存在論視座の実在の私は確かに存在する、またもう一つの観念論的視座(パニチェさんが〈私〉と世界を俯瞰した視座です)の「私」は変質した言語になっているが私の存在を許容する、という立場をとり、三視座の矛盾をそのままにどこまでも純化します。

    その上で三視座の上から見下ろす第四の主観視座によって、その三視座構造が作りだす三つの関係性を吟味、省察し、その上で上記の一つの視座へ還元します。

    この三関係性においては、通常、三視座の統合を目指す同一性がはたらいており、その同一性は、実在視座と観念視座の認識による価値に根源をなし、上記の私が存在しない視座に還元され価値に対する欲求となり意志となる。

    この同一性は無意識下にはたらいているため、人は「自分は一つの視座で世界を見ている」と感覚しています。三視座に気づきません。哲学者でさえ、この三視座のダイナミズムの自覚なく、存在論や認識論を著述している部分があると私は考えています。

    「自分の中の三視座におけるロジックの整合性をとりたい」と無意識の中で同一性をはたらかせるのは人間に於いて当然であり、私のように、それぞれを純化して、「自己内矛盾大いにけっこう、第四の主観視座でまとめる方が良い」と考える変人は少ないのかもしれませんね。


    今の私は〈私〉については上記と認識していますので、次の段階として、この同一性を力動的観点、発生的観点から捉え直すことの考察が中盤に差し掛かっているという段階にあります。

    作成したチャートに関してはニーチェクラブでは掲載しないことに決めましたが、いずれ私の個人サイトで使うことが出来ますし、ビジネスとしてもコンサルティングにに活用できるので、作成についてはお気遣いなさらないようお願いいたします。要請されたわけでもなく、祝意として今週末を目指し勝手に作成していただけですので。


    >>「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?
    >
    > 感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。
    > 「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。

    こうして「愛してる」と「愛している」の違いを感覚でき説明を試みることが出来るのは何故でしょうか。英語訳では I love you フランス語訳では Je t'aime としか書けない。それは「愛している」のほうです。

    「愛してる」という語感表現は、インド・ヨーロッパ言語圏では表現できません。

    ウィトゲンシュタインが限界としたところがなぜ私には限界ではなかったかというのは簡単な理由で、ウラル・アルタイ語圏の日本文化に育った日本人だったからというだけです。


    ********************

    ウラル・アルタイ言語圏(そこでは主語概念がいちじるしく未発達である)の哲学者たちがインド・ゲルマン族や回教徒たちとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩きつつあるというのは、大いにありうることであろう。

    (ニーチェ『線悪の彼岸』20番)

    ***** 以上引用終わり *****

    主語概念が未発達な地域はともかく、日本の場合は武士の「拙者」や「われ」「わ」という主語は発達しており、この間接主観的一人称を省略するのではなく、禁じて表現する場面があり、一方で一人称を使用する場面(こちらは省略有)と使い分けてきたということです。

    『善悪の彼岸』では他にも、30番や54番など(他にもあったかと)でニーチェが自分の言語圏では捉えられない「視座」について触れている箇所があります。今更ながらその慧眼ぶりには脱帽です。

    ※「 I 」を無くすことのできない文化のなかで、ミードは I(主我)について、「新生児は自己の周囲の社会的対象すなわち他者とのコミュニケーションを通して、次第に未組織な主我を組織化していき、ここに主体性としての主我が成り立つ。共同体の態度・期待・役割を内在化させた自我の部分を客我(me)とよぶ。主我は絶えずみずからを対象化(客我化)していく。」と述べています。


    以上が私の〈私〉ロジックに対する概観であり、「それは〈私〉ではない」と拒否されているのですから今後は上述の小論について当掲示板で触れることはありません。同意、反論、共感、理解、不理解の別、などは必要としません。パニチェさんとは異なったことは残念ですが、もし参考にできるところがあって、今後のパニチェさん固有の「〈私〉論」に生かしていただけるのなら望外の幸せです。

    詳細について省くため、存在論と認識論の手段化についても省きます。



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